4-3
自分の呼吸が、やけに大きく聞こえた。
パラパラと、何かの落ちる音が彼方此方から聞こえてきた。
尚も視界は塞がれたままだった。けれど、顔に触れる質感には覚えがあった。覆い被さっていた〈何か〉がわたしから離れると、果たしてそれは〈名なし〉の羽織った赤黒いマントだった。
起き上がろうとするわたしを彼は押さえ付けた。そしてわたしに被さる姿勢のまま、窓の方を伺っていた。
「やあ、無事かい?」頭の上の方からヒースの声がした。声色から察するに、彼も無事のようだった。「こちらは人質がやられた。見ない方がいい。ひどい有様だ」
それから彼は「二人来る」と言った。
「外には他に六人。取り敢えず、入ってくる二人を外の連中に気付かれずに無効化してもらいたいんだけど、頼めるかな、オルタナ君?」
〈名なし〉が顎を引いた。
やがて二人分の足音が小屋の中へ入ってきた。
床に散らばった破片を踏みながら、足音は一歩ずつ何かを探るように近付いてくる。仰向けになったままのわたしは、天井を眺めているしかなかった。視界の外では男が短く呻き、床に何か金属の塊がゴトンと落ちた。
「テメエ……」
「やめた方がいい」ヒースの声が遮った。「銃声が鳴れば、外の奴は今度こそ小屋が崩れるまで機関銃を撃ってくる」
言われた男はぐっと言葉を呑んだようだった。
そこでようやく許可が下りたので、わたしは上半身だけ起こし、状況の把握に努めた。
小屋は文字通り穴だらけになっていた。室内にある物で原形を留めているのは壁の石ぐらいなもので、これでさえヒビが入ったり弾丸で穿たれたりと何らかの被害は免れていなかった。床には埃や木片などが散乱し、その中にうつ伏せた人の身体が半ば埋もれていた。頭の方がどうなっているのかよく見えなかったけれど、それ以上見る気も起きなかった。
わたしたちの死を確かめに来た二人は、ワイルダーでブッツァーティと一緒にいたカウボーイとショットガン使いだった。そんな因縁を思い返す暇も与えず、彼らはヒースと〈名なし〉それぞれの盾とされた。
「どれほどの役に立つかわからないけど」
ヒースの言うとおりだった。仲間を盾に出て行ったところで、お構いなしに銃撃される可能性は充分にあった。
「アニー、君はここでお留守番だ。全て片付いたら迎えに来る。駄目だった時は隙を見て逃げるんだ」
「乱暴ね。あなたたちが負けた時は、わたしの最期の時でもあるのよ」
「そうならないよう祈っていてくれ」
〈名なし〉と目が合った。けれど、例によって彼は何も言わなかった。彼は帽子の位置を直すと、銃をカルヴィーノ一家の斥候に押し付け、入り口の方へ追い立てた。
男たちが出て行ってから、わたしは硝子のなくなった窓辺に近付き、壁の陰から外の様子を覗った。
先ほどまでわたしたちが乗ってきた馬車しかなかった所に、六つの人影が並んでいるのが見えた。揃いも揃って人相が悪く、その内の一人の顔には、思い描くあまりもはや目に馴染んでしまった刀傷が刻まれていた。だとすると、その隣に立つ太った初老の男がカルヴィーノと見て間違いなさそうだった。
カルヴィーノと思しき男は機関砲を携えていた。わたしの人生とまず交わる筈のなかったその兵器が、小屋を滅茶滅茶にした元凶のようだった。
何本もの円筒を束ねた格好の銃身が、〈名なし〉たちの方へ向けられた。ヒースが何事か言おうとしたけれど、重たい銃声がそれを許さなかった。わたしは咄嗟に目を背けた。機関砲の銃声が止んだかと思うと、今度は拳銃の発砲音が次々に鳴り始めた。
弾が岩に当たって跳弾する音が、動物の上げる悲鳴のように谷に響いた。
わたしが隠れる窓辺にも弾は飛んできた。石が砕かれ、砂粒が顔に当たった。わたしは、きつく瞼を閉じている自分に気が付いた。
次に目を開けた時、谷には砂煙が濛々と立ちこめていた。男たちが動き回る度、砂が巻き上げられているらしかった。煙の中ではチカチカと火花が散った。その度に発砲音が谷中に反響し、また別の銃声と重なって、途切れることがなかった。
一人、砂煙から抜け出た者があった。その男は殆ど崖に近い斜面をよじ登り、戦場から逃れようとしていた。
目を凝らさずとも、それが誰であるか、わたしには見分けがついた。
床に落としたままだったライフルを拾い上げ、わたしは小屋を飛び出した。流れ弾に当たることも厭わず、斜面を上がっていく男だけを見つめながら砂塵の中へと突入した。
急な岩場だろうと、臆する気持ちは湧かなかった。足を滑らせ落下するかもしれないなどという恐怖もなかった。わたしの心は、斜面の向こうへ消えた男だけを追い続けていた。奴を追い詰め、その身体に鉛弾を撃ち込むことだけで頭が一杯だった。
息を切らしながらも、しかし少しの苦しさも感じぬまま、わたしは斜面を登り切った。吹き付ける風に目を細めてから向きなおると、崖の縁に男が立っていた。
男が振り返った。わたしの姿を見ると、顔の傷が蛭のように竦んだ。
「来ると思ってたぜ」奴は言った。「地獄の底まで追い掛ける。お前さんはそういう眼をしている」
「生憎だけど、地獄へは一人で行ってもらうわ」わたしはライフルを構えた。
「ちゃんと練習はしてきたんだろうな?」
引き金に指を掛けたまま、わたしは奴を、杭に乗せた空き缶だと見立てた。
ブッツァーティが掠れた笑い声を上げた。
「良い面構えだ。過去に取り憑かれるような狂った奴ってのは、こうじゃなくちゃな」それから奴は両手を広げた。「さあ、狙え。一発だけチャンスをやる。いつでも撃てよ。ただし外すんじゃねえぞ」
わたしは心の中で耳を塞いだ。けれど音は漏れてきた。
「一発で仕留めなければ撃ち返す。勿論、それぐらいの覚悟を持って来てるんだろ? そうなんだよなあ?」
どんなに否定しようとしても、手は確かに震えていた。寒さのせいではないことは、哀しいかなよくわかっていた。それでもわたしは、ブッツァーティに銃口を向け続けた。
お父様――。
胸の中で、父に呼び掛けた。
どうか勇気を。引き金に触れたこの人差し指を、ほんの数センチでも引き絞る勇気を、わたしにください――。
目の前の乾いた景色が掻き消えた。
わたしは、父と過ごした日々の思い出に立っていた。父はソートの製造や世話を手伝い、勉強も教えてくれた。数学の、少し難しい計算式を解くと、頭を撫でてくれた。
「アニーがいるのなら、我が牧場は安泰だ」父はよく、そんなことを口にした。「いつでも安心して引退できるよ」
いつかは来るかもしれないとわかってはいたけれど、こんなに早く来るとは思ってもいなかった未来。それは自然の摂理ではなく、一人の人間によって、強引に歪める形でもたらされた。
わたしたちに、何の心の準備もさせずに。
別れの言葉すら、述べさせずに。
視界が再び、現実を捉えた。胸を開いて立っている、わたしたち親子の間を引き裂いた張本人にピントが合った。
笑っていた。
あの男は、ブッツァーティは、飽くまでわたしには殺されまいと信じ切っていた。
わたしの口から言葉が漏れた――自分でも聞き取れないほど小さな声で。
けれどその言葉は、わたしの内側で何度も反響した。
殺してやる……。
殺してやる……。
殺してやる――!
次の瞬間、頭の中から何もかもが消えた。
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