6-2

 額縁だった。全部で十一枚。それぞれには絵が填め込まれていた。人の肖像に、花を模写したもの、どこの景色がわからない風景画もあった。それらは皆、向こう側が透けて見えた。恐らく手を伸ばしても触れることの出来ない幻だったのだろう。浮かび上がった額縁は、こちらを向いたままゆっくりと回転していた。

「久しぶりだね、オリガ」声は、天から降ってくるようだった。けれど発言したのがどの絵であるのかは、幻が濃さを増すのでわかるようになっていた。この発言は耳に包帯を巻いた肖像画のものだった。

「思ったより元気そうだ」別の額縁が言った。こちらは淡い色合いの風景画。陽の降り注ぐ森のようだ。「随分歳を取ったようだけど」

「歳を取って、死も経験した」〈マザー〉が静かに答えた。「この五百年間、何度も繰り返してきたわ」

「とすると、君は……」と、顔に手を充て何か叫んでいるような人物画。

「厳密に言えば、私はオリガ=ブルガーコフではないわ。少なくとも、あなたたちが知っているオリガじゃない。記憶も肉体も継承するごとに少しずつずれてきた、近似存在よ」

 絵画たちが溜息を漏らした。

「この星の少ない資源では完全な肉体を生成することは難しい筈だ」畑で何かを拾っている農婦たちの絵が言った。

「ええ。残念ながら、その問題は克服できないままよ。お陰でこんな杖まで突く羽目になっているわ」

「戻ってきたら?」女性の声だ。こちらは壺に水を注ぐ少女の絵が描かれていた。「オリガ、今からでも遅くはないわ」

「いいえ、もう手遅れ。わたしはあなたたち一人一人の名前も覚えていない。一緒くたに〈管理者たち〉としか呼べないの」

「どうしてそこまで僕たちを憎むんだい?」そう言ったのは何かの模様。よく見ると人の顔のようでもあったけれど、崩し過ぎていてよくわからなかった。

「憎んではいないわ。ただ、あなたたちのやり方に賛同しかねているだけ」

「我々のやり方が間違っていると?」太い声は、青々とした波の絵だ。わたしは見たことがないけれど、海なのだろう。

「そうね。正しいとは思わない」

「ブルガーコフ博士、あなたは誤解している」空からたくさんの人が雨のように降り注ぐ絵が言った。

「我々はこの星を、同胞たちのために開拓しようとしているだけなのだよ」大きな街の中に円形の塔が立つ風景画が言った。

「実際に手を動かしているのは別の存在よ。あなたたちは安全なところで、ただ眠っているだけでしょう」

「眠っているだとは心外だな」溶けたチーズのような時計が、木の枝や石段に掛かった不思議な絵が言った。

「我々はこうして、五百年もの間この星を見守ってきたのだ」ベッドに横たわり、こちらを向いて裸の微笑む女性の絵が言った。

「まるで神のような言い方ね」〈マザー〉は溜息を吐いた。「意識だけになってどれぐらい経つの? もう時間の感覚もなくしてしまったのでしょう?」

「私たちは変わらない。君の方こそ、永遠の命を手に入れたつもりになっているんじゃないのかい?」と、包帯を巻いた肖像画。

「反対よ」

「反対?」

「むしろ命の短さを強く感じるわ。私、これでも二十六歳だもの」

 笑いは起こらなかった。皆、唖然としているのが伝わってきた。わたしも同じだった。けれどわたしと彼らとでは、言葉を失う理由が違っていた。

「それで」〈マザー〉は杖の先でコツコツと、床を叩きながら言った。「私の可愛い子供たちを殺してまで、私をここへ連れてきた理由は何? 戻るよう説得するため?」

「今更そんなことは求めていない」海の絵が言った。

「連れ戻そうと思えば、いつだって出来たからね」溶けた時計の絵が言った。

「放っておいてくれて感謝するわ」

「いや、感謝すべきはこれからだよ」叫んでいる絵が言った。

「本当は放っておこうという意見もあったんだ」裸婦像が言った。

「計画が少々前倒しになった」崩しすぎた肖像画が言った。

「眠りを妨げるようなトラブルでも起きたのかしら」

「トラブルといえば、そうだね」淡い森が言った。

「問題を起こしたのはその子たちの方よ」水を注ぐ少女が言った。「そのオルタナたちが」

 わたしは胸に、氷の楔を打ち付けられたような感覚を味わった。心臓を一瞬凍らせた冷たさは、すぐに身体中へ広がった。

「彼らは危険なんだ」人の雨が言った。

「危険?」

「彼らは強い殺意を抱き始めている」塔の絵が言った。

「武器を与えたのはあなたたちではなくて?」〈マザー〉が言った。

「我々が与えたのは自衛のための道具だ。暴力の手段ではない」

「ただ渡すだけではそこまでのことは伝わらないわ」

「暴力性は組み込まれていない筈なんだ」

「どこかで芽生えたのよ。人間を元にしているのだから当然だわ。細胞の一つ一つに、暴力性が備わっているのよ」

「オリガ、君だって人間だろう」

「機械を愛するあまり、心まで失ってしまったのかい?」

「可哀想なオリガ」

「可哀想」

「可哀想」

「まったく可哀想だ」

 〈マザー〉はまた溜息を吐いた。今度は先ほどのものより深かった。

「我々の試みは、或る意味では失敗だったのかもしれない」自画像が言った。

「彼らは凶暴になりすぎた。これでは、地球を滅ぼした連中と変わらない」

「だからリセットすると? 既に一つの社会を形成している彼らの命を奪っても構わないというの?」

「彼らはこの星を開拓するための自動機械だよ、オリガ」

「ゴミを分解するバクテリアの気持ちをどうして加味する必要がある?」

「五百年も一緒にいたから、情が移ったの?」

「そうかもしれないわね」と、〈マザー〉は空いた方の手でこめかみを押さえた。頭痛がする、と言わんばかりに。「あなたたちに対してよりは、余程シンパシーを感じる」

「だけど彼らは機械だ」

「せいぜい農耕馬といったところか」

「暴れ馬」

「手が着けられなくなる前に、手を打たねばならない」

 頭上を飛び交うようなやり取りをぼんやりと聞いていたわたしは突然、透明な筒に閉じ込められた。床の下からせり上がってきたようだった。丁寧に蓋まで閉められた。

 周囲の、一切の物音が遮断された。わたしに聞こえるのは自分の息遣いと、足元から這い上がってくる水音だけだった。どこからか湧いてきた水は、瞬く間にわたしを呑み込んだ。大きく息を吸い込む間も与えられなかった。

 堪えきれずに、空気の塊を吐き出した。

 筒を満たした水には色が付いていて、それは青にも黄色にも紫にも見えた。滲み行く着色された景色の中にはもう一本、同じような筒が立っていた。そちらも水で満たされていて、誰かが入っているようだった。〈マザー〉ではない。〈名なし〉でも、ヒースでもない。消去法的に、その人物は特定された。

 視界が、それから意識がぼやけていった。やがて苦しさも感じなくなった。

 全てが闇に包まれた。

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