残月の鬼のしもべ

真木ハヌイ

プロローグ

「ねえ、知ってる? 人食いの鬼のお話」


 女はけだるそうにソファに横になりながら言った。長い髪を茶色に染めた、妙齢の美女だ。その豊麗な肢体は、今はゆったりとしたバスローブに包まれている。風呂あがりなのだろう、肌も髪もしっとりと湿っている。


「人食いの鬼? まさか、ここ最近頻発してる物騒な事件と何か関係があるっていうのかい?」


 女のすぐ隣には一人の男が座っていた。黒いタートルネックのシャツに、レザーパンツを履いた、二十歳前後くらいの男だ。細身で背は高く、髪は黒く短く、顔立ちは凛としてよく整っていた。


 彼らがいるのは、十六畳ほどの広さの洋室だった。部屋の内装は瀟洒で、落ちついた雰囲気があった。今は夜で、窓の外は暗く、部屋の隅にあるローテーブルの上に置かれたランプの光だけが、室内を頼りなく照らしている。


「バカね。最近ここらで起きてるのは、若い男の行方不明事件でしょ。人食いの鬼がわざわざ男だけ選んで食べると思う?」


「はは。そうだね。食べるとしたら、女の子のほうがおいしそうだ。君のような」


 男は女に微笑みかけた。優男が女に向ける笑みとしては実に完璧だった。だが、その瞳の奥にはかすかに鋭い光が宿っていた。


「私が言いたいのはね、昔話よ。伝説って言った方がいいかしら? 人食いの鬼と恋に落ちた人間の女の物語」

「へえ、なんだかロマンチックだね」

「そうね。でも所詮、化け物と人間の恋。実るわけなんてないわ。恋をかなえられずに人間の女は死に、その無念の気持ちは、やがて呪いになって鬼の一族に振りかかったの。何百年も、未来永劫、ずっと……」

「どんな呪いなんだ?」

「人食いの鬼が鬼でいられなくなる呪い……人を食べられなくなっちゃう呪いよ。鬼の子孫の中に、そういう、拒食症みたいな鬼が生まれるようになったそうなの。ごくまれにね」

「ふうん。鬼にとっちゃ災難だが、人間にとっちゃありがたいことだね」


 男はいかにもどうでもよさそうに脚を組みながらつぶやいた。しかし、その瞳はやはり鋭い光をたたえていた。


「ねえ、あなたは信じる? 人間じゃない者との恋の話」

「さあ? いまいちピンとこないな」

「じゃあ、もし、私が人間じゃないとしたら?」

「君が?」

「そう。私、実は人食いの鬼だったりして……」


 女は艶っぽく微笑み、ゆっくりと上体を起こした。そして、湿った髪をかき上げながら、男をじっと見つめた。


「はは、冗談はいいよ。君は鬼なんかじゃない」

「まあね」

「少なくとも、本物の鬼じゃないからね」

「え――」


 とたんに、女はぎょっとしたように目を見開いた。と、同時に男はすっとソファから立ち上がった。その瞳はもう、殺気を少しも隠していなかった。


「僕も人食いの鬼については少しくらいは知っているんだ。鬼には二種類いる。本物の鬼と、瘴鬼しょうきと呼ばれるまがいものの鬼だ。君は……まがいもののほうだね」

「てめえ、いつから気付いて――」


 女は眉間にしわをよせ、わなわなとふるえている。額や手首には血管が浮き、皮膚は赤黒く変色し始めている。


「最初から。じゃなきゃ、こんな血なまぐさい部屋には来ないよ」


 男はふっと笑い、先ほどまで座っていたソファの生地に爪を立て、無造作に裂いた。そして、中に手を入れ、細長いものをいくつか取り出し、床に放った。それは人の骨のようだった。


「さっき、君がシャワーを浴びてる間に一通りこの家を見て回ったんだけど、ずいぶん悪趣味だね。人間の死体から家具を作るなんてさ。地下室には工房みたいなものもあるし」

「はっ、やけに余裕の態度ね。死体を見て逃げ出さなかったなんて。あんたもすぐにそうなる運命なのに」

「……どうかな?」


 男は整った顔をゆがませ、不敵に笑った。そして、それを挑発ととらえたのだろう、女はいっそう激昂し、「くそがっ!」と叫ぶと同時に、男に襲いかかかった。ソファの上でいったん身を縮ませ、ばねのように飛びあがったその動きは、猿によく似ていた。だが、俊敏さは猿の比ではなかった。人の形をした生物のものとは思えない、尋常ならざる速さだった。


 だが、男はその動きを的確に見切り、紙一重でかわした。女の爪はむなしく空を切り、勢い余って、向かいの壁にぶつかった――いや、壁に着地した。爪を壁面に食い込ませて。


「凶暴だね。今までの被害者もみんなその爪で殺してきたのかい?」


 男はやはり余裕の態度だ。女の目は今やギラギラと赤く光り、大きく開かれた口からはよだれが滴っている。先ほどまでの美貌はどこにもない。醜悪な怪物そのものだった。


「てめえも、おとなしくアタシに殺されてりゃいいんだよ!」

「いやだね。君のコレクションに加わるのは」

「だまれっ!」


 女は叫ぶと、再びその場から跳びはね、男に襲い掛かった。やはりその動きは、俊敏そのものだった。


 そして男は、再びそれを紙一重でかわした。だが、今度はその直後に、女の体に蹴りを入れた。女はそのまますさまじい速さで近くの壁に激突した。そして、壁に血をにじませながら、ずるりと下に落ちた。


「な、何、この力……あんたもしかして……」


 壁に手をつき、よろよろと体勢を立て直しながら、女は言う。その口や鼻の穴からはドス黒い血が滴っている。


「そう。僕も君と同じさ。人が転じて鬼となった、まがいものの鬼……瘴鬼だ」


 一瞬、男の目が赤く光った。


「へ、へえ……お仲間だったってわけね。だったら仲良くしようじゃないの」


 女は顔をひきつらせながら、男に這い寄った。だが、男は「無理だね」と、冷やかに言うと、女の頭を蹴り飛ばした。女は悲鳴を上げ、無様にカーペットの上を転がった。


「な、何よ……。まさかアタシが人殺しだから殺すって言うの? あんたも瘴鬼のくせに、人間の味方をするつもりなの?」

「別に。僕は正義のヒーローを気取ってるわけじゃない。ただ、君の命が欲しいだけだ」


 男は女にゆっくりと歩み寄る。


「命、ですって?」

魂生気たまみきって言った方がいいかな。必要なんだ。僕の大切な人のためにね――」


 女が耳にした男の言葉はそれが最後だった。次の瞬間には男は女を組み伏せ、その首筋に噛みついていた。


「あ……ああ……」


 男の腕の中で、女はたちまち白目をむき、ぴくぴくと痙攣し始めた。そして、その間に、女の体はしおれ、干からびて行った。


 やがて女はミイラのようになり、まったく動かなくなった。男はその体を放し、立ち上がった。そして、レザーパンツのポケットからスマートフォンを取り出し、電源を入れた。


「……ああ。こっちは終わったから、あとの始末は頼むよ、叔父さん」


 電話の向こうにいる相手にそれだけ伝えると、彼はすぐに電話を切り、部屋を出た。


 彼がいたのは、とある高級住宅街の一角にある一軒家だった。その正面の閉ざされた門をひょいと飛び越えると、彼はそのまま夜道を歩き始めた。まるで何事もなかったかのように。季節は四月だ。夜の外気はほどよく冷えていた。


 だが、数メートルほど歩いたところで彼はふと思い出したように立ち止り、再びスマートフォンを取りだし、どこかに電話をかけた。


「……はい。僕はなんとも。無事に終わりましたよ」


 そうつぶやく彼の声音は、とてもおだやかだった。


「そうか、よかった。華伝かでん、私はお前に何かあったらと思うとな……」


 電話の向こうから聞こえてくるのは、少女のものらしい声だった。


「はは、心配性だなあ、ルカは。いつも通りやっただけですよ」


 華伝と呼ばれた男は笑って答える。先ほどの瘴鬼の女に向けた作りものの笑顔とはまるで違う、自然で、どこか子供っぽい笑みだった。ルカという少女に、自分のことを心配されたのがうれしいようだった。


「これから帰ります。ルカはぐっすり眠って待っていてください」

「ああ。わかっている。薬を飲んで、絶対に起きることがないようにしておく」

「ええ。そうじゃなきゃ、僕はルカに殺されてしまいますからね」


 華伝は微笑みながら言うと、そこで電話を切った。そして再び夜道を歩き始めた。



 彼が自分の住まいに戻ったのは、それから約一時間後のことだった。まだ夜は浅く、タクシーでもバスでも拾えばもっと早く帰れたはずだったが、彼はあえてゆっくりと徒歩で帰った。さらに途中コンビニに寄り道して焼きプリンも買った。ルカへのおみやげだ。


 さすがにもう薬が効いて、熟睡してる頃だろう。しんと静まり返った我が家――外壁をツタで覆われたこじんまりとした一軒家を、門の外から眺めながら、彼はぼんやり思った。外から見る限り、部屋の灯りは全部消えているようだ。


 彼は門をくぐり、暗い家の中に入った。そして、灯りをつけずに廊下にあがり、突き当りの階段を登って二階に上がった。


 二階には二つの部屋があり、ルカはその一つを自分の部屋として使っていた。彼はすぐにその中に入った。


 部屋はやはり暗かったが、窓のカーテンは開かれており、外からわずかに街の光が差し込んでいた。広さは六畳ほどで、床にはお菓子の袋や本や衣服などが散乱している。また、部屋の隅には小さな冷蔵庫が置かれている。


 ルカは窓のすぐそばに置かれたベッドで眠っていた。見たところ、十四歳前後くらいの華奢な少女だ。枕の上に流れている黒い髪は長く、顔立ちは目を閉じた状態でもわかるほどに可憐だった。ベッドのわきにある小さな台の上には空の小瓶が置かれていた。


「ルカ、今日はおみやげに焼きプリンを買ってきましたよ」


 彼は眠っている少女、ルカに耳打ちした。が、反応はなかった。もしかすかにでも意識があれば、いまの一言で飛び起きただろう。よし、薬が効いて熟睡しているようだ。彼は空の小瓶の横に焼きプリンを置くと、眠っている彼女に覆いかぶさった。そして、彼女の閉ざされた桜色の唇を少し指でなぞったのち、そこに自分のそれを重ねた。


 彼の所作は人工呼吸によく似ていた。ただ、少女に口移しで吹きこんでいるのは酸素ではなかった。先ほど吸ったばかりの、瘴鬼の女の魂生気だ。そう、体の中からそれを集め、口から出しているのだった。二人の重なった唇の間から、時折かすかな青白い光が漏れた。


 やがて全てを出しきり、彼はルカから離れ起き上がった。彼女の唇についた自分の唾液を指でぬぐいながら。彼女はやはり熟睡しているようだった。ぴくりとも動かない。寝顔は安らかそのものだ。


「人間じゃない者との恋の話、か……」


 そんな彼女をぼんやり見つめながら、彼はふと、先ほどの瘴鬼の女の言葉を思い出した。あれは彼に尋ねた。それを信じるか、と……。


「ああ、信じてるさ。十年以上も、ずっとね」


 そう一人つぶやくと同時に、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。こんなふうに薬で熟睡している状態でしか、自分は彼女に触れることはできない。口づけもできない――。


 彼は眠っているルカの前髪をかきあげた。その白くなめらかな額の真ん中、髪の生え際のところには小さな突起があった。鬼の角だ。瘴鬼にはない、本物の鬼のあかしだ。


 ただ、彼女は普通の鬼とは違っていた。人を食えない、呪われた鬼だった。そして、かつて人に恋をしたという鬼の名前から、その呪われた鬼は残月と呼ばれていた。

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