7-2

 どれだけの時間、そうしていたかはわからない。わたしは机の箱を見つめていた。

 手を伸ばせば届く距離にあった。にも拘わらず、その僅かな距離を超える踏ん切りが付けられなかった。

 これ以上、何かを知ることが怖かった。

 与えられる情報はどれも、わたしが、わたしたちが、人間ではないことを裏打ちするばかりだった。わたしたちの営みは全て否定され、容易く破壊されて当然のような軽さしか持っていないと、わざわざ教えられているようだった。

 何も知らない方が幸せだったのではないか――。

 そんな考えが、頭を過ぎった。何も知らずに幸せに過ごし、突然降って湧いた恐怖に、ほんの僅かな一時だけ恐怖して死んでいく。それはそれで幸せなことだと思う。下手に人生の期限を知らされて、刻々と時間が減っていくことに恐怖しながら生きるよりもずっと良い。

「勝ち取りなさい、アニー」

 不意に〈マザー〉の声が、耳の内側で響いた。

「〈人間〉たちが辿り着けなかった場所へ、あなたは行って。あなたならきっと、それが出来る……」

 マグカップが床で砕けた。その音はしかし、くぐもっていた。

 わたしは両耳を塞いでいた。そのまま頭を抱え込んだ。足を椅子に乗せ、蹲る。身体を限界まで小さくしようと折り曲げる。最後には小さな点となって消えてしまうことを、半ば本気で願った。

 胸元で、ペンダントの鎖が音を立てた。

 薄目を開くと、金色の表面が、隙間から射し込む電灯の光を小さく返していた。

 わたしは何の考えもなく、ゆっくりと身体を解いた。そして掌に、〈魔女〉のペンダントを乗せた。

 手の中で輝くそれは、ずしりと重かった。

 それまで気付かなかったけれど、表面には細かな傷が、いくつも刻まれていた。わたしが付けた傷。父が付けた傷。〈魔女〉が付けたものもあるのかもしれない。

「これは我が家の宝物だよ、アニー」

 今度は父の声がした。

「いつか君に子供が出来て、その子が一人前の大人になったら、君がその首に掛けてあげるんだ」

 わたしはそっと包み込んだ。

 全ての傷を。

 刻みつけられてきた、全ての時を。

 自分の手の中に収めた。


「この声を聞いているということは、私はあなたに何も話さずに逝ってしまったということね」

 〈マザー〉の声が聞こえた時、わたしは闇の中に立っていた。

 いや、自分の身体は感じられなかった。鮮明な夢。そんな感じだった。

 周囲の闇全体が、〈マザー〉の声で語りかけてきた。

 声はしかし、わたしの返事など待っていなかった。語られる言葉は、水の流れのように、一方向しかなかった。

「本当は直接、顔を合わせて話をするべきなのだけど。こんな形でしか伝えられないこと、心の底から申し訳なく思うわ」

 闇の中に一点、光が萌した。光は見る間に大きくなっていく。

「これは、私が次の身体へ継承する情報を加工したもの。つまりは記憶のアルバムね。ここには、あなたたちが知らない――知らされていない、大昔の出来事が眠っている。絵空事のように思えるかもしれないけれど、全ては現実に起こったことよ。尤も、信じるか信じないか、最後に判断する権利は、あなたにあるけれど」

 大きくなっていたのではなく、わたしの(意識の)方が光に近付いていたのだと悟った。

 やがて、わたしの周囲の闇は光に溶け、一切が目も眩む白に上書きされた。

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