6-3

 気付けば崖の上に立っていた。全く見知らぬ場所ではなかった。ペリグリンの、あの例の場所だった。

 何もかもがあの時と同じだった。

 わたしはライフルを手にしていて、胸の前で構えていた。

 銃口を向けた先には両手を広げたブッツァーティの姿があった。時間が巻き戻ったか、今の今まで長い白昼夢を見ていた気分だった。

「こりゃ一体何だ」ブッツァーティが言った。「どうなってやがる。どうしてまたここにいる?」

 彼もまた、つい今しがた夢から覚めたような顔をしていた。辺りを見回し、自分の身体を見下ろし、拳を握っては開いて自分の身体を確かめた。特に明快な答えは得られなかったらしい。虚ろな眼が、わたしの方へ向けられた。

「……お前は幻か?」

「少なくとも、自分では違うと思う」

「だったら銃を下ろせよ。そんなことしてる場合じゃねえだろ」

 何故だか下ろす気にはなれなかった。腕が動かないのではない。下ろしたくなかった。

「覚えてるぞ」ブッツァーティが言った。「あの騎兵隊員に水攻めにされたんだ。お前もそうだろう?」

 やはり夢ではなかった。けれどその事実は、荒野の陽射しに焼かれた岩にコップの水を掛けたぐらいの結果しかもたらさなかった。

「その通り」

 声がした。先ほどの額縁たちの声。彼らのうちの誰かではなく、全員の最大公約数的な声だった。まるで自分の考えていることのように、頭の中から発せられていた。片耳を押さえているところを見ると、ブッツァーティにも同じことが起きているようだった。

「君たちが立っているのは、夢でも、過去の記憶の中だけでもない。我々の誂えた〈舞台〉といったところだ」

 見渡す限りの岩山で、周囲にはわたしたちの他には誰もいない。けれど確かに、視線を感じた。誰かが、ひょっとするともっと多くの眼が、こちらへ注がれている気がした。

「〈公演〉はすぐに終わる。簡単なことだ。君たちには、互いに相手の命を奪い合ってもらう」

 手の中のライフルが、突然重さを増した気がした。

「は?」ブッツァーティが天に向けて問い掛けた。「今、何つった?」

「どちらかが死ねば、この状況は終わる。そう言ったのだ」

 ツー、という音が、頭の奥で鳴り出した。視界の縁が暗くなり、靄も立ちこめてきた。呼吸が浅く、早まるのを感じた。

 笑いが起きた。

 耳に纏わり付く不快なそれは、ブッツァーティから発せられたものだった。彼は気が振れたように笑い、やがて竜巻が去るように収まってくると、ホルスターから銃を抜いてこちらへ向けてきた。

「つまり見世物ってわけか、俺たちは。俺たちの殺し合う様が。面白えじゃねえか」

 わたしもライフルを握る手に力を込めた。

「見たいって客がいるんなら仕方ねえ。見せてやろうぜ、なあ? どうせ本当に死ぬわけじゃねえんだろ?」

 ブッツァーティの引き金に掛けた人差し指が、硬くなった。銃口で爆発が起きたかと思うと、わたしは左の肩を、金属の棒で強く殴られたような衝撃に見舞われた。あまりの勢いに身体を半回転させながら後ろへ吹き飛ばされた。銃声は残響しか聞こえなかった。

 左肩がカッと熱くなり、その奥から痛みが湧いてきた。腕を貫かれた、としか形容できない痛みだった。

 悲鳴を上げたかどうかも覚えていない。声を出す余裕なんてなかったかもしれない。覚えているのは、肩を押さえた指の隙間から、生温かい、ぬるぬるとした液体が溢れて出てきたことだけだ。

「あれ?」硝煙の向こうで、ブッツァーティが小首を傾げた。「こいつはもしかして……」

「言っただろう、これは夢や幻なんかじゃない。そこはあくまで、我々が作り出した現実なんだ。君らはただ、別の場所に移動したに過ぎないのだ。生きたければもう少し真面目に事に望んだ方がいい」

「なるほどねえ」掌で拳銃を弄びながら、ブッツァーティが近付いてきた。顔には見慣れてしまった笑いが貼り付いていた。「悪かったな。俺はてっきり何も感じねえもんとばかり思ってたぜ。ほら」

 取り落としたライフルが、目の前に置かれた。

「持てるか? 持ってもらわねえと困るんだが。これで終わりじゃ、お客が納得しねえだろ。ほら、持てよ」

 肩から濡れた手を離し、ライフルの方へ伸ばした。心臓が脈打つ度に痛みが走ったけれど、銃を引き寄せることが出来た。

 引き金に指を掛ける。でもそこまでだった。片手では銃口を上げる力もなければ、気持ちも湧かなかった。わたしは硬い岩に頬を押し付けたまま、目を閉じた。全てが通り過ぎてしまうことを願った。この状況を構成する全てが通り過ぎることを。

「それはいけない」頭の中の声が言った。「それでは困るんだ、アン=モーゼス。君に諦めるなんて選択肢をとる権利はない」

 権利、とわたしは口の中で呟いた。

「我々は君の振る舞いに興味があるのだよ、アン=モーゼス。捨て鉢にならないでくれたまえ」

 すると、左肩を焼いていた痛みがスイッチを捻ったように消えた。朦朧としていた意識も鮮やかさを取り戻した。まるで、ぐっすり眠った翌朝、ベッドで目覚めた時のように頭が冴えていた。

 身体を起こすと同時に、獣の鳴き声のような音が耳を突いてきた。

 ブッツァーティだった。彼は両肩を抱え、身を捩らせていた。痛みに悶えているように見えた。ついに堪えきれなくなったようで、膝を屈し、倒れ、地面を転げ出した。その様はあたかも全身に銃弾を浴びでもしたようだった。

「彼を撃ちなさい、アン=モーゼス」

 わたしの右手はライフルを握っていた。

「今なら彼を殺せる。撃ちなさい」

 ライフルを構えた。杭に乗せた空き缶を思い浮かべながら、ブッツァーティの頭に狙いを定める。

「ま、待て」切れ切れの息の合間から、ブッツァーティが言った。泪と洟と涎で濡れた顔に浮かぶ笑みは、その性質が変わっていた。「ちょっと待て。落ち着け。おかしいぜ、これは。何だってんだ一体」

「撃ちなさい、アン=モーゼス。彼を殺しなさい」

「待てよ。動けない相手を殺すのか?」

 〈命知らず〉の面影もなく動き回るブッツァーティの頭を、わたしは銃で追い続けた。

 頭の中で聞こえる声は、わたしの思考に下線を引いた。そこには、強調と肯定の意味が含まれていた。

「……そんなことしても、親父は喜ばねえぞ?」

「こういうのはもっとフェアにやるもんだろ」

「こんなのは敵討ちでも何でもねえ。ただの人殺しだ」

」「」「

」「

「駄目よ、アニー」〈マザー〉の声だった。「そっちはあなたの進むべき道ではないわ」

 何か硬いものに亀裂の走る音がした。

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