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「その名前には聞き覚えがあるわよね、アニー?
そう、今、あなたの頭に浮かんだ顔。その顔の元となった男が、私と一緒に火星に降りてきたの。
私たち二人と、十二人のオルタナ。それに、力仕事などの補助役としてアンドロイドが数体。何もない土地に集落を作って暮らし始めるには、妥当な人数だったと思う。畑だってこれから作らなきゃならないのだもの。
降り立った場所は、周囲に何もない乾燥地帯の真ん中だった。遠く北の方角に山脈が見える他は、ただただ地平線が赤い大地と黄土色の空を分けているばかりだった。
当時ならば、テラ・フォームの進捗を監視するための観測施設がどこかにあった筈だけど、そちらとは敢えてコンタクトを取らなかった。そこに詰める僅かな人類も、恐らくは地球で何が起きたかは知っている筈だった。自分たちが宇宙の果てに取り残されたと知った彼らが、突然現われた私たちにどのように接するかは予想が出来なかった。
――こういう言い方をすると薄々伝わっているかもしれないけれど、はっきりと私たちは、観測所の人間たちが敵意を向けてくると思っていた。それぐらいに怯えていたのね。しかも観測所にいる人間の大半は軍人だった。
これは大分後になってわかったことだけど、観測所では食糧を巡る争いがあって、その食糧も尽きてしまうと、最後は皆、自ら命を絶ったようだったわ。後に残ったのは凄惨な記録映像と、いくつかの白骨死体。それから、アンドロイドの部品。半分砂に埋もれたその現場を見た時、最初に湧いた気持ちが〈諦め〉だったのを今でも覚えている。
とにかく、〈人間〉との没交渉を貫く政策は、結果として功を奏した。大きな嵐に襲われることもなく、概ね平和な日々が続いたの。
私たちは航宙船から降ろした簡易的な研究設備を設置し、そこを拠点として村を作った。オルタナたちは皆、外で働き、ベケットと私は彼らの動きに問題がないかチェックをした。やがてオルタナ同士で夫婦が出来、初めての子供も生まれた。
六つの夫婦それぞれに子供が出来るまで見届けるのが、私とベケットの役目だった。ここからは火星の単位で話すけれど、六人目の子供が生まれるまでには五年が経っていた。
宇宙で眠りから目覚めた仲間が、いよいよ交替のため地上に降りてこようとしていた前の晩のことは忘れない。
その日、私はベケットと星を見上げていたわ。――なんとなく予想がつくかもしれないけれど、私たちは互いに惹かれ合う関係になっていた。この夜も、ただの同胞としてではなく、恋人として、いえ、共にかけがえのないパートナーとして、肩を並べて星空を眺めていたの。
私のお腹の中には、この星で七番目に生まれる子供が宿っていたわ。尤も、それがわかったのは交替が来る一週間ほど前で、まだベケットには話していなかったけれど。
引き継ぎの準備に追われていたこともある。でも何より、彼に拒絶されるのが怖かった。
今は〈人間〉を増やす時ではないと、わかっていたから。
けれど、私は告げた。産みたいという、正直な気持ちも添えて。
返ってきたのは、予想通りの反応だった。言葉まで、まるで私が書いた台本を読むように想像のまま。
今はまだ、人類が降り立てる場所を整えるのが先決だ。人口を増やすのはその後だ。それにこんな環境じゃ、子供が生まれたところで、まともに育てるのは不可能だ。
私は反論した。おかしな話だった。オルタナが子供を育てられるのであれば、人間だって可能な筈だ、と私は言った。体組織は殆ど変わらない。違うのは大気への適正と、怒らないことぐらいだ――。そこまで口にした時、私ははたと気が付いた。
自分を、オルタナたちと同質の存在であると見做していることに。
彼らを、惑星開拓のための代替生物として見られていないことに。
開拓が終わった時に彼らの一切を消し去るなど、考えられなくなっていた。
いえ、そもそもが、そうした結末を上手く想像出来ていなかったのね。目の前で子を産み、それを抱き上げ喜ぶ彼らの顔が、いつか全くの無に帰すことを、私は同じ時間軸の延長に置けていなかったの。
強い吐き気がこみ上げてきた。妊娠の一環に拠るものとしては、禍々しく、病的な吐き気だった。或いは、短時間だからと油断してマスクも着けずに大気に当たったのがいけなかったのかもしれない。
私は岩の影に屈み込んだ。お腹の子も含め、自分の中の全てが口から流れ出て行くようだった。
一晩中考えて、或る結論を導き出した。
――違うわね。たぶんずっと前から、そうしようと心に決めていたの。
私はベケットに、地上に残ることを告げた。ここで子供を産み、オルタナたちと同じ時間を過ごす、と。
彼は眼を剥いて反対した。「自殺に等しい」という言葉さえ出たわ。
だけど私の気持ちは揺るがなかった。六百年間、オルタナたちの開拓の様子を見つめ、彼らが消去される時には一緒にこの世から姿を消す。それが、唯一自分に残された真っ当な道に思えたの。
ベケットは納得していない様子だった。同時に、説得が不可能なことも悟っているみたいだった。やがてやって来た交代要員にも訳を話した。彼らも同じ顔をしていたわ。
君が一時的な気の迷いで、残りの一生を後悔に沈んで生きることを本当に哀しく思う。
去り際、ベケットはそんなことを口にした。
私は、どうか良い夢を、とだけ返した」
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