10-3

 父は色々なことを知っていた。その内の一つに、生きる上で役に立つ含蓄に富んだ格言がある。

 職業柄なのか、馬に纏わるものが多かった。〈馬に説教を述べても徒労に終わる〉とか〈逃げた馬が戻ってきても幸運だとは限らない〉とか。けれど、特にわたしの胸に刻まれているのは、もっと普遍性のある言葉だった。

 悪童ほど丈夫に育つ――。

 その格言を思い出す度、わたしは、言いようのない不快感を覚えてきた。そして〈天の揺りかご〉にいる時にもまた、胸には同じむかつきを抱いていた。無事にヒースたちの攻撃を掻い潜ることが出来たというのに、だ。

 闇の中で火薬が爆ぜた。倒れた敵の身体に、ブッツァーティがとどめを刺したのだ。

「これで親父の件はチャラかい?」

 暗がりでも、彼の黄色い歯が見える気がした。わたしは答えず、〈名なし〉へ先へ進むよう促した。

「ま、どっちだっていいけどよ」

 下品な笑いが背中に当たった。

 〈名なし〉は黙々と進んでいった。どうやらわたしたちは、輪の中を進んでいるようだった。道は殆ど一本道で、延々と蒼く光る〈棺〉が並んでいた。そして、その中には漏れなく骸が入っていた。〈マザー〉を除く1867人が、この場所で永遠の眠りに就いているのだった。

 途中、何度もヒースたちの襲撃があったけれど、〈名なし〉とブッツァーティがこれを退けた。疑問だったのは、敵の攻撃が、いやに散発的だったことだ。ここは彼らにとっての根拠地、絶対に落とされてはならない砦なのだ。そうした場所を守るにしては、随分と戦力が手薄だった。地上で連れて行かれた、荒野の中に立つ塔の方が余程手厚く守られているようだった。

 後から考えれば、これこそが〈彼ら〉が滅亡へ向けて坂を転がっている何よりの証左だった。機械に呑み込まれた人間の意識は、その当初の計画である〈オルタナの殲滅〉だけを覚えていて、その実行手段として〈騎兵隊〉を地上に置いた。一方の航宙船では、〈いつか目覚めるために眠り続ける〉こと自体を目的とした意識=電気信号が存在し続け、船が何らかの原因で廃墟同然となっても尚、残り続けている。

 地球から星の海を渡ってやって来た〈人間〉という種族は、彼ら自身も気付かないうちに滅んでいたのだ。オリガ=ブルガーコフをただ一人残して。

 斃れたヒースに、ブッツァーティがもう一撃加えようとするのをわたしは押し留めた。

「むっくり起き上がって後ろから撃ってくるかもしれねえぜ?」

「弾の無駄よ」理由は、それだけではなかった。

 やがて、一切の抵抗がなくなった。わたしたちは闇の中へ伸びる通路を、荒野を進むよりも楽に歩いていった。

 我ながら、足取りはしっかりしたものだったと思う。

 一刻も早く、片を付けたかった。

 もう終わってしまった〈彼ら〉を、亡霊としてこの世に縛り付けられたままの〈人間〉たちを、早く解放してあげたかった。

 それが、〈マザー〉から力を託されたわたしの役目だった。


 その一画だけ、〈棺〉が立っていた。

 全部で十二個。通路を挟んで両側に、六ずつ並んでいた。それぞれの上部からは太い管が伸びて、その先は壁の中に消えていた。一つを除いて、全ての硝子は奥に蒼い光を湛えている。中では骨だけになった顔が、眼窩に闇を宿していた。

 〈名なし〉がわたしの手を引いた。彼は素振りで、右側の〈棺〉たちの真ん中を示した。一つだけ、〈棺〉ではない、けれど同じぐらいの大きさの箱が立っていた。

 頭上に額縁が現われた。〈怪物〉の絵だ。

「アニー、愚かな選択だ」

 わたしは構わず、窓のない〈棺〉へ近付いた。

 鎖を引き千切った〈魔女〉のペンダントを取り出し、表面に翳してみる。すると、ヒースが鉄扉を解錠した時と同じような、文字の書かれた四角い幻が浮き上がった。

「やめたまえ」

 「やめたまえ」

 〈怪物〉の声は砂嵐の真っ只中にいるように安定しない。ベルダーシュが何らかの策を講じているのだとわたしは察し、四角い幻に向かい続けた。

 枠の中には疑問形の文章と選択肢が現れたけれど、全て読み終える前にわたしの意思とは関係なく選択が行われていった。ペンダントに予め込められた仕掛けなのかもしれない。〈船体〉〈航行維持機関〉〈停止〉などの文言が見えては、瞬く間に通り過ぎた。

「アニー」

 「オリガ」

  「君は」

 「君たちは」

「人類を滅ぼすつもりなのか?」

 次々に切り替わっていた幻が止まった。最後の問いに辿り着いたようだった。

 文章を、ゆっくりと読み上げる時間があった。

『本船の全機能を強制終了させますか?』

 この判断は、わたしに委ねられていた。

「あってはならない」

 「あってはならない」

  「被造物が」

「造物主に」

  「刃向かうことなど」

「あってはならない」

 断末魔の叫びとは、まさにこういうものを言うのだろう。

 耳を塞ぎたい気持ちでいっぱいだった。言葉の持つ意味が堪え難かったわけではない。それを発する者に、既に意思というものが存在していないのだと感じるのが苦痛だった。

 わたしは、握ったペンダントを胸に引き寄せ、更に手に力を込めた。

 それから左手を〈YES〉の項目に手を伸ばした。

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