2-2
翌朝に〈名なし〉を釈放するという約束をどうにか取り付け、わたしは保安官の助手に連れられ宿へと戻った。
食堂では主人の女性が起きていた。わたしの帰りを待っていたらしい。彼女は椅子から立ち上がると、こちらへやって来て、わたしを抱きしめた。
「悪い子だね、まったく」
きつく、抱きしめられた。
主人はもう一度、「悪い子だ」と呟いた。
その晩は彼女のベッドで寝ることになった。荒野の只中で一人さまよい、事件に巻き込まれた小娘を気遣ってくれたようだった。母とだって別々で眠るようになって久しかったけれど、わたしは有り難く彼女の好意に甘えることにした。一人で冷たいベッドに入る気分ではなかった。
身体は疲れ切っていたのに、なかなか寝つくことが出来なかった。理由は二つ。一つは、隣で眠る主人の歯ぎしりのせい(初めは建物が軋んでいるのかと思った)。もう一つは、カーテンを開け放った窓の外から聞こえる話し声だった。
低く囁くような会話の音は、却って耳に纏わり付いた。何人かの男たちが集まって、冗談でも言い合っているらしかった。
せめてカーテンを閉めようとベッドを抜け、窓辺に立った。
二階の窓からは、夜の闇に沈んだアイゼンの低い街並みが見渡せた。わたしはしばしの間、その光景を眺めた。
所々に光が灯っていた。建物の軒先に吊されたランプの灯だろう。それらは夜空の星を思わせた。そして目を空へ転ずれば、そこには本物の星々が輝いていた。細かな違いはあるのかもしれないけれど、故郷で見上げる夜空と同じものだった。
囁きが、耳をくすぐった。
果たして、宿の前の通りに人影があった。
影は三つ。
そのうち一人の顔がランプの光に照らされた。先ほどの、ならず者のカウボーイだ。
カウボーイの話していた相手が向きを変えた。一人は知らない男。けれど、いかにも悪そうな顔をしていた。
最後までこちらへ背を向けていた男の顔が、肩越しに振り向こうとした。
その瞬間、咄嗟に窓の陰へ隠れてしまったので、横顔までしか見なかった。けれどその男が誰であるのか、わたしにはすぐにわかった。
「ブッツァーティ……」
速まる呼吸の合間で呟いた。胸を高鳴らせているのは興奮と恐れだった。前者は図らずも目的が達成されようとしていることによるもの。後者は、目的を果たす=あの男を殺すということを何の迷いもなく考えている自分に対するものだった。わたしは殺意を抱くことに、あまりに慣れすぎていた。
ワイルダーの、故郷の草原が眼の裏に浮かんだ。ソートを放牧し、決して裕福ではないけれど幸せだった家族での生活が思い出された。
わたしは笑っていた。
父も母も弟たちも皆、笑顔だった。
随分と遠くへ来てしまった。ここは、あの時いた場所とは何もかもが違う。
視界が泪で滲んだ。けれど唇を噛み締め、流れ出るのは堪えた。
わたしは目元を拭い、窓から離れた。そのまま足を忍ばせ、歯ぎしりを続ける女主人の部屋を後にした。
寝静まった街にあって唯一、保安官のオフィスは室内にも明かりが灯っていた。街の治安を守るため眼を光らせることに休みはないのだろう。尤も、ブッツァーティのような男を野放しにしているわけだから、夜通し起きていたところでその働きにいかほどの意味があるかは不明だった。
入り口から覗き込むと、保安官の姿が見えた。机に脚を載せ、椅子に凭れている。帽子を目深に被り動かないところを見ると眠っているようだった。
息を殺して中へ入ろうかとも思った。けれど、相手は曲がりなりにも保安官。どれだけ気配を消して忍び込んでも、目を覚まされる可能性は充分にあった。わたしが見ているのは、危急の知らせが入った時、すぐに目覚めるための寝姿なのだった。
わたしは入り口を離れ、建物の裏手へ回った。期待した通り、そこには格子の嵌まった高い窓が三つ並んでいた。
その内のどれかに〈名なし〉はいる筈だった。けれど、呼び掛けようとして何と言ったものかわからなくなった。目の前にいる時は〈名なし〉でも支障はなかったけれど、姿が見えない状態で呼ぶにはちゃんと相手に伝わるのかわからなかった。そもそも彼が、自分自身を〈名なし〉という名で認識しているのか定かではなかった。
「ねえ」わたしは相手の名前は言わず、窓に向かって呼び掛けた。折衷案であり最善の策だった。「起きてる? そこにいるんでしょう?」
反応はなかった。耳を澄ませても、衣擦れ一つ聞こえることはなかった。残る二つの窓にも声を掛けたけれど、結果は同じだった。まるで洞穴に向けて声を発しているようだった。それぐらい、人の気配が感じられなかったのだ。
本当に彼はこの中にいるのかしら。そんな疑問すら湧いてきた。少しで良いから、どうにか中の様子が覗えないものかと、一歩下がろうとした。
すると何かにぶつかった。
何か、というより、誰か、だった。
わたしは咄嗟に飛び退いた。物音を聞きつけた保安官が来たのかと思ったけれど、それは違った。求めていた相手が目の前にいるにも関わらず、それが彼だと認識するまでに時間が掛かった。彼がそこに立っている筈がなかった。
「あなた……」わたしはぼんやりしながら、闇に佇む〈名なし〉に言った。「どうしてここに?」
彼は何も言わなかった。それでいい。彼の力を借りられるのなら、過程も理由も必要なかった。
わたしは〈名なし〉の手を引いた。
「奴がこの街にいるわ。来て」
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