1章「瘴鬼と残月」その1

 穴場中の穴場、隠れた名所、などという言葉で紹介されるスポットは多い。しかし、それはつまるところ、たいして人が来ないことをごまかしているだけなのではないだろうか……。西崎にしざき沙織さおりは、その店のバーカウンターで一人でコーヒーを飲みながらぼんやり思った。店には、学校帰りに制服姿のまま立ちよった彼女のほかに客は一人もいない。そこそこの広さで、雰囲気も悪くないのにガラガラだ。平日の午後とはいえ、門前雀羅もいいところではないかと思う。一応、この店「アンブローシア」のマスターいわく、ここは穴場のカフェということになっているのだが。


「沙織ちゃん、相変わらずお客さんいないなって思ってるでしょ?」


 と、ふいに横から聞き覚えのある声した。振り向くと、この店のウェイターの一人、瑞島みずしま華伝が立っていた。二十一歳の、この店ではたぶん一番のイケメン店員だ。おかわりをすすめるつもりだったのだろう、手にはコーヒーサーバーを持っている。


「そうですね。今日もお客さん全然来ないですね」


 一瞬彼と目があって、沙織はあわててコーヒーカップに視線を落としながら答えた。沙織にとって、彼は憧れの対象だった。こんな静かな店内に二人きりだと、緊張してしまう。引け目を感じてしまう。そう、イケメンの彼に対して、沙織は実に地味で平均的な容姿をしていた。あえて特徴を挙げるとすれば、綺麗に一つに結われた三つ編みの髪くらいの、ごく普通の女子高生だった。


「近くに大手チェーンのカフェができたからね。お客さん、全部そっちに取られてるんだよ。あそこ、なかなか女性受けするメニューをそろえてやがるんだよなあ」


 華伝はまるで他人事のように言う。敗因を冷静に分析している場合ではない気がするのだが。


「じゃあ、ここの経営はピンチってことですか?」

「まあ、大丈夫だよ。もともと叔父さんが半分趣味でやってるような店だしね。あの人、他にも商売やっててそっちはうまくいってるみたいだし」


 叔父さん、というのは、この店のマスター、瑞島みずしま弓雅ゆみまさのことだった。今はいないようだが。


「それに、今日はのんびりしたかったからね。暇で助かるよ」


 華伝はカウンターに戻ったところで、大きくあくびをした。なんだか眠そうだ。


「寝不足なんですか?」

「まあね。昨日おそくまで、家の掃除をしてたんだ」

「……それだけですか?」

「そうだけど、何か?」

「い、いえ……」


 なんだか気まずくなって、沙織は再び彼から目を反らした。彼女は実は、昨晩ある光景を目にしていた。そして、そのことについて華伝に尋ねるために、今日この店に来たのだった。下校時に友人の智子が一緒にカラオケ行かないかと誘って来たのを断ってまで、一人で。


 しかし、小心者の彼女はどうやって切り出したらいいのかわからなかった。今が絶好のチャンスだったはずだが、さらりとかわされてしまったし。


 どうしよう……。とりあえずコーヒーのおかわりに口をつけつつ、思案した。すると、カウンターのすみに今日の新聞が置かれているのに気づいた。マスターが読んでいたものだろうか。一面トップはもちろん、あの事件のことだ。あれだ。沙織はとっさにひらめいた。


「あ、あの、ちゃんと解決してよかったですね、すごい殺人事件」


 沙織は緊張しつつも、その新聞の一面を指差しながら言った。


「ああ、あの連続殺人犯か。まさか女の人だったとはね」

「若い男の人ばかり次々と……しかも、警察が乗り込んだ時は、容疑者はすでに死んでて……」


 沙織は言葉を慎重に吟味しながら言う。


「そうそう。猟奇的だよね。しかも、犯人の家、ここからすぐ近くだし」

「そ、それですよ!」


 いよいよ核心に迫ってきて、沙織は思わず大きく叫んだ。


「それって、何が?」

「あ、あの、私、ちょうどゆうべ、この犯人の家のすぐ近くを歩いていたんです。予備校の帰りで……」


 沙織はそこで素早く立ちあがり、新聞を掴んで掲げた。一面トップに掲載されているのは、犯人の家の門の写真だった。その隅には小さく犯人の顔写真が添えられている。


「それでその、私、見ちゃったんです……」

「へえ、何を?」


 華伝の顔色は少しも変わらない。あれ? ちょっとは動揺してくれてもいいのに。沙織は困惑しつつも、そのまま言葉を続けた。


「は、はい……私、この家の前に華伝さんがいるのを見ました!」

「ここに?」


 華伝は不思議そうな顔で首をかしげ、犯人の家の写真をじっと見つめた。そして、ややあって、思い出したように手をぽんと叩いて言った。


「ああ、そういえば、この辺歩いてたかな、ゆうべ」

「そ、そうですよね。やっぱり私の見間違いじゃなかったんですよね」

「でも、普通に歩いてただけだよ。ちょっと買い物に行ってただけだし」

「買い物?」

「そうそう。焼きプリンを買いに、この近くにあるコンビニに行ってたんだよ」

「あんな時間に、焼きプリン? 華伝さんの家ってここから近いんですか?」

「いや、近くの店に行ったらたまたま売り切れててさ。それで少し遠出して探索しちゃったんだよ。ほら、どうしても食べたくなる時ってあるじゃないか」


 と、そこで華伝はズボンのポケットから財布を出し、さらにそこから一枚のレシートを出して、沙織に見せた。見ると、確かにゆうべ、この近くのコンビニで焼きプリンを買ったようだ。完璧なアリバイだ……。


「でも、なんでそんなこと聞くの?」

「え、だって……ゆうべ、ここで殺人犯が見つかって、でも、その時にはすでに犯人は死んでて……その近くにたまたま華伝さんがいて……」


 沙織はひたすら気まずい気持ちになって、しどろもどろになってしまう。


「そうだね。沙織ちゃんもいたみたいだけど」

「は、はい……」

「顔見知りなんだし、声をかけてくれてもよかったのに」

「いや、それは――」


 できなかった、とは言えなかった。沙織はまだはっきりと自分の目にした光景を口にしていなかった。そう、彼女が昨夜見たのは、正確には、華伝がこの家の門を飛び越える瞬間だった。二メートル以上はあるであろう高さの門を軽々と。いかに顔見知りとはいえ、ぎょっとして言葉も出なくなるというものだった。しかも、直後、彼は道端で何か電話し始めるし……。


「あ、もしかして、沙織ちゃんは僕がこの事件に何か関わってるんじゃないかって思ってるの?」

「い、いや、その、だって……」


 そうとしか考えられなかったが、どこまで自分の見たことを正直に話せばいいんだろう。


「た、例えば……例えばの話ですよ? 警察が乗り込んでいたときには、犯人はすでに死んでいたわけで、つまり、誰かが直前にこの家に忍び込んで犯人を殺した――」

「まさか、それが僕の仕業だって言いたいわけ?」

「そ、そうなんですよ! そう考えると、つじつまは合うんです!」

「うーん。それだと、焼きプリンを買う余裕はないかなあ?」


 華伝は笑って、レシートを沙織の目の前でひらひらさせた。言われてみれば、確かに珍妙な話だ。彼が仮に犯人を殺したとして、その帰り道にコンビニで焼きプリンを買うだろうか? そんな人、普通はいない……。


「悪いね。僕が真犯人じゃなくて」

「い、いえ、私の方こそ、すみません……」


 沙織は穴があったら入りたいような、ひたすら恥ずかしい気持ちだった。どうしよう、妙な疑いをかけてしまって、嫌われたりしないだろうか。あるいは、痛い子と思われたりしないだろうか。


「で、でも、仮に……仮に、華伝さんがこの犯人を殺した人だとしても、真犯人とかそういうんじゃないと思います。なんというか、世にはびこる悪人を人知れず闇に葬る、みたいな仕事の……」

「なるほど、いわゆるダークヒーローってやつだね。かっこいいな」


 華伝のノリはやはり軽い。自分とは一切関わりのない世界だと言わんばかりだ。沙織は改めて、彼がシロであると確信した。そう、彼が門を飛び越えたように見えたのは、何かの見間違いだったのだ。


 と、そこで、店のドアが開く音がした。客ではない。この店のマスター、瑞島弓雅が店に戻って来たようだった。


「いらっしゃい、沙織ちゃん」


 マスターは彼女を一瞥すると、にっこりわらった。四十代半ばの、ちょび髭がトレードマークの、人のよさそうな中年男だ。体つきは年齢の割にスリムで、背も高い。白髪交じりの髪はオールバックにしてまとめられている。いつもこの店で会う時は店の制服を着ているが、今は青いポロシャツとチノパンというラフな格好だ。どこかに買い物にでも行っていたのだろうか。


「調子はどうだ、華伝?」


 マスターはカウンターの華伝に声をかける。


「相変わらずだよ。つまり、暇」

「ははは。お前もう今日はあがっていいぞ」

「言われなくても、叔父さんが帰ってきたらそうするつもりだったよ」


 華伝はやれやれといった感じで軽くため息をつき、前掛けを外してマスターに手渡した。そして、店の奥に引っ込んでしまった。


「悪いね、沙織ちゃん。イケメンからおじさんにバトンタッチしちゃってさ」

「いえ、いいんです」


 華伝に変なことを聞いてしまって、気まずい気持ちだったのでむしろありがたかった。


 それに、マスターにも別に聞きたいことがあったし……。


「あの、華伝さんって、誰かと一緒に暮らしてるんですか?」

「え、どうしたの急に?」

「私、たまたま聞いちゃったんです。華伝さんが誰かに電話してるところ。なんだか相手は一緒に暮らしてる人みたいな雰囲気で、華伝さんはルカってその人のこと呼んでて……」

「あー、彼女のこと聞いちゃったのか、はは」


 マスターはいかにもやっちゃったなーという感じで、額に手を当てた。


「その人って、もしかして華伝さんの――」

「そうそう。あいつの恋人だよ。一緒に暮らしてるんだ」

「こ、恋人……」


 心の準備はしていたが、こうもあっさりと真実をつきつけられるなんて。沙織はショックで少し頭がくらくらした。華伝さん、もう恋人いたんだ……。ハートブレイクな瞬間である。


 そう、ゆうべ華伝を目撃した時、沙織がまず気になったのは、彼が門を飛び越えていたところではなく、その後、誰かに親しげな口調で電話しているところだった。その声音はとても優しげだった。もちろん、この店でいつも会う彼も、沙織に対して紳士的で朗らかだったが、やはりそれは営業スマイルというやつだった。本当に自然に笑っている彼の姿を、沙織は初めて見た気がした。そして、電話の相手はきっと特別な関係の人に違いないと思った。女の勘というやつだ。


 しかし、その後、報道で彼が出てきた家で大変なことが起こっていると知り、ひたすら混乱してしまったわけだった。まあ、そこはもう彼女の中では解決したわけだが……。


「そ、そうですよね。華伝さん、かっこいいですし、恋人ぐらいいますよね……」


 そうつぶやく沙織の声は震えていた。ついでに、コーヒーカップを持つ手もぷるぷると震えていた。


「そんな落ち込まないで。沙織ちゃんなら可愛いから、すぐにいい人見つかるって」


 マスターには沙織の心の中は筒抜けのようだ。


「べ、べつに、私、華伝さん目当てで、この店に通ってたんじゃありませんし!」

「え、そうじゃなかったの?」

「当たり前です! ホストクラブじゃないんですから!」

「じゃあ、これからもこの店に来てくれる?」

「え……あ、はい……」


 思わず、はいと答えてしまう沙織だった。


「そうか。いやー、助かるな。この店、ほんっと、お客さん少なくてねえ。沙織ちゃんが常連になってくれるだけでも助かるよ」

「はあ……」


 まあいいか。失恋しても、ここの雰囲気のよさと、コーヒーの美味しさは変わらないし。……今日だけはさすがに苦味が強すぎるような気がしたが。


 その後、やけになった沙織は、マスターに華伝の恋人について根掘り葉掘り聞いてみたが、たいしたことは教えてもらえなかった。わかったのは、彼より年上であること、病気がちでほとんど家から出られない状態であること、そんな彼女を華伝がかいがいしく世話をしているらしいということ、だけだった。


 やがて、コーヒーを飲み終えた彼女は、カフェ「アンブローシア」を出て、重い足取りで一人家路についた。途中、友人の智子からメールが来た。今はちょうど新しく出来た彼氏と一緒にカラオケを楽しんでいるらしい。そういえば、今日はその彼氏を紹介してもらえるという話だったような。沙織はぼんやりとスマフォをいじり、メールに添付されていた写真を見た。カラオケボックスと思われる場所で、智子と、一人の見知らぬ男が、親しげに肩を組んでこっちに向かってVサインしている。智子はややぽっちゃりした、丸顔でおかっぱ頭で目の細い少女だ。これでも、先月よりは五キロやせたそうだ。その隣にいるのが新しく出来たという彼氏だろうか。見たところ、十八歳前後くらいで、ごく短くラフに切りそろえられた髪は銀色に染められていて、額にはカラフルなバンダナ、耳と首周りにはシルバーのアクセサリーが光っている。顔立ちは悪くないが、なんだかチャラチャラした男だ。


 いや、人は見た目によらないか……。沙織は幸せオーラ全開の二人の写真をちょっと忌々しく思いながらも、無難な言葉で返信した。私も早くいい人見つからないかなあと思う沙織であった。

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