8-3

「アニー。

 ――最後にもう一つ、あなたに謝らなければならないことがあるの。

 私は、ペンダントを渡した少年をその後も観察し続けた。その子がやがて大人になり、父親になっても。

 彼が命を奪われる瞬間も見ていたわ。

 私には何も出来なかった。何もしないと決めていたの。

 或いは彼を救うことは出来たかもしれない。けれど私は、観察者でいることを選んだ。それまでがそうだったように。理を変えることはしなかった。

 あなたは私を恨むかもしれないわね。

 いいのよ、それで。それが私の望むことだから。

 あなたが――あなたたちが〈怒り〉を覚えるようになったのは、進歩の証なの。その燃えるような感情の裏には、何かを守りたいという心がある。

 問題は、炎を自分で制御すること。自分の身体を包ませないこと。

 地球で生まれた〈人間〉は、それに失敗してしまった。だから私にも偉そうなことは言えない。ただ、あなたたちにはどうか同じ轍を踏んでほしくないとしか。

 アニー。

 あなたの怒りは、そしてそれを抱えて苦しんでいることは、決して無駄なことではないわ。否定されるべきものでもない。それはあなたたちが持っている、当然の権利なの。もし誰かがそれを取り上げようとした時は、抗ったっていい。

 でも、憎しみだけで行動してはいけない。

 引き金を引くのは、最後でも遅くないわ。


 自分たちの歩くべき道を行って。

 自分の足で。

 自分の意志で選びながら。

 あなたたちにはそれが出来ると、私は信じてる。

 信じること以外に、私たちがするべきことなどもうないの。

 後はもう、あなたたちが創っていくのよ。


 アニー、愛しい赤毛の女の子。

 どうかいつまでも、優しさを忘れないで――」


 テーブルに置かれた箱に、わたしは触れていた。

 ほんの一瞬前に手を伸ばしたことを思い出したけれど、それは遠い昔のことのようにも思えた。自分の手を、改めて見つめてしまった。たしかに自分の意志で動くのに、余所余所しさも感じた。

 何かが変わっていた。

 恐らくそれは、わたしの中に別の何かが入ってきたためだった。

 マザーの――オリガ=ブルガーコフの記憶。

 突然、大量に流れ込んできた〈他人〉に、まだ身体が慣れきっていないのだ。

 もう一度、箱に触れてみた。何も反応はなかった。指先に触れるそれは心なしか冷たく、もう死んでしまったような印象を受けた。

 それでもわたしは、何度も箱を触った。掌で包んだり、平手で打ったりもした。

「待ってよ」声が出た。「このまま行かないで」

 箱を掴む。片手で持ち上がるほど軽かった。わたしはそれを床に落とした。いや、明確な意志を以て叩きつけた。

 何度か転がった箱は、こぼれたコーヒーに波紋を作って止まった。

 わたしは床に膝を突いた。

 泪を流していることに、ようやく気が付いた。

「卑怯者――」

 誰に、どうして、そんなことを言っているのか、自分でもわからなかった。

 誰に、何を、どのように言えば良いのか、教えてほしかった。

 わたしは洞窟の中で、声を上げて泣くしかなかった。

 獣のように。

 反響する自分の声が、自分のものではないようだった。

 滅び去った創造主を胸に抱いたまま――。

 誰の慰めもないまま、声が嗄れるまで泣き続けた。


 助けを求めて泣き続けるにはしかし、わたしは大人になりすぎていた。

 嗚咽はやがて、呑み込めるほどに収まってきた。わたしは洟を啜り、泪を拭いて、しゃくり上げながらも呼吸を整えた。

 〈魔女〉のペンダントを握った。

 手の中で金属が軋んだ。そのまま力を込めれば握り潰せそうな気がした。

 鎖は難なく引き千切ることが出来た。パラパラと、細かな破片が床で音を立てた。

 深呼吸。

 自分がどんな顔をしているのか、鏡がなかったので定かではない。

 わたしの前にはただ、真っ黒な影が伸びているだけだった。

 本当に自分のものかと疑いたくなるぐらい、大きく長い影が。


 廊下に出るとすぐにベルダーシュと出会った。ドアのすぐ傍にいたようだった。

「――全部聞いていたの?」

「何も聞こえなかった」

「悪趣味ね」

 彼女は顔色一つ変えなかった。

 その鼻先に、わたしは拳を突き出した。上下を返して指を広げると、掌には〈魔女〉のペンダント、もとい〈マザー〉の破片が乗っていた。天井の電灯を受けて輝くそれは、力尽きた羽虫のようにも見えた。

 ベルダーシュの眼差しは、少しも動くことなくわたしに向けられていた。答えを促す眼だった。

「家にはまだ帰らない」

 もう一度、ペンダントを握りしめた。

「これは、わたしが受け取る筈だった物だもの」

 ベルダーシュは小さく頷き、わたしの脇を通り抜けた。わたしも踵を返して後を追った。

 後で知ったことだけれど、この日はわたしの、十六歳の誕生日だった。もう一つ忘れがたい出来事が起きたから、よく覚えている。

 〈ナサニエル・ヨークの虐殺〉が起きた日でもあった。

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