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 そこからしばらくの間の記憶が途絶えている。

 気付いた時には洞窟の中にいた。初めて〈マザー〉と会った場所とはどこか様子が違った。床も壁も岩肌がむき出していて、以前の場所より古びた印象を受けた。

 配線の剥き出しになった電灯が瞬いた。

 足音が近付いてきて、わたしの傍に止まった。

 湯気を立てるホーローのマグカップが差し出された。わたしはそれを両手で包み込んだ。

「ありがとう」

 ベルダーシュは小さく頷いた。

 熱いコーヒーを啜った。酸っぱさを含んだ苦みが、口の中に広がった。頭の奥の凝り固まった部分が解きほぐされていくようだった。一息吐くと、久しぶりに呼吸をしたような気になった。

「あなたはその……前に会ったベルダーシュとは違うの?」

「ボディは異なる。だが、記憶は同期されているから、同一の存在として認識してもらって構わない」

「オルタナ――なの?」

「お前たちの言葉で言うとそうなる。正確には、アンドロイドと呼ばれる存在だ。そこにいる彼と同じように」

 〈名なし〉が壁に寄り掛かって立っていた。

「我々は彼のデータを元に、〈マザー〉によって造られた機体だ。謂わば彼は、人間の言葉でいえば〈兄〉ということになる。尤も、それほどの親しみを感じるわけではないが」

 頭を撃ち抜かれ、倒れたベルダーシュの姿が目の裏に蘇った。

「……無理もないわね」

「〈マザー〉は身を挺して彼の所有権を取り戻した」大きな賭だった、と彼女は続けた。「もし、そこの彼が〈マザー〉の同一性を認識しなければ、緊急動議が認められることはなかった。手首を切ったのが無駄になるところだったのだ」

「わたしのために……」

「〈マザー〉自身の願いでもあった」

 慰めるにしては、淡々とした調子だった。あくまでも彼女は、真実を述べているだけのようだった。

「〈マザー〉は――」わたしは言った。「あの人は、五百年間も身体を乗り換えながら生き続けてきたんでしょう? また生き返ることは出来ないの?」

「身体を乗り換えてきたわけではない。近しい生体に、齟齬を極限まで少なくした記憶のバックアップを乗せていただけだ。外見は変わりないように見えるが、彼女自身は別人としての自我を持っている」

 わたしは〈わからない〉という顔をしていたようだった。

「つまり、お前の身体とそっくり同じ物を作り、お前の意識も記録しておく。お前が死んだ後に、作った身体に記録を取っておいた意識を流し込み、アン=モーゼスとして扱うのだ。今のお前からすると、それは全くの別人になる」

「確かに」わたしは頷きながら、〈マザー〉が言っていた〈近似存在〉という言葉を思い出した。

「じゃあ、次に生き返る〈マザー〉はわたしの知っている彼女ではないのね」

「厳密に言えばそうだ。だが、死の直前までのバックアップは取ってあるから、お前のことも知っている。私の時と同じだ。それよりも、もっと根本的な問題がある」

「何?」

「肉体を生成する材料が尽きたのだ」

「探せばいいわ。世界は広いのよ」

「隅々まで探し尽くした。それに、我々の持つ技術では、どうしても劣化を避けられない。あの肉体が限界だった」

「それでも、どうにかなるのであれば、するべきだわ。もう一度、生き返らせることが出来るのなら」

「〈マザー〉がそれを望んでいない。彼女は、あの肉体を最後にすると決めていた」

 突然、足元の床が抜けたような感覚に襲われた。

 わたしは虚ろな気持ちのまま、言葉を漏らした。

「どうして……?」

「〈人間〉の寿命は本来、七十年かそこそこだった。だが、医療の進歩から始まり、延命の技術は見る見る向上した。或る者は長い眠りに就くことで生き長らえ、或る者は身体を乗り換えることで――この場合は脳を移し替えるのだが――命を延ばした。自然の摂理に逆らって、力ずくで寿命を引き延ばすようになったのだ」

「長く生きられるのなら、それで良いじゃない。早く死んでしまうよりずっと」わたしは言った。ペンダントを握っていることに、遅れて気が付いた。

「〈マザー〉は、そうは考えなかった。彼女は、人間は本来の自然の摂理の中へ戻るべきだと主張した。結局、その主張は受け入れられず、彼女は〈彼ら〉と袂を分かつこととなった」

「そこで言う〈人間〉というのは、それはわたしたちのことなの?」

「違う。お前たちは〈オルタナ〉だ。火星開発用人造生命体。この星に暮らすお前たちは本来、そう呼ばれていた」

「人造……」口の中で言葉を転がした。何の味もしなかった。「わたしたちが、人の手で造られた存在」

「オルタナは文字通り、この星の開拓用に配された人工の生命体だ。この星の環境面から、かつて地球で一つの大国の礎を気付いたのと同じ生活様式が取り入れられた。尤も、〈彼ら〉の中に彼の国にルーツを持つ者が多くいたというのも、大きな理由の一つではある。もう一度、あのようなことになる前からやり直したい。そんな心が、新たな住処の造成を始める際に過ぎったのかもしれない」

 そう言ってベルダーシュは、皮肉っぽく肩を竦めた。

「――わたしたちは、人間が住む環境を整えるために生きている働き蟻だということ?」

「或いは、それ以下の存在かもしれない」

 バクテリア、と絵画の一人は言っていた。

 〈彼ら〉からすれば、わたしたちが抱く怒りも喜びも悲しみも、全ては無意味。いつかはなかったことにされてしまう。

 わたしたちは、地面を均すだけの、虫以下の存在――。

 薄々は予感していた。ペリグリンの崖の上での、ヒースの言葉がずっと耳に残っていた。けれど、改めて事実として聞かされると、その重みが想像以上にのし掛かってきた。

 机に何か置かれた。

 四角い、箱のようなものだった。表面には模様と思しき線が入っていた。

 ベルダーシュが言った。

「〈マザー〉からの言伝だ」

 〈マザー〉という響きに、視界が揺れた。

「こうした事態になった時に見せるよう、指示を受けている。手に取ってみてほしい」

 わたしは箱を見つめた。けれど、マグカップを包んだきり、手は伸びなかった。掌の中でコーヒーはすっかり冷たくなっていた。

「……見たくないわ」

 言葉はなかったけれど、問うような気配が伝わってきた。

「今はまだ、何も聞きたくない。色々なことが起こり過ぎて受け止めきれないわ」

「私の口から詳細を述べるのは差し控える。だが、一つだけ伝えておく」ベルダーシュは言った。「あまり時間が残されていない。悠長に構えていられる状況ではないのだ。もし〈マザー〉の言葉を受け止めたのなら、真実に目を向けるべきだ」

「わたしには、そんな強さはないわ」

「お前が強いのか弱いのか、私に判断する術はない。ただ、〈マザー〉が認めたという事実に基づくだけだ」

「買い被られたのね、きっと」今度はわたしが、肩を大きくすぼめてみせた。

「このまま元の暮らしに戻るのか?」

「叶うことなら」

「遅かれ早かれ、その暮らしは終わることとなる。〈彼ら〉は動き始めた」

 蒼白い光線が人々を――火星に住まうオルタナたちを焼いていく様が、頭に浮かんだ。倒れる人影の中には、見知った顔も多かった。

「……どうせ死ぬのなら、最後まで家族と一緒にいたいわ」

 そして出来れば、父の墓の傍で。

 ベルダーシュの顔に怒りの色はなかった。彼女は、ただこちらを見下ろしていただけだった。責められていると感じるのは、こちらの勝手な思い込みのようだった。

「無理強いはしない」やがて彼女は言った。「一晩だけ待つ。その間に、正式な答えを出してくれ」

 踵を返し出て行こうとする背中を、わたしは呼び止めた。

「わたしが、ここで帰る選択をしたらどうなるの? あなたたちだけではどうにもならないの?」

 ベルダーシュは少しの間、立ち止まっていた。けれど、ついにこちらを振り返ることなく部屋から出て行った。壁に寄り掛かっていた〈名なし〉も後に続いた。

 わたしの元には冷たくなったコーヒーと、正四面体の箱が残された。

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