11-2
しばらくすると、硝子の向こうに〈名なし〉が現われた。
わたしの位置からは上半身しか見えなかった。命綱でも繋いで縁を伝って歩いているようだった。中からは想像もつかないほど風が強いのだろう、マントが激しく靡いていた。頭に載せたステットソンハットは左手で押さえられ、鍔が捲れているだけだった。
〈名なし〉は〈船〉の丁度後方に立った。わたしたちと追手の間に割って入った形だ。
彼が手にしている武器――。それを目にした途端、わたしは息を呑んだ。けれどすぐに、気持ちを立て直した。
首に回された腕が締まる。
「ふざけてんのか」ブッツァーティが叫んだ。声の矛先はベルダーシュと〈名なし〉の両方に向けられていた。「ピストルなんかで何が出来る!」
「彼が算出した最善の選択だ」ベルダーシュが言った。「信じるしかない」
「大人しくしてなさい、命知らずのブッツァーティ」わたしは歯の間から声を押し出した。「怖いなら、目でも瞑って祈ってなさい。あんたが出来ることなんてそれぐらいよ」
片目を失うことも覚悟したけれど、ナイフの切っ先は頬で止まったままだった。もはやわたしは〈捕まって〉いるのではなく、〈掴まられて〉いた。
〈名なし〉が片手で銃を構えた。
回転式の拳銃に込められた弾は六発。たった六個の鉛弾で、馬車よりも大きな金属の塊を沈黙させなければならない。しかも的と足場は、それぞれが不規則に揺れている。
ふと、ペリグリンの麓の街で射撃を教わった時のことを思い出した。
教わる、というほど、丁寧な指導を受けたわけではなかった。そもそも一切の言葉はなかった。彼はただ、杭に乗せた空き缶に、銃に込められた全ての弾丸を撃ち込んでみせただけだった。
あの時、弾き飛ばされ宙で躍った空き缶は、穴だらけの姿で地面に落ちた。
同じ事が、また目の前で起こる気がした。
〈予感〉は、ほとんど〈確信〉といっても良いぐらい、硬いものだった。
一発目が発射された。
発砲音など聞こえない。相手に命中したかも、定かではなかった。
二発目。
相手の表面で火花が散ったように見えた。わたしの願望が作り出した幻とも思えるぐらい、僅かなものだったけれど。
強風が吹き荒ぶ状況で、思い通りの場所に弾を当てることがどれほど困難なことか。それは素人のわたしにだって簡単に想像できた。弾が真っ直ぐに飛ぶ筈がなかった。空気が薄ければ、その分も弾道が変わった筈だ。全ては何百年もの間、数え切れないほどの計算を繰り返してきた彼の電子頭脳だからこそ為し得ることだったのだ。
三発目。
今度は間違いなく命中した。明らかに相手の正面で、小さいながらも光が爆ぜた。煙の一筋も立たなかったけれど。
四発目――を撃つのと同時に、蒼い光が空を駆けてきた。船が大きく揺れ、わたしたちもよろめいた。自身のことよりも、硝子の外の〈名なし〉が消えたことで頭がいっぱいになった。尤も、こちらが声を上げる前に彼は姿を現した。屈んでいただけのようだった。
左手で帽子を押さえながら、彼はこちらを見た。わたしを、ではなく、ベルダーシュの方へ視線は向けられていた。
アンドロイド同士の、無言のやり取りが行われた。
〈名なし〉が追手の方へ向き直った。わたしはベルダーシュに訊ねた。
「何か言われたの?」
「〈船〉の速度を落とせ、と」
「それじゃあ光線を食らうわ」
「彼の指示なのだが――」彼女はこちらを見た。
律儀な電子頭脳は、あくまで最終責任者の判断を仰いでいた。
「彼の言う通りに」わたしが頷くと、ベルダーシュはこめかみに指を充てた。〈船〉の操舵を任せる仲間に連絡したのだろう。
追手との距離が縮まったことで、こちらの速度が下がったのだとわかった。
無傷に見えた相手の、銀色の表面に一箇所、穴が空いていた。それを中心として、ヒビ割れが様々な方向へ伸びている。〈名なし〉の銃撃に拠るものだと考えると希望になったけれど、それが見えるほどまで近付いていることのもたらす恐れの方が大きかった。この位置で閃光を放たれたら、こちらの〈船〉が大破するか、わたしたちが先に消し炭になりかねなかった。
雑音混じりの叫びが聞こえた。
ヒースが何か言っているようだったけれど、言葉としての形を成していなかった。
「敵は連続での砲撃が不可能なようだ」ベルダーシュが言った。「機体の性能か、エネルギーの残量のためか定かではないが、少なくとも搭乗者の望むタイミングでは撃てていないと推測される」
「これは、その不満の叫び?」
「それもあるだろう」
〈名なし〉が五発目を放った。
はっきりと、ヒビの中心に着弾したのが見えた。彼は全く同じ箇所に、都合三発もの弾丸を当てたのだ。それを証明するように、穴からは黒い煙が吹き出し始めた。
残り一発。この弾も同じ場所に当たれば、相手を落とすことが出来る――。
そんな確信めいた予感が、わたしの胸を占めていた。根拠は硝子の向こうで銃を構える〈名なし〉への信頼だった。
追手の左側が蒼く光り始めた。
あ、と思うや、閃光が迫ってきた。不覚にもわたしは、目を瞑ってしまった。
うっすらと瞼を上げる。
首には黒い腕が回され、足元には絨毯の敷かれた床があった。目を上げていくと、外を向いて立っているベルダーシュ。もはや見慣れた光景が、広がっていた。
わたしはまだ生きていた。
生かされているのだ、とすぐに気付いた。見慣れた光景は、光の当たる部分は蒼白く、陰の部分は一層濃い黒を帯びていた。
放たれた閃光は、こちらの船を貫くことこそなかったけれど、硝子の向こうにはあった。
〈名なし〉によって――先ほどまで頭の帽子を押さえていた彼の左手によって、押し留められていた。
マントが嵐に見舞われた旗のように泳いでいた。その向こうに時折除く頭には、もう帽子は載っていなかった。
もう一度、光が爆ぜた。
ガン、と硝子の上方に何か当たった。眩みの残る眼を向けると、細長い物体が、空へ消えていくのが見えた。外では〈名なし〉が、右手を前にして銃を構えていた。わたしの見間違いでなければ、マントの下にある筈の左腕は失われていた。
至近距離。相手の船体は、触れられそうなほど近くにあった。
六発目――最後の一発が放たれた。
ヒビ割れの花が、花弁をより一層広げた。
ヒースの叫びが、斧を振り下ろされたように途絶えた。
黒煙を上げていた穴から、炎が吹き出した。追手は気を失った鳥のように降下を、いや、落下を始めた。
〈名なし〉が空薬莢を捨て、銃をホルスターに収めた。
わたしは覚束ない足取りで硝子へ近付いた。ブッツァーティの拘束を解くことなど何でもなかった。
硝子に掌を充てた。〈名なし〉は肩越しにこちらを見たようだった。
靡く髪は、艶やかな銀色だった。
自分が目を瞠るのがわかった。本当はすぐにでも、その髪に触れたかった。
「戻って」
そう口にしようとした時、彼の左眼が赤く光った。
続いて、足元から衝撃が突き上げてきた。
〈名なし〉の身体が浮き上がった。
わたしも身体の制御を失った。硝子から引き離そうとする力に抗いきれなかった。自分が宙を舞ったのか、〈船〉全体が回っていたのかもわからない。上下左右前後、全ての方向がない交ぜになって無と化した。
轟音。いや、そんな言葉では収まらない。耳から入る全ての情報が、覆い尽くされた。
裂け、砕け、潰れ、拉げる。
この世を構成する全ての物が壊れていくようだった。
不意に、時間の流れが緩んだ。ほとんど止まっているように思えるほど遅くなった。
硝子の向こうに太陽が輝いていた。わたしはそれを見上げる体勢だった。
日輪を背に、黒く四角い影が動いていた。
はためく、という方が合っているかもしれない。それは布を思わせた。
鼻の奥に、火薬と油と土埃の臭いが蘇った。
瞼の裏には、黒くくすんだ赤が映った。
わたしは右手を伸ばした。手が届くような気がした。
指先が何かに触れる前に、意識が途絶えた。
「――アニー」
父の声。随分久しぶりに聞いた気がした。
闇が一箇所だけ切り取られている。その中に、一頭のソートが佇んでいた。
背中には、父が乗っていた。わたしと同じ赤い髪が、風を受けて揺れていた。
「うちへ帰ろう、アニー」
――。
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