1-5

 痛みに顔が歪むのがわかった。

「どうしたんだよ?」男が顔を寄せてきた。わたしの語彙では形容しがたい臭いが、鼻を突いてきた。「ブッツァーティに会わせてやるって言ってんだ。ここは大人しく契約しようぜ」

 彼の手を振り解こうとしたけれど、どれだけ腕に力を込めても叶いそうにはなかった。辺りを見回すと、何人かの客と眼が合った。でも彼らはわたしと視線がかち合うと、まるで何も見なかったように顔を背けるのだった。哀しいことに、その中にはバーテンダー氏も含まれていた。

 これが荒野――。

 胸の中に、諦念と絶望が広がった。法よりも腕力が重んじられる世界。秩序ではなく強い暴力で覆われた土地。

 それならば。

 わたしは手近にあったフォークを掴み、男の腕に突き立てた。彼は短い悲鳴を上げ、一歩二歩と後じさった。その隙にこちらは転がるようにしてスツールを下り、這うようにしてその場を逃れた。

「このガキ」腕を押さえた男が、唸りながら近付いてきた。

 周囲にはお客の脚が林立していた。わたしはすっかり方向感覚を失い、出口に辿り着くことが出来なかった。

 やがて、背中が壁に当たった。

 それ以上逃げ場はなかった。けれど、視界の端に色が見えた。

 赤く染められたマント。尤も、長い間使っているのか、全体的に黒ずんでいた。

 マントの持ち主はこちらに背を向けたままカウンターに着いていた。自分の背後で何が起きているのか、いささかも興味がないようだった。

「ねえ」わたしはマントの端を掴んだ。「お願い、助けて」

 マントの男はこちらに目もくれず、グラスを呷っていた。その中身はミルクだった。

 拍車を付けたブーツが立ち止まった。腕を押さえたカウボーイが立っていた。

「優しくしてやろうと思ったが、気が変わった」彼の垂れた右腕からは血が滴っていた。「死んだ方がマシに思えるほどの目に遭わせてやる」

「お願い」わたしはマントを引っ張った。けれど頑として、男の身体は動かなかった。

 カウボーイが床板を踏みしめ、近付いてきた。わたしは一方の手でマントの端を掴んだまま、もう一方では胸元のペンダントを握っていた。神に、いや父に祈りがら。

 金色に輝く、〈魔女〉のペンダント――。

 迷いはもちろんあった。だけど、父の敵討ちがこの場で潰えてしまうことの方が、わたしにとってはよほど避けるべき事態だった。

 わたしはペンダントを引きちぎった。想像していたよりも簡単に鎖は切れた。まるで、わたしの選択を肯定するように。今度はマントを引っ張る番だった。

「ねえ、これを見て」

 男が肩越しに見下ろしてきた。目深に被ったステットソンハットの影に隠れて、その眼差しは確認出来なかった。それでも彼がこちらを見ている確信はあった。

「報酬よ。安い代物ではないわ」

 嘘やはったりを言ったつもりはない。実際の価値は証明済みだった。ナサニエル・ヨークの雑貨屋で旅支度を調えようとした時、店主から是非売ってくれと頼まれたのだ。店にある物を好きなだけ持って行っていいという対価まで提示された。

「この店のミルクを全て飲み干すことが出来るわよ」

 男はしばらくこちらを見下ろしていた。ミルクを飲み干す己の姿を想像したのかもしれなかった。

 その間にもカウボーイは近付いていて、やがて手を伸ばしてきた。彼はわたしの髪を掴み、壁と床から引き剥がした。あまりの力で、抵抗する余裕もなかった。咄嗟のことにペンダントを床に落としてしまった。気を取られているところに、カウボーイがバーテンダーに店の裏を貸せと声を掛けているのが聞こえてきた。返事は聞こえなかったけれど、それは無言の承諾だった。

 引き立てられながら辛うじて首を捻り、床に落ちた〈魔女〉のペンダントを見やった。暗い床板の上で、一点だけ輝いているように見えた。夜空の星のようだった。毎夜、夜空を過ぎる〈天の揺りかご〉のような。

 その光を、拾い上げる手があった。

「あ?」カウボーイが足を止め、振り返った。何らかの気配を察したのだろう。「何だテメエは?」

 ミルクの男はスツールを下り、こちらを向いて立っていた。

「何か文句があるのかい?」カウボーイが言った。「それとも、仲間に加わりたいのかな?」

 カウボーイの言葉が終わるか終わらないかというところで、わたしの耳の横を何かが通り過ぎた――気がした。遅れて火薬の爆ぜる音が響いた。

 真っ暗な銃口がまず目に付いた。

 ミルクの男が銃を抜いていた。

 振り向くと、わたしの後ろにはカウボーイのニヤけた顔があった。けれどそれは不自然に硬直していた。何よりの違和感は彼の頭にあった。さっきまで載っていた筈のステットソンハットがなくなっていたのだ。

 カウボーイの遥か後方のテーブルに、帽子が落ちた。

 店内は時が止まったような沈黙に包まれた。ちゃんと時間が流れていることは、男の銃口から立ち昇る煙が示していた。銃口は未だにこちらを向いていた。次なる弾丸が放たれる可能性は、充分にあった。

 耳の後ろでカチカチと、固い物が触れ合う音がした。例えば、歯と歯がぶつかるような。

 カウボーイが甲高い、罵倒とも悲鳴とも取れる声を残し、帽子も拾わず店から飛び出していった。

 ミルクの男は銃をホルスターに収め、再び席に戻った。そしてグラスを手に取り、一口呷った。彼の手元にはいつの間にか、〈魔女〉のペンダントが置かれていた。

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