9-2
硝子の向こうでは大地の赤が、眼下に広がっていた。
雲も足元にあった。わたしは空の中にいて、見上げると濃紺の〈果て〉が見えた。
これほど早く、天に昇る体験をするとは思わなかった。けれど教会の説教で聞いたような天使たちの出迎えはなく、ただひたすらに味気ない昇天だった。とても天の国になど入れそうになかった。
わたしたちが目指す場所には、今までに死に別れた親しい人々はいないのだ。いるのは、自分たちの住処が整うのを眠って待つ1867人の氷漬けの人間たち。天国というには、どうにも寒々しい場所だ。
けれどそこには、わたしたちを創造した神がいる。恐らく、忠実な天使たちも。
見ようによってはわたしたちは、神と戦おうとしているのだ。
いや、余計な前置きなどしなくても、構図としては、神への抵抗に他ならない。レトリックでも何でもなく、純粋に、それそのものなのだった。
大変なことをしているという自覚はあった。と同時に、既に後戻りは出来ないのだと覚悟を決めている自分もいた。緊張の度合いでいえば、ブッツァーティを追ってフロンティアに乗り込んだ時とそう変わらなかった。
むしろ今は、自分のことよりも地上のことの方が気になった。わたしはベルダーシュに訊ねた。
「ねえ、わたしたちにはどれぐらいの時間が残されているの?」
「〈騎兵隊〉は各地で目撃が確認されている。既に襲撃された街もいくつかある」
胸が潰れるような心持ちがした。
「進行速度からして、地上にいる全てのオルタナが殲滅されるまでには約七十八時間」
含みを持たせた言い方に、わたしは眼で続きを促した。
「ワイルダー襲撃までは二十時間の予測が出ている」
なんとなく予感はしていたものの、いざ実際に言葉として耳に入ってくると、頭の奥が痺れてきた。
ナサニエル・ヨークと同じことが、わたしの生まれ故郷でも起こる。
家族が、わたしの知っている人々が、生きたまま動きを封じられ、大穴に放り込まれるかもしれない――。
そう思うと身が竦んだ。わたしは、長椅子の背もたれに寄り掛かった。
もちろん、既に多くの命が失われているのは承知の上だった。また、ワイルダーに至るまでには、多くの街が〈青い嵐〉に見舞われることも。
それでも――いや、だからこそ、怖かった。恐ろしい悲劇の延長線上に、自分の帰る場所が乗っていることが。目を覆いたくなるような悲劇が、〈いつか起こるかもしれないもの〉ではなく〈二十時間後に必ず起こるもの〉として、質量を帯びた現実として、目の前に突き付けられているようだった。
「反攻は難しいが」と、ベルダーシュは言った。「僅かな抵抗なら、行っている」
わたしは、知らないうちに膝に落としていた眼を上げた。
「どういうこと?」
「アンドロイドを使う」彼女はこめかみに人差し指を充てながら言った。「各地の個体と電子頭脳を接続し、我々の一部として使っている。尤も、この身体と同じように動かすというわけにはいかないが。相手の足を引っ張ることぐらいは可能だ」
「彼らを操り人形として使っているというわけね」
「気に入らないか?」
「いえ――」スカートを握りしめた。握った拳が滲んだ。「感謝を伝えられないのがもどかしいだけ」
それから、あることを思い付き、ベルダーシュに頼み事をした。彼女は「可能だ」と頷いた。
わたしの手に、彼女の手が重なった。瞼を閉じると、懐かしい景色が目の前に広がった。
木で出来た、ささやかな家の食堂だった。左手には窓があって、射し込んだ白い光が室内を照らしていた。
見慣れた景色。けれどそこには、既に懐かしさも感じられる。
テーブルの天板は、所々に節が立っている。きちんと椅子が収まり、次の食事を静かに待っているようだった。真ん中には、白い花を挿した細長い花瓶が置かれていた。シロクシナダの花だ。
正面の壁に設えられたストーブは、長らく火を入れた形跡がない。もう春が近いのだ。
笑い声が聞こえた。腰の辺りを、赤毛の髪が回っていた。
「おい、モーガン」別の方からは批難の声。「まだ油差し終わってないだろ。姉さんに叱られるぞ」
「サミィが代わりにしてくれるってさ」小さな少年が、視界の持ち主の胴体に抱きついていた。彼は顔を上げ、乳歯の抜けた歯を見せて笑った。「ね、サミィ?」
もう一人、やや大きな赤毛の少年がやって来た。彼は弟の襟首を掴むと、無理矢理引き離した。弟の方はどうにか逃れようと、手足をあらん限りバタつかせるけれど、兄の方は慣れたもので全く効果はなかった。身体を動かして駄目なら、と思ったのか、弟の方は口を大きく開けて喚きだした。いつもの手だ。
「バージル」廊下の方から、二人の母親が入ってきた。「駄目じゃない、モーガンを泣かせては」
「だってこいつが油差しをサボろうとするから」
「兄ちゃんがぶったんだ」
「こいつ。ホントに殴るぞ」
「バージル。離しておやり」
兄は不承不承、弟を解放した。弟は転がるようにして母の懐へ飛び込んだ。
「手伝いをサボったのは悪いことよ、モーガン。兄さんに謝りなさい」
弟はくぐもった声で「兄ちゃんがぶったんだ」と繰り返した。
「いいよ、もう」
兄が口を尖らせ、こちらに眼を向けてきた。
「お前が悪いんだからな」バージルは言った。「姉さんを一人で行かせたりするから、こんなことになるんだ」
視線が僅かに下を向く。身体の持ち主の意志なのか、ベルダーシュの演技なのかはわからない。
「首に縄括ってでも連れ帰ってくりゃ良かったんだ。あんな乱暴者でも、働き手に変わりはないんだから」
「言葉が汚いわよ、バージル。姉さんを馬みたいに言わないの」
「自分で帰って来られる分、馬の方がまだいくらか賢いさ」
「帰ってくるわ」母が弟を抱いたまま、諭すように言った。「あの子は帰ってくる。必ず、この家に」
母の顔がモーガンの頭に隠れた。抱かれていた少年は身を捩って離れると、今度は自分の方から母を抱きしめた。
「そうじゃなくちゃこっちが困る」バージルは尖った口のまま言って、戸口へ向かった。「来い、サミィ。お前も手伝え」
一歩踏み出すところで、視界が真っ暗になった。
眼を開けると、そこは元の通りの、〈船〉の中だった。
ベルダーシュが手を引っ込めた。
「これで良かったのか?」
「ええ。満足よ」
「何だよ、二人だけで」向かいの長椅子からブッツァーティが、淀んだ眼でわたしたちを見交わしてきた。「何か楽しいことでもしてんのか? 混ぜてくれよ、俺も」
わたしは無視して顔を上げた。
湾曲した硝子の向こうに広がる空は、もはや濃紺も通り越し、黒となっていた。
夜空よりも更に暗い。太陽は、眩しい光点の一つと化した。
ついに空の向こうへ達したようだった。
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