5-2
ベルダーシュ。相手はそう名乗った。
「厳密にいえば名前じゃないが、便宜的にそう呼んで構わない」
わたしの呆けた顔に気付いた相手は、更に続けた。
「我々には性別の概念もない。〈マザー〉には女性として扱われているが、これも便宜的なものだ」
突然、管のようなものが唇の間から挿し込まれた。すると水が僅かに流れてきて、舌を、喉を、そこから先の器官を少しずつ潤していった。
「〈マザー〉……?」ようやくまともな声が出た。
「じきに会わせる。今はゆっくり休むんだ」ベルダーシュは言った。
彼女の言葉が合図となったように、身体の底がじんわりと温かくなってきた。氷が溶かされるように、全身の隅々まで熱が行き渡るのが感じられた。同時に眠気も湧いてきた。疲労によるものとは違う、柔らかい毛布に包まれるような、長いこと忘れていた安心感のある眠気だった。
わたしは再び眠りの世界へ沈んだ。
次に目覚めた時も、ベルダーシュは傍らに立っていた。
「――ずっといたの?」深い眠りから覚めた時特有の気怠さが残っていたけれど、口は自由に動かすことが出来た。
「それほど暇じゃない」ベルダーシュは答えた。「気分はどうだ」
「大分よくなったわ」身体も、動かせる確信があった。
ベルダーシュは頷くと、一歩下がった。代わりに、彼女とは反対側から別の人影が現われた。
銀色の髪の、初老の女性だった。彼女もまた、ベルダーシュたちと同じく赤土色のローブを纏っていた。
「初めまして、アン=モーゼス」女性は言った。彼女の瞳もまた、銀色だった。「アニーと呼んでも良いかしら」
わたしは頷いた。寝ている時に譫言で名乗ったのかしらんと思いながら。
「私はオリガ。オリガ=ブルガーコフ。みんなは〈マザー〉と呼ぶわ」
彼女の名前は心に引っ掛かったけれど、この時はまだ原因がわからなかった。わたしが挨拶を返すと、彼女は目を細めて微笑んだ。どこか懐かしい感じのする笑い方だった。
わたしは身体を起こした。それだけの力は戻っていた。
「幸い、大きな怪我は見当たらないわ。しばらく安静にすれば、すぐに元通り動けるようになるわ」
「あなたはお医者様なんですか?」
「そうね。そんなようなものかしら」
「あなたたちが、テラーズ?」
すると〈マザー〉は肩を竦めた。
「そうよ。ただし、あなたたちの間で広まっているものとは綴りが違うけれど」
「綴り?」
「〈マザー〉」ベルダーシュが言った。「早く本題へ」
「ええ、そうね」笑みを残したまま、〈マザー〉は椅子に腰を下ろした。「アニー、あなたに訊きたいことがあるの」
「わたしに答えられることであれば」
〈マザー〉は頷いてから、まずわたしがここへ来た経緯を話した(三日前、近くの川に流れ着いているのを発見されたらしい。その間ずっと眠っていたのだ)。それから、彼女はいくつかの問いを投げてきた。どこから来たのか。そこで何があったのか。職業は何か。故郷はどこか。家族はいるのか。
わたしは一つずつ、正直に答えた。包み隠すべきではないと、耳許でもう一人の自分が囁いていた。彼女には全て話さなければならない。それが自ずと、わたしが欲しい答えにも繋がるから、と。
わたしが欲しい答え。
それはいくつかあった。そのうちの、最初に目に付いた一つに、わたしは手を伸ばした。
「わたしの他に、誰か一緒にいませんでしたか?」頭には、克明に一人の姿が思い浮かんでいた。「汚れた赤いマントを羽織った、オルタナのガンマンとか」
「オルタナの?」
〈マザー〉の視線がわたしを飛び越えた。ベルダーシュに何か目配せしたようだった。そこには何らかの意味が込められていたようだったけれど、わたしにとって有益な情報はなかった。〈マザー〉は首を振った。
「――見つかったのはあなただけよ」
「そうですか」
あの後、〈名なし〉はどうなったのか。
垂れ下がっていた左腕は、きっと使い物にはならなかっただろう。ヒースの顔を持つ青い騎兵隊員は十人。そのうちの何人かは負傷させたけれども、それでも相手が優勢なことに変わりはない。はっきり言えば、勝ち目は皆無だった。
ヒースの声が耳に蘇った。
「何故オルタナどもの肩を持つ?」と彼は言った。その言葉は文脈から察するに、わたしを指したものだった。
わたしは顔を上げ、〈マザー〉を見た。
「もう一つ、教えてもらえませんか」
〈マザー〉は小首を傾げた。それを許可だと、わたしは捉えた。
「わたしは人間ですか?」
実際に声にしてみると、滑稽な響きだった。けれど、こう述べるしかなかった。
身体の硬直を治した彼女たちなら、何らかの答えを知っている気がした。或いは、全く同じ顔を持つ騎兵隊員たちのことも。テラーズとヒースたちの間には何かがある。確信めいた直感が、わたしに囁きかけていた。
心なしか、〈マザー〉の表情が硬くなった。
「どうしてそんな疑問を持ったの?」
「或る人が言ったんです。わたしを指して〈オルタナ〉と」
「ガンマンではなく、あなたのことを?」
「彼のことは〈アンドロイド〉?――と呼んでいました」言い慣れない言葉に、舌が上手く回らなかった。
〈マザー〉は短く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。自分の中で何か整えているようにも見えた。
「アニー……」
彼女の右手が、わたしの手の甲に重なった。冷たい手だった。
「私はあなたの知りたい答えを持っている。けれど、あなたにはそれを知る覚悟がある?」
覚悟――。
その響きに、心が竦んでしまった。
わたしは無意識のうちに、左手でペンダントを掴んでいた。〈魔女〉のペンダント。崖から落ちて、川に流されても尚、千切れることなくここに在り続けてくれた。この時のわたしにとっては、暗闇に射す一筋の光のようなものだった。
「今はまだ、無理をしないで」〈マザー〉が言った。その顔からは厳しさが消えていた。「ゆっくりでいいわ。あなたの決心が出来たら、その時は全てをお話しするわ」
やはり何かあるのだ。けれどわたしにはまだ、それ以上踏み込むことが出来なかった。ただシーツを掴むしなかった。
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