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 店内は何事もなかったかのように喧噪を取り戻した。それは船の横腹に空いた穴が、船員たちによって大急ぎで塞がれる様を思い起こさせた。誰もわたしには目もくれず、彼方此方でいつもの酒盛りが再開されていた。

 尤もわたしとて、薄情な酔客たちを責めるつもりはなかった。そんなつまらないことに、気持ちと時間を割いている場合ではなかったのだ。

 わたしは空いていたミルクの男の隣に、身を滑り込ませた。

「あなた、名前は?」

 彼は答えず、機械的にグラスを傾け続けた。

「名前がないわけじゃあないんでしょう? 他の人にはどう呼ばれてるの?」

 返事はなかった。

「教えたくないのなら、まあいいわ」

 そういう人間だっているだろう。男は風貌もまた、彼の孤独を物語っているようだった。フロンティアを彷徨い歩く根なし草。黒ずんだ赤いマントは、旅の長さを示す何よりの証左に見えた。

「ねえ、〈名なし〉さん」わたしは勝手に名付けた。この際、名前などどうでもよかった。「あなたにお願いしたいことがあるの」

 わたしは彼に、ここへ来た顛末を話した。それから、ブッツァーティという男を追っていることも。奴への復讐を目論んでいることも、この際正直に打ち明けた。

「お願い、力を貸して」

 〈名なし〉は前を向いたまま、グラスに口を付けた。一杯のミルクに、まるでウイスキーでも飲むような時間を掛けていた。酒を頼む金がないからそんなことをしているのかしらんと、わたしは考えた。

「お酒は飲まないの? それとも飲めないの?」

「……」

「手付金として、おごってもいいのだけど」

 すると彼は口を噤んだグラスを置いた。なんとなく、ドアのシェードを下ろされた気のする動きだった。

 わたしはカウンターに置かれたままだったペンダントを取った。

「手伝ってくれないというのなら、これは返してもらうわ」我ながらずるいとは思うけれど、この時となっては高すぎる代償とも感じられた。「だけど、もし手伝ってくれるというのなら、このペンダントとは別に報酬を払うわ。この店のお酒を好きなだけ飲めるぐらいの。もちろんミルクもね」

 それがわたしの切りうる手札の全てだった。これで興味を惹けなければ、このゲームに勝ち目はなかった。

 コツコツと、カウンターを叩く音が耳を突いた。

 ハッとして振り向くと、昼間の郡保安官が立っていた。彼は腰に手を充て、横たわる駄馬でも見下ろすような眼をこちらへ向けてきた。

「よろしいかね、お嬢さん?」

「何かご用ですの?」

「君と、それからそちらの御仁に訊きたいことがあるんだ」保安官が顎をしゃくって示したのは、誰あろう〈名なし〉だった。「ちょいと、私のオフィスまで来てほしい」

 それは紛うことなき〈連行〉で、本来ならば罪を犯した者が受けるべき仕打ちだった。先ほどの一件でのことだということは考えずともわかった。だからこそ、わたしは被害者であり、カウボーイに暴力を振るわれかけたのだと言い張った。けれど保安官の認識は違っていた。彼の中で、暴力を振るったのはわたしと〈名なし〉ということになっていた。

「フォークで腕を刺したそうだね」机の向こうで、椅子に凭れて腕組みしながら、郡保安官は言った。

「だからあれは、あの男が無理矢理わたしの腕を掴んできたからで――」

「君があの店で何人もの男に声を掛けていたという証言がいくつもある」彼はわたしの言葉を断ち切った。「傷害罪で納得がいかないようなら、風紀紊乱罪で君を牢に入れることも出来る」

「な……」言葉を失った。乱して捕まるほどの風紀がこの地のどこにあるのか。そう言ってやりたかったけれど、口が動かなかった。

「しかしまあ、私にだって慈悲の心はあるんだ。今夜の一件を〈家出娘がしでかした過ち〉として処理することも出来る。先方には上手く話を付けよう」

「悪人の肩を持つの?」

 すると保安官は腕組みを解き、身を乗り出してきた。

「どちらが悪人か、決めるのは私だ」一語一語刻みつけるように彼は言った。「そしてこの場合、〈悪〉は君の方にある」

 わたしは知らないうちに奥歯を食いしばっていた。

「ママの所に帰りたまえ。ミス……」

「アン=モーゼス」

「ミス・モーゼス。迎えを寄越すよう、家には連絡を入れておこう。それまで君は宿で待機だ」

 名前を元にセントラルへ照会を掛けられ、ワイルダーの自宅へ電信が行く。それを読んだ母が顔を蒼くし、すぐにこちらへサミィを寄越す。そんな、自分では見る筈のない光景をありありと頭に思い描くことが出来た。

「わかりました。けど、彼は釈放して下さい」

 オフィスへ連れてこられるなり、〈名なし〉は牢に入れられていたのだ。有無を言わさずに。

「彼は無実です。ただわたしが巻き込んでしまっただけで」

「しかし奴は店の中で発砲した」

「だからそれは、わたしを助けるためで――」

「街中での銃の使用は禁止されている」保安官は言った。

「あなたは……」舌がもつれ、言葉が詰まった。「あちらの肩ばかりを持つのですね。まるで仲間をかばおうとしているみたい」

 すると保安官は、苦い果実でも口に含んだという風に顔を歪めた。

「事実を見て判断するしかないんだ」彼は言った。「こんな土地では、状況証拠ぐらいしか頼りにならん」

 それから、一対の眼差しがこちらを向いた。

「君の理想などここでは通用しない。ここは、君のような子供が一人で生きられる場所ではないのだ」

 そう言った彼の眼は、暗い、井戸の底を思わせた。

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