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 今度はわたしが先頭を行った。もう敵が待ち伏せしている可能性は低かったし、道も一本道だったから、自然と前を行く形となった。

 走りながらふと、わたしも気絶しておけば楽だったのではないか、という考えが過ぎった。それならば、〈名なし〉の肩に担がれて移動することが出来たのではないのか、と。あの悪党のように。

 けれど、今更そんな後悔をしても遅かった。後悔する暇があるのなら、足を動かせ。さっきから頭の上でけたたましく鳴っている、鳥の鳴き声のような音が、そんなことを言っているみたいだった。どうすればこんなに不快な音を出せるのだろうというぐらい、身体の芯から不安を煽ってくる音だった。

 夢中で走ったためか、ベルダーシュと別れた地点まで戻ったのがあっという間に感じられた。

「状況は把握している」彼女は、少しも慌てた様子もなく言った。

「あなたの力でどうにか出来ないの?」

「自壊システムが起動した以上、介入は不可能だ」

 わたしは彼女の手を掴み、再び駆け出した。


 乗ってきた〈船〉に飛び込むと、大きな横揺れが起きた。

 地鳴りのような響きが、走ってきた方から聞こえた。〈船〉はふわりと浮き上がり、進み始めた。

 硝子の外では〈天の揺りかご〉の崩壊が始まっていた。壁や天井や床が、ただの四角い部品と化していく。落ちてくる天井を縫うようにして、わたしたちの〈船〉は出口を目指し、飛んでいた。天と地が目まぐるしく入れ替わり、やがて区別が付かなくなった。乗り物酔いのような目眩がわたしの肩を叩こうとした時、〈船〉はようやく、航宙船の外へと脱した。

 窓に貼り付いてみると、円柱と輪で形作られていた船は、既に原形を留めていなかった。どこまでが柱だったのか、どこからが輪だったのか、部品の漂うおおよその位置から推測するしかなかった。

 真っ暗な海に放り出された無数の破片の中には、〈棺〉もあったに違いない。海辺の街では死者を海に沈めて弔うという話を、不意に思い出した。わたしは、地球からやって来た人々を、銀色の揺りかごに閉じ込められた彼らの魂を、虚しく広がる海に葬ったのだ。彼らが救われることを、心の底から祈った。祈ることしか、わたしには出来なかった。

 何かが光った。

 初めは星の瞬きかと思った。けれど、それにしては距離が近い。

 また同じような明滅があった。今度ははっきりと、その位置を捉えることが出来た。

 崩れた破片の中。地上に向けてゆっくりと落ちていく船の欠片に混じって、全く別の動きをしている物体があった。

 それはこちらに近付いていた。

「何かしら、あれ……」

 誰にともなしに漏らした呟きに答えるように、紙をくしゃくしゃに丸めるような雑音が頭上で響いた。

 雑音は次第に、規則性を帯びていった。やがて、砂嵐が晴れていくみたいに、明瞭な言葉として理解出来るまでになった。

 ヒースの声だった。生き残りがいたらしい。声は、何かを唱えているようだった。

「あってはならない……あってはならない……あってはならない……」

 わたしの耳には、そう聞こえた。

 近付いているのは、わたしたちが乗っている物よりも小さな円盤だった。その両端で光が爆ぜた。わたしは〈名なし〉に肩を掴まれ、硝子から引き離された。

 蒼い、稲妻のような光が二本、それぞれ硝子の左右を通り過ぎた。

 攻撃。少なくとも、友好のために差し出された握手には思えなかった。

「我々が……人類の未来を……作るのだ……」

 ベルダーシュが船室に入ってきた。

「人工体の追跡を受けているが、こちらの船は武装していない。このまま大気圏へ突入して振り切る。身体を固定しろ」

「振り切れるの?」

「相手が燃え尽きるのを祈るしかない」

 彼女に悲観している様子はなかったけれど、今回ばかりは安心できなかった。

 硝子の向こうが、赤々と色づき出した。空気が燃えているようだった。小刻みな揺れが、次第に強さを増してきた。わたしは体勢を崩し、〈名なし〉に抱き止められた。彼はどこにも掴まっていないのに、身じろぎ一つしなかった。

 〈天の揺りかご〉の破片が燃えていた。わたしたちを追ってきた円盤もまた。わたしたちの乗っている〈船〉も、外から見れば同じように炎に包まれていたのかもしれない。

 揺れというものは、恐怖を呼び起こすには実に有効な手段だと思う。わたしは〈名なし〉の胸に顔を埋めたまま、身体を強張らせていた。後から考えても恥ずかしくなるぐらい必死に、赤いマントを掴んでいた。

 やがて、竜巻が通り過ぎたように揺れが収まった。

 恐る恐る顔を離すと、待ち構えていたように窓の外が光り、またも足元が大きく上下した。思わず声を上げてしまった恥ずかしさは、すぐに危機感で上書きされた。

 追手は健在だった。祈りは通じなかったのだ。もっと大きな破片は周りで燃え尽きているというのに、それは子供を追い回す蜂のような素早さとしつこさで、上下左右へ振れながら飛んでいた。追われる子供の方は、尻から黒煙を上げていた。

 わたしはベルダーシュに訊ねた。

「何も方法はないの?」

「完全にないわけじゃない」勿体付けた言い方だった。

「どんな方法でも、やらないわけにはいかないわ」

 するとベルダーシュは〈名なし〉に眼を向けた。二人の間で、わたしには感じることも出来ない何かしらの電気的やり取りが交わされたのかもしれない。結局、何もわからなかったけれど。

 〈名なし〉がわたしを突き放した。彼は出口へ向かった。船室から出て行こうとしているらしかった。

「待って」

 彼は戸口で足を止めた。わたしの命令には逆らえないのだ。

「どこへ行くの?」

 やはり答えはなかった。期待もしていなかった。だからベルダーシュを見やった。彼女の薄い唇に、切れ目が入った。

「銃火器を以て、応戦する」

 妙な話だ。この船が武装していないと言ったのは、彼女自身だった。

 抱いた疑問が顔に出ていたのだろう、言葉に出さずとも伝わった。

「――火器というのは、のことだ」

 謎が解けた。解けたところで、賛成の気持ちが湧くわけでもなかったけれど。

「無茶だわ、そんなの!」

「この状況下では唯一にして最大の有効手段だ」

「もし失敗したら?」

「全滅だ」ベルダーシュは言った。「このまま何もせずとも、結果は同じだ」

 閃光が走った。こちらが避けたのか、向こうが外したのかは定かではなかったけれど、わたしたちはまだ健在だった。

 突然、首を何かで締め付けられた。

 男の腕。

 煙草と酒と垢の臭い。

 息を止めようにも、そもそも呼吸がままならない。

「迷うまでもねえだろうが」耳許で、ブッツァーティの声がした。顎を砕かれたせいなのか呂律が曖昧で、それが余計に気味悪かった。「やれよオルタナ。突っ込んででもあの蝿みてえなのを落とせ。さもなくば――」

 冷たい刃が頬に当たった。

「駄目……」わたしは、締め付けられた喉の奥から言葉を搾り出した。「行っては駄目」

「行かなかったらまずこいつを殺す! こっちに来ようとしたら右目を抉る!」

 〈名なし〉は動かないままだった。赤い人影が、ぼやけ出した視界の中で滲んだ。

「戻って……お願い……行かないで……」

 彼は、戸口の向こうに消えた。

「どうして……」所有者であるわたしの言うことを聞かないの? 

 訊きたいのは、そんなことではなかった。

 ブッツァーティが笑った。そこに意思は感じられなかった。笑うしかないから笑う。身体の内側で起きた発作を表に出すための、最低限の生理現象。そんな風に感じられる笑い方だった。

 わたしは拳を握る代わりに、唇を噛み締めた。

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