1-3
〈フロンティア〉最初の街――アイゼンの表通りに話は戻る。
荷役のオルタナたちの間を縫いながら、砂埃が逃げるようにして宿へと駆け込んだ。帳場では主人と思しき恰幅のいい女性が書き物をしていた。母と同じか、少し上ぐらいの年齢に見えた。
「あんた、一人?」女主人は訝しむ気持ちを隠さずに言った。
「父の仕事の手伝いで」わたしは答えた。「父が急に来られなくなってしまったから、その代理です」
「こんな所に、一人で?」
「どうしても纏めなければいけない商談があるんです」
「ふうん。まあ、金さえ払ってくれるならうちは何だって構わないけどね」
わたしは差し出された宿帳に名前を書いた。
「『アン=モーゼス』」女主人が読み上げた。「いいかい、アニー。ここにいるのは善人ばかりじゃない。下手な人間に関われば、命だって取られかねない。そのことを肝に銘じておくんだね」
「それを教えてくれるあなたは善人ですね、少なくとも」
わたしの言葉に、女主人はつまらなそうに鼻を鳴らした。それからわたしの部屋と、食事の時間を教えてくれた。
部屋に荷物を置き、街へと繰り出した。懐に父の銃を差すのも忘れなかった。
まず向かったのは、来る途中で目を付けておいたサルーンだ。入るのにはもちろん抵抗はあったけれど、情報を得るにはこの場所に勝るものはなかった。
スイングドアを開けて中へ踏み込むと、酒と汗と煙草の臭いが襲い掛かってきた。こみ上げてくる吐き気をどうにか堪え、店内を進んでいった。昼間だというのに、既に顔を赤くした男たちが席を埋めていた。彼らが一様に、アルコールで濁った眼差しをこちらへ投げているのがわかった。
わたしは前だけを向いてカウンターへ近付いた。そこではバーテンダーがコップを磨いていた。整った口元の髭と糊の利いた白いシャツが、彼が信頼に足る人間だと物語っているようだった。
「お訊きしたいことがあります」わたしは席に着くなり切り出した。
バーテンダーは何も言わず、小さく頷いただけだった。
「顔に傷のある男を捜しています。名前はトマス・ブッツァーティ――偽名かもしれないけれど。人を殺して、この〈フロンティア〉へ逃げて来たんです」
「その男が殺したのは、あなたの近しい人のようですね、お嬢さん?」彼はミルクを注いだコップをわたしの前に置いた。この店でわたしが口に出来るのは、これぐらいだったのだろう。「心当たりはあります。命知らずのブッツァーティ。この辺りではそれなりに名の通った人物です」
わたしは奥歯を噛み締めた。あの男が偽名も使わず、堂々と父を殺したことに腹の底が熱くなった。
バーテンダーは続けた。
「あなたにどのような事情があれ、彼と関わり合いになることはお薦めしません。少なくとも、この土地で生きる人間であれば、そんな真似はしない。自殺に等しいことですから」
「だけどどうしても、彼を捕まえなければならないんです」わたしは声を張った。いくつかの視線を感じながら。「彼に法の裁きを受けさせたいんです、同じ神の子として。でなければ、父が報われません」
最後は大袈裟に声を震わせた。バーテンダー氏の気持ちを揺さぶることと、わたしの意志の強さを伝える狙いがあった。どちらも上手くいったかは定かではないけれど、バーテンダー氏は小さく溜息を吐くと、郡保安官のオフィスを教えてくれた。
「ただ、彼にはあまり期待しないことです」バーテンダー氏はそう言い添えた。「この地に於いては、法よりも強く働く力がある。それを体現しているのが、我々のマーシャルですから」
それでも、正規の手続きをとってブッツァーティを追えるのであれば、頼らない手はなかった。思えばこの時点ではまだ、わたしは〈常識〉というものに片脚を付けていたのかもしれない。けれど考えが甘かった。
バーテンダー氏の言葉が正しかったことは、郡保安官と対面して一分と掛からずにわかった。痩せぎすの保安官は、部屋に入ったわたしを見るなり、露骨に顔を顰めた。
「ノールトン判事から話しは聞いている」電信が届いたのだ、と保安官は言った。「まさか、本当にやってくるとは。しかも一人で」
「話が通っているのなら好都合です」わたしは怯まないよう構えながら言った。「ブッツァーティ追跡に同行して下さい。あなたには、この解放区での捜査権があると伺いました」
「イエスかノーで答えるなら、ノーだ」彼はマッチを摺り、咥えた煙草に火を点けた。
「なぜ? 職務を果たして下さい」
「私の職務はこの土地の治安維持だ、お嬢さん。子守ではない」
「法を犯した人間が野放しにされているんですよ?」
「この街で何かをしたわけじゃない」紫煙が吐き出された。「隣の家の作物を荒らしたからと言って、君の家の屋根にとまる鴉を撃てないのと同じだ」
「彼は当地で有名な悪党だと伺いましたが」
「噂の範囲内だ。現に、彼が私の管轄下で悪事を働いたことは一度もない」
この保安官の背後でどのような力が働いているのか、わたしは悟った。そして、彼に〈法の番人〉としての役割を求めることが無謀であることも。保安官はノールトン判事と同じ眼をしていた。彼に、何かを頼ることは出来そうになかった。
やはりわたしが。自分の手で――。
そんな考えが表に出たのか、保安官が煙草を揉み消しながら言った。
「妙な気は起こさないことだ、お嬢さん。過去に拘ったところで碌なことはない」
過去に拘って生きること。誰もがそれを悪徳と評する。過ぎてしまったことを考えるのは愚かなことだ、と。
けれど、本当にそうだろうか? 過去があるから今があるのだと、わたしなどは考えてしまう。
保安官は椅子を軋ませた。
「命は大切にした方がいい。君にはまだ、長い人生が待っているんだから」
「もちろん」わたしは答えた。「けれど、命を賭しても守るべきものがこの世にはあると、わたしは考えます」
「それは蛮勇だ」
「臆病者として生きるよりマシです」
小さな舌打ちが聞こえた。わたしは軽く会釈をし、その場を辞した。
オフィスを出ると、街は沈みかけた夕陽に染められていた。橙色の光と黒い影で描かれた世界。宿へ帰る道のりは、ほとんどが影の中だった。
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