6-5
〈名なし〉に連れられるまま乗り込んだのは、来た時に乗ってきた〈船〉だった。乗降口付近にも、それから内部にも、武器を携えたテラーズの姿があった。ヒースの顔をした男はどこにもいなかった。
わたしたちが中へ入るのと同時に乗降口は閉まった。やはり何の振動もなかったけれど、〈船〉は動き出したようだった。
行きは〈名なし〉によって出入り口を塞がれた部屋に、〈マザー〉はいた。長椅子に寝かされていたのだ。傍には死んだ筈のベルダーシュが付き添っていた。そちらにも充分に気を引かれたけれど、ここは〈マザー〉が先だった。透明な覆いを被せられた彼女の口は、明らかに息を切らせた時の動き方をしていた。
わたしが駆け寄っても、彼女の銀色の瞳がこちらを向くことはなかった。手首に包帯を巻かれた右手は、前に触れた時よりも更に冷たく感じられた。
「助かるの?」
わたしの問いに、ベルダーシュは短く首を振った。彼女は床のどこか一点をじっと見つめた後、わたしを見返してきた。
「嵐の中に入る。どこかへ掴まれ」
程なくして、辺りが仄かに暗くなった。パチパチと、湾曲した硝子に何かの当たる音が、降り出した雨のように響き始めた。
不意に乗り物が、大きく上下した。床が抜けたような感覚を覚え、わたしは長椅子の肘掛けにしがみついた。肩を〈名なし〉に抱かれていた。
「アニー……」くぐもった声がした。〈マザー〉の眼が、こちらを向いていた。「よく、怒りを堪えたわね……」
透明の筒でのことだ。わたしは首を振った。
「ただ臆病だっただけです。本当は、ブッツァーティを心の底から憎んでる」
「自分の弱さを知るのも、また勇気よ」
外で閃光が走った。雷だった。
「あなたの声が聞こえました」
わたしの言葉に、〈マザー〉は目を細めた。
「あなたが止めてくれたんです。もう少しで、わたしは……」
胸元で〈魔女〉のペンダントが揺れた。白い指が、金色のペンダントに触れていた。
「これも、何かの運命ね……いえ……予め決まっていたのかしら……」
〈マザー〉の指がペンダントを撫でる。懐かしむような手つきだった。それから彼女は、〈名なし〉を見上げた。
「あなたの所有権を、アン=モーゼスに移行するわ。これからはこの子がマスターよ」
返事はなかった。けれど、頷くような気配が伝わってきた。
〈マザー〉の呼吸が段々と浅くなっていった。まるで灯火が小さくなるように。
「勝ち取りなさい、アニー」〈マザー〉は言った。「自分たちの存在する意味を。憎しみを乗り越えて。〈人間〉たちが辿り着けなかった場所へ、あなたは行って。あなたならきっと、それが出来る……」
また大きな揺れがあった。稲光が辺りを白く照らした。
わたしの手の中には〈マザー〉の細い指があった。けれどその指にはもう、生命は宿っていなかった。
頭の中から言葉が消えた。
砂粒の打ち付ける音が、わたしの思考を塗り潰してしまった。
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