5-4
これまで眠り過ぎたせいか、それとも興奮のせいか、睡魔はなかなかやって来なかった。
わたしはベッドに仰向けになったまま、橙色の電灯を眺めていた。その光は、アイゼンの街で見た夕陽を思わせた。
〈名なし〉と出会った街――。
彼は名前を持たず、言葉も持たず、たぶん理由も持たず、ただひたすら荒野を放浪していた。〈彷徨っている〉といった方がいいのかもしれない。どれだけ長い時間そうしていたのかは、汚れた赤いマントが物語っていた。
一見すると人間と見分けが付かないけれど、左半分は機械がむき出しだった。彼は帽子とマントでそれを隠していた。
野良のオルタナを見たことがないわけではない。けれど、ガンマンになったという話は聞いたことがなかった。意味がないのだ。〈禁忌〉に縛られた彼らは、本来ならば人間に銃口を向けることすら出来ない筈だった。それを彼は乗り越えたのだ。
本当に?
自分の声が、別の方向から囁いた。
本当は、彼が〈禁忌〉を乗り越えたのではなくて、元々〈人間〉たちが〈人間〉ではなかっただけではないのか?
「何故オルタナどもの肩を持つ?」と〈名なし〉に訊ねたヒースの声が蘇った。
オルタナ。
人間たちが使役する、鉄製の召使い。言葉を話し、わたしたちと同じ物を食べ動力源にするけれど、彼らはあくまで機械。わたしたちとは違う存在。そんな彼らを指す言葉が〈オルタナ〉だ。
その筈だった。
わたしは、何か得体の知れないものに手を伸ばし掛けていた。それははっきりと自覚できた。中に何が入っているかわからない、けれど確実に何かが入っている箱に、手を入れようとしていたのだ。
これ以上はいけない。そう警告する自分と同時に、その先を見てみたいという思いも胸のもう一方にはあった。
手の中で、何かが軋んだ。
〈魔女〉のペンダントだ。わたしはまた、無意識のうちに握っていたのだ。
金色の首飾りを、光に翳してみた。父からわたしの首に掛けられた時のまま、同じ輝きを放っていた。
その眩しさにわたしは目を細めた。
目の端から、溢れ出るものがあった。
感傷はしかし、すぐに立ち去った。扉の向こうから何か聞こえたのだ。
わたしは目元を拭い、起き上がった。ベッドを下りて、把手も何もない扉へ近付いた。扉はわたしの気配を察知したように横に開いた。
廊下へ顔を出す。すると、獣が雄叫びを上げるような音が響いてきた。つい先ほど聞こえたのと同じものだった。獣、というからには、生き物の声のようだった。更にいえば、男の声のようでもあった。
「始まったのだ」いつの間にか、ベルダーシュが立っていた。彼女は声の聞こえる方を見据えて言った。「〈マザー〉のお仕置きだ」
「お仕置き……?」
ベルダーシュはこめかみに指を添えた。それから、わたしに言った。
「〈マザー〉が呼んでいる」
わたしは彼女に連れられるまま、廊下を進んだ。
食堂とは違う、銀色の扉に行き着いた。その扉が音もなく開くと、中は医務室のような作りの、小さな部屋になっていた。
左手の壁際が光っており、前には机が置かれていた。その机に向かっているのが〈マザー〉だった。彼女はわたしが入っていくと、回転椅子を回してこちらを向いた。やはり顔には笑みを湛えていた。
「さっきはごめんなさい。辛い思いをさせてしまったわね」
「いえ、あなたのせいではありませんから」
〈マザー〉はフッと息を吐いた。
「ベッドへ寝てもらえる?」
言われるまま、わたしは机の反対側に置かれたベッドへ向かった。履き物を脱ぎ、仰向けに寝転がった。シーツは、つい今し方敷き直したように固く、皺一つ寄っていなかった。
「あなたが眠っている時に粗方調べさせてもらったのだけど」言いながら、〈マザー〉は白く細長い、底面が紫色に発光している機械を手にやって来た。「念のためもう一度、見せてもらうわね」
ブーン、と虫の羽音のような音を立てて、紫色の光が近付いてきた。恐怖はなかったけれど、身体の中を見透かされたような心持ちがした。
〈マザー〉は光を、特にわたしの首から胸に掛けて入念に往復させた。
やがて羽音が止んだ。紫の光も消えた。
「ありがとう。もういいわ」そう言った〈マザー〉は、どこかホッとした様子だった。「あなたは平気みたい。一応訊くけど、最近、どこかに注射を打たれた覚えは?」
「ありません。注射なんて生まれてこの方……丈夫なことだけが取り柄なので」
「よかった」
ベルダーシュの手を借りながら、わたしは起き上がった。迷ったけれど、今度はこちらから訊ねた。
「何かあったのですか?」
「少し、よくないことが起こったの」
「あの男ですか」
〈マザー〉は小さく頷いた。わたしはまた、全身が熱を帯びるのを感じた。
「あいつが何を?」
「いいえ。彼はきっと何も知らなかったのよ」
わたしは眉を顰めることしか出来なかった。するとマザーは机に向かい、ホルダーに挿していた試験管を一本抜き取った。
掲げられたそれは、硝子の内側に赤黒い液体がこびり付いていた。すぐに血だとわかった。その血液に塗れ、鈍く光を返す物体が見えた。機械のようだけれど、目を凝らすと、それは微かに脈打っていた。
「これは……」
「発信器だ」ベルダーシュが言った。
「彼は囮だったのね」〈マザー〉が継いだ。「直に彼らがここへ来るわ」
「彼ら……ヒースたちが?」
二人とも頷かなかったけれど、それが充分な答えだった。
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