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〈マザー〉の指揮の下、洞窟を出る準備が始まった。わたしも部屋で、自分の荷物を纏めることとなった(といって、服と銃とペンダントぐらいしかないのだけど)。
廊下では、それまでとは打って変わって何人ものテラーズとすれ違った。やはり皆、ローブを目深に被って仮面を着けていた。何か、顔を見られたくない事情があるのかもしれなかったけれど、深掘りしている時間はなかった。
準備をしながらも、ブッツァーティに対する怒りは高まる一方だった。けれど、それがほんの僅かな間だけ停滞した。担架で運ばれる姿を見たのだ。
裸で白い布に包まれた奴は、布に負けないぐらい白い顔をしていた。首には包帯が巻かれ、一部には赤黒いシミが滲んでいた。〈マザー〉の部屋で見た試験管に付いていたものと似た色だった。
「あのババア、悪魔だ……」譫言のように、奴は言った。
「悪魔じゃなくてテラーズよ」わたしは奴を見下ろしていた。「食べられなくてよかったじゃない」
聞こえているのかいないのか、返事はなかった。
相手の動きは予想以上に速かった。それは、ベルダーシュたちの反応を見ていればわかった。彼女は明らかに準備の手を途中で止め、わたしを促して廊下へ出た。
鏡の仮面を付けた人影がいくつも駆けていく。それと逆行する形で、わたしたちは洞窟を進んだ。何となく、奥へ奥へと向かっているようだった。そうして、天井の高い空間に行き着いた。
ソートが四頭繋がれた馬車が待っていた。闇の奥からは風の気配がした。
「さあ、乗って」仮面を付けた人物に付き添われながら、〈マザー〉が歩いてきた。
「これで全員ですか?」
わたしと彼女、ベルダーシュと、〈マザー〉の付添人に御者台の人物。それから担架の引き手が二人と、彼らに運ばれたブッツァーティ。洞窟内で見かけた人数には、明らかに足りていなかった。
「残りの人たちは?」
「ここで追手を足止めするわ」そして〈マザー〉はわたしの手を取った。「大丈夫。彼女たちも折を見て脱出するから」
冷たい手は、小刻みに震えていた。
「お急ぎを」
ベルダーシュの言葉に背中を押される形で、わたしたちは馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる間際、地鳴りのようなものが響いた。パラパラと小石が落ちてきて、天井に当たった。遠くで破裂音もした。
後ろの席から呻き声が上がった。ブッツァーティだ。
「縄張り争いでもしてんのか、未開人どもは」
「まあ、そんなところね」〈マザー〉は肩をすぼめた。
馬車が走り出した。
真っ暗な洞窟を、前方に据えられたランプの灯りのみを頼りに進んだ。廊下とは異なり、こちらの地面は真っ平らに均されているわけではなさそうだった。座席の下からは断続的に突き上げる力が加わってきた。その度、ブッツァーティは苦しみに悶えていた。こうした状況で一番つらいのは横たわっていることだと、わたしは経験から知っていた。
やがて、窓の外で闇が途切れた。周囲には橙色に染まった荒れ地の風景が広がっていた。朝焼けなのか夕焼けなのかは、すぐに判断がつかなかった。
岩場の中で、何か光った気がした。首を伸ばそうとすると、隣で動く気配があった。
「頭を下げろ!」
ベルダーシュが言った。かと思うと、わたしは有無を言わさず座席に押し倒された。
銃撃は続いた。
窓が割れた。室内のランプが砕けた。座面が砕かれた。屋根にも穴が空いた。ペリグリンの山小屋でブッツァーティたちに銃撃された時ほどの勢いはなかったけれど、一発ずつが正確に何かを破壊していた。
馬車が大きく揺れた。首を捻ると、御者台の人物が頭を垂れている。揺れに抗っていないところを見ると、身体に力を入れられる状態にはないらしかった。
更にその前方では、ソートが体勢を崩していた。前の一頭が倒れ、その後ろに付いていたもう一頭が巻き込まれる。片側の動力が一切機能を失って、もう片方の二頭も進めなくなる。馬車は半回転する形で、荒野の真ん中に停止した。
今やわたしは床に伏せっていた。外を覗おうとしたけれど、ベルダーシュに諫められた。彼女はいつの間にか仮面を装着していた。
誰かが近付いてくる気配があった。そう多い数ではなさそうだった。
「ここは大人しくしましょう」同じように伏せていた〈マザー〉が言った。「抵抗さえしなければ、危害は加えられない筈よ」
扉が開かれた。砂埃を孕んだ風が吹き込んできた。
立っていたのはヒースだった。初めはわたしたちと旅をした彼なのか、同じ顔の別人なのかは見分けがつかなかった。目が合った時に微笑したことから察するに、恐らくは最初に出会った彼だった。
ヒースは言った。
「お久しぶりです、オリガ=ブルガーコフ」
言葉の先で、〈マザー〉が身体を起こした。
「あなたは……そう、〈彼ら〉の子供ね」
わたしたちは命じられるまま、馬車を降りた。辺りの空気がやたらと埃っぽく感じられ、スカーフで口元を覆わずにはいられなかった。
〈マザー〉、わたしという順で外へ出て、後ろにベルダーシュが付いていた。彼女は腰の銃に手を掛けていた。わたしはなるべくそれを意識しないよう、気持ちを別の方へと傾けた。ヒースは例の、光を放つ銃を腰に差してはいたけれど、それ以外には何も持っていないようだった。馬車に撃ち込まれた鉛弾を発するようなものは、何も。
ベルダーシュが行動を起こした。
遠くで銃声が轟いた。
発砲したのは、彼女ではなかった。黙ったままの拳銃が、その役目を果たすことなく乾いた地面に落ちた。
続けてベルダーシュが仰向けに倒れた。鏡はひび割れ、その中心には穴が空いていた。丁度眉間の辺りだったけれど、血は流れていなかった。更に二発、銃撃が続き、仮面を着けた他の人物たちも斃された。
撃ったのはヒースではない。弾丸は砂煙の中から放たれたようだった。
やがて朧な影が、砂の向こうに浮かび上がってきた。
ライフルを手にしたその人物を目にした途端、わたしは声を失った。
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