5-3

 〈マザー〉たちが出て行って、わたしはもう一度眠った。またしても夢は見なかった。起きた時、身体はまた一段と動くようになっていた。どれだけ時間が経ったのか、時計も窓もないから判断がつかなかったけれど、長い時間眠っていたのは確かだった。

 扉が開き、ベルダーシュが入ってきた。

「調子はどうだ?」

「すっかり良くなったみたい」

「そうか」

 ベルダーシュは小さく頷くと、こめかみに指先を充てた。何かに耳を澄ませるような仕草だった。やがて彼女の意識がこちらへ戻ってきた。

「六時間前、もう一人の来客があった」

 来客、という言葉は、別の意味を包んでいるようだった。

 〈名なし〉の姿が浮かんだ。

「意識を回復し、今は食事をしている。これから〈マザー〉が会いに行くそうだ」

 わたしは、ベルダーシュに飛び掛からん勢いで彼女の手首を掴んだ。

「わたしもその人の所に連れて行って」

「いいのか?」

 この時は、体調のことを言われているものと思った。

「わたしは平気。だからお願い」


 途中で合流した〈マザー〉は、わたしが出歩くのを見ても特に驚いたりはしなかった。

 ここで初めて、彼女が杖を突いていることを知った。わたしの視線に気付いたのか、〈マザー〉は「もうお婆さんだもの」と困ったように笑った。

 進んでいく廊下は、ゴツゴツした岩が剥き出しで、ほとんど洞窟のようなものだった。実際、岩山をくり抜いて居住空間を作っているのだと〈マザー〉は教えてくれた。「テラーズは穴蔵に住む」という噂は、或る意味では当たっていたのだ。尤も、鏡を敷いたように真っ平らな床を見れば、彼らを〈蛮族〉と呼ぶ気持ちは呑み込みざるを得ないだろうけど。

 途中、誰かとすれ違うようなことはなかった。そもそも人の気配が全然しなかった。時折両側の壁に現れる扉は、固く閉ざされていた。〈マザー〉とベルダーシュ以外に誰もいないのかと問うと、皆それぞれの場所で、それぞれの職務に就いているとのことだった。ベルダーシュの職務の一つが、わたしの看病なのだとも。

 わたし一人では覚えきれないほど複雑な道のりを経て、広間に辿り着いた。そこは彼女たちが食堂として使っている場所で、長いテーブルが三つ置かれていた。一つあたり三十人は座れそうだから、少なくともそれぐらいの人数はこの洞窟内にいるようだった。

 そのテーブルに、この時は一人しか掛けていなかった。白い灯りの中で、その人物は、舐めているのかと思うぐらい皿に顔を近付け、夢中で肉を貪っていた。

 見知った顔だった。

 わたしは、身体の内側が疼くのを感じた。

 沸騰していく鍋の底を思わせるような感覚だった。

 ナイフの動きが止まった。持ち主がようやく、こちらに気付いた。

「よう」刀傷が、身を捩った蛭のように縮んだ。「こんな所で会うとはな」

「あなたの知り合い?」

 〈マザー〉の問いに、わたしは答えなかった。代わりに唇を噛んだ。回答としてはそれで充分だった。

「彼が、あなたのお父様を……」

 手の甲にそっと、〈マザー〉の手が触れた。冷たくはあったけど、安心感があった。

「あなたは部屋に戻りなさい」彼女が囁いた。

「いえ――」わたしはブッツァーティに目を据えたまま言った。「ここにいます」

 今はまだ、逃げる時ではない。

「何だか知らねえが、いいなあ、ここは。飯は美味いし食い放題だ」言いながら、ブッツァーティは空いた皿を掲げた。「おい婆さん、肉もっと持ってこい」

「失礼だぞ、貴様」ベルダーシュが前に出た。

「何だよ、お前。女みてえな顔だな。つーか女か? ちょっと踊ってみろよ」

 テーブルに向かっていこうとするベルダーシュを〈マザー〉が制した。彼女はベルダーシュの肩に手を添えてから、ブッツァーティの方へ歩いて行った。

「歓迎するわ、ミスタ・ブッツァーティ」

「へえ、こんな婆さんにも知られてるとはね。照れるぜ」

「ずっと立っていることが出来ないの。座らせてもらうわね」そう言って〈マザー〉は奴の向かいの椅子を引き、腰を下ろした。

 小さな背中だった。ブッツァーティの前にあると、小ささが余計に際立った。

 〈マザー〉が訊ねた。

「あなたもペリグリンの山から来たのかしら」

「ああ。妙な連中に捕まったんだが、途中でどうにか逃げ出してきた」

「あり得ないわ、そんなこと」わたしは二人の間に割り込んだ。「あの状況から逃げるなんて。あなただって身体が動かなかったじゃない」

「喚くなよ、ガキが」

 ナイフの先が、こちらを向いた。

「お前とは違うんだよ。あれぐらいの催眠術、時間が経てば緩んでくる。後は気合いでどうにかなる。絶対に動けると信じてれば、動くようにはなるのさ」

 〈マザー〉が話を引き取った。

「そんなあなたが、どうして川に流されてきたのかしら?」

「落ちた所がたまたま川だったんだよ。奴ら、空飛ぶ船に乗ってるんだぜ? 信じられるか? やっとの思いで扉こじ開けたら結構な高さでよ。周りは岩だらけだし、仕方なく川に飛び込んだってわけよ――なあ、おかわりまだ?」

「もうしばらく待って」〈マザー〉は言った。声色一つ変えていなかった。「あなたを連れて行こうとしたのは、どんな人たち?」

「全員同じ顔してたな。青い騎兵隊の服を着てた」それからブッツァーティはわたしを見た。「あれ、お前の仲間なんだろ?」

「先ほど話した、ヒースという男です」わたしは〈マザー〉に言った。

「あなたたちは二人とも本当のことを言っているようね」

 後ろから、カラカラと音がした。車輪付きのローラーを押した人物が、わたしの脇を通り過ぎた。ローブを目深に被り、マスクをしていたから顔までは見えなかったけれど、背格好はベルダーシュと変わらないようだった。

 配膳台に載っていた皿が、ブッツァーティの前に置かれた。

 奴は給仕係を見上げ、下品な笑い声を上げた。

「こいつは一体どういうことだい? まるでテラーズじゃねえか」

 〈マザー〉は何も言わない。微笑んでいるのだと、背中からでもわかった。

「……まさか」ブッツァーティの顔から笑いが引いた。「あの肉ってのは――」

「安心して。

 それから〈マザー〉はこちらを振り向いた。

「アニーも、後で部屋に届けるわね」

「はい……」

 ブッツァーティが鼻を鳴らした。

「随分と汐らしくなってるじゃねえか。俺を殺しに来た時の勢いはどこ行ったんだよ?」

 わたしは拳を握った。

 銃があれば、と心の底から思った。今度こそ、奴に向けて銃を放てる気がする。

 その眉間に。

 何発も何発も何発も。

 ありったけの、装填された弾丸を――。

「アニー」

 マザーの声で、わたしは息を詰めていたことに気が付いた。呼吸が再開される。

「あなたは部屋に戻りなさい。まだ無理は禁物よ」

 ベルダーシュが隣へ来た。わたしは彼女の肩を借りて、その場を後にした。

 部屋へ戻る道すがら、わたしの頭はやはり、ブッツァーティへの怒りで占められていた。自ずと無口になってしまった。

「安心しろ」一緒に歩みを進めながら、ベルダーシュは言った。「一番怒っているのは〈マザー〉自身だ」

「そうなの?」

「あの男は〈マザー〉の本当の怖さを知ることになる」

 端正な横顔は前を向いたままだった。けれどそこには、心なしか微笑が浮かんでいるようにも見えた。

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