3-5

 ヒースの野営の準備は万全だった。火は速やかに熾され、水や食糧はわたしと〈名なし〉の分まであった。

 夕食を終えると、〈名なし〉の腕の修理が始まった。機械いじりが得意だというヒースは、最低限しか揃っていない工具を駆使して〈名なし〉の左腕を指が曲がるまでに快復させた。それ以上のことは道具も材料もないので街に着かなければ難しいと言っていたけれど、だらりと垂れ下がっていただけの状態と較べれば遙かな進歩だった。

「しかし、ブッツァーティも余程臆病風を吹かせたね」ヒースは道具を仕舞いながら言った。「オルタナの腕をここまで潰すなんて。奴も〈禁忌〉を知らないわけじゃああるまい」

「だけど〈名なし〉は人に向けて銃を撃ったわ」わたしは、アイゼンのサルーンでの一件をヒースに話した。彼を傷つけこそしなかったものの、その頭に載せていた帽子を撃ち抜いたのだった。あの時は必死だったし、〈名なし〉がオルタナだとは知らなかったから何も思わなかったけれど、これは〈禁忌〉の第一条に反しているのではないか。

「そんなことが……」ヒースが〈名なし〉に目を向けた。

 わたしもつられて〈名なし〉を見た。彼は口を噤んだまま、修理されたばかりの左腕をマントの中に隠した。

「君はもしかすると、〈禁忌〉を克服したんじゃないかい?」

「克服?」わたしは言った。「そんなことが可能なの?」

「夢物語の類いではあるけれど、聞いたことがある」ヒースは頷いた。「オルタナの電子頭脳が何回も同じ問いを何回も計算する内に、段々と違う答えに近付いていくらしい。尤も、何千、何万という数じゃない。もっと途方もない、我々には想像も出来ない回数を重ねなければならないけど」

 〈名なし〉は黙って焚き火を見つめていた。

「あなたは人間に向けて引き金を引いたわ」わたしの気持ちも、ヒースの夢物語に寄っていた。「本当は、身体を撃つことだって出来たんじゃない?」

 答えはなかった。

「これは興味深い事象だ」顎に手を充てながら、ヒースは真面目な面持ちで言った。「オルタナたちが、自らを縛る軛を解こうとしているのかもしれない」

 〈名なし〉は腰を上げた。

「どこへ行くの?」

 彼は何も言わずに歩き出した。その姿はすぐに灯の届かない闇の中へと消えていった。

「怒ったのかしら」

「何にせよ、興味深いオルタナだよ、彼は。人間そっくりの見た目といい、君との関係といい」

 それから残された人間同士でお互いの話になった。

 わたしはブッツァーティが我が家に現われてからここまでの顛末を簡単に話した。

 ヒースの方でも、ヒンクストン・クリークでの事件のあらましから、彼自身の身の上を詳しく語った。曰く、結婚の約束をした恋人を彼の地に残してきたとのことだった。

「だから、一刻も早くブッツァーティを捕まえてヒンクストン・クリークに戻りたいんだ」

 熱せられた薪が爆ぜ、焚き火が揺れた。

 ブッツァーティの居所を教えようかという考えが過ぎらなくもなかった。目の前の騎兵隊員を一刻も早く恋人の元へ戻らせたいという思いと、己の利を求める気持ちが胸の中で戦った。

 結果は、利己心の勝ちだった。

 わたしは出掛かった言葉を呑み、聖書を読み始めていたヒースに言った。

「地図を見せてもらえる?」

「ああ」と言って、彼は折り畳んだ地図を差し出してきた。

 灯りの下で地図を広げた。それはフロンティア全体を記したもので、山や谷、川の支流に至るまで、詳細な地名が載っていた。

 アイゼンの街から進んできた方角を辿り、おおよその現在位置を割り出した。それから、ヒースの眼を盗む形で「本当の目的地」までの距離を試算した。ペリグリンの山までは、優にあと二日は掛かりそうな距離だった。

「アニー、君は――」

 不意に声を掛けられ、わたしは弾かれたように顔を上げた。揺れる焚き火を見つめるヒースの姿が、そこにはあった。

「もし次に、ブッツァーティと対峙する場面があったら、君はどうする? 君が彼に、引き金を引く機会があったら」

 わたし達の間で、火の粉が舞い上がった。橙色の粉は、夜の闇に消えていった。

 昨晩の、ブッツァーティと対峙した時の光景が思い出された。

 わたしは奴を目の前にしながら、銃を抜くことが出来なかった。触れることさえ叶わなかった。

 恐怖。

 わたしは、返り討ちに遭うかもしれないという恐怖に勝てなかったのだ。あの男の脅しに屈したのだ。認めたくはないけれど。

 もう一度、同じ局面が来たら――。

 それは何度も反芻し、頭の中で自分に問い続けてきたことだった。次こそは、奴の眉間を熱線で貫くことが出来るだろうか、と。

 答えは出ていなかった。わたしにもオルタナのように電子頭脳が備わっていれば、途方もない回数計算を繰り返せたのかもしれないけれど。

 それでも、諦める気はさらさらなかった。

「――法に従うわ」わたしは言った。赤々と燃える炎を、いや、炎の周りの闇を見つめながら。

 ヒースはしばらく黙っていたけれど、やがて小さく息を吐いた。

「今日はもう遅い。そろそろ寝た方がいい」

 辺りを見回したけれど、〈名なし〉が戻ってくる気配はなかった。随分遠くまで散歩に行ったのかもしれない。わたしはヒースの言葉に甘えて、眠ることにした。

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