1-2
馬車を降りても深く息を吸うことは憚られた。乾いた空気は漏れなく砂埃を含んでいて、馬車の中のそれとは大差がなかった。
ハンカチで口元を抑えつつ、乱暴に屋根から下ろされたトランクを持ち上げ歩き出した。鞄は片手で運ぶには難儀で、わたしはサミィを前の街――ナサニエル・ヨークで帰したことを俄に後悔した。尤も、彼には父の遺体を持ち帰ってもらうという役目があった。冷たく眠る父を、母や弟たちの元へ送り届けるという大切な役目が。
葬儀屋で対面した父は、棺桶の中で静かに眠っていた。胸の上で手を組み合わせ、瞼も唇も閉じていた。寝顔は穏やかで、肩を揺すれば起こすことが出来そうに思えた。
「別れのキスをするなら今ですよ」
わたしを案内した店主は言ったけれど、とてもそんな気は起こらなかった。そうしてしまえば、目の前に横たわる父を遺体として認めることになる気がした。わたしは首を振り、棺桶に背を向けた。
それから店主は、父の遺品を持ってきた。鞄と、出掛ける前に腰に差していった大型の拳銃が一丁。鞄は中の契約書類がいくつかなくなっていた。恐らく、撃った直後に犯人が持ち去ったのだろう。父はたった四頭のソートのために命を奪われたのだ。わたしは鞄をサミィに持たせ、拳銃を手にした。鉄の塊はズシリと重く、鈍い光を放っていた。父はこれを抜く間もないまま息絶えたのだろう。
「それと、もう一つ」
店主が差し出してきたのはハンカチ、ではなく、それを二つ折りにして挟んだペンダントだった。例の、〈魔女〉のペンダントだ。わたしは導かれるまま手に取った。鎖を持って掲げて見ると、金色のそれは、電灯の光を何倍にも増して反射した。
このペンダントが残されていたのは奇跡だった。けれど、喜びは一瞬で泡のように消え、すぐに犯人に対する憤りに取って代わった。
犯人の狙いは飽くまで契約書だった。あの男は、父と共に家を出た時から、父を殺すつもりでいたのだ。右手に銃を、左手にペンダントを手にしたまま、わたしはあの、ブッツァーティの頬に刻まれた刀傷をありありと思い出した。あの男が暗く笑う度に引き攣る不気味な傷痕を。
葬儀屋を出てから、判事の元を訪ねた。ブッツァーティの追跡を正式に依頼するためだ。
事件は街中で起きたのだから、当然、何らかの措置はとられていると思っていた。けれど、判事の口から出た言葉は全く予想外のものだった。
「奴は既に〈フロンティア〉へ逃げてしまった。我々には手の出しようがないんだ」禿頭で髭をたくわえた判事(ノールトンという名前だった)は机の向こうからわたしに言った。「あちらの郡保安官でなければ捜査は出来ない。私には何の権限もないのでね」
わたしは言葉を失った。街で起きた事件の犯人を、判事が追い掛けられないなんて。法も何もあったものではない。途方もない理不尽を突き付けられた気分になった。
その後、随分長い時間ノールトン判事の机に齧り付いたけれど、彼の答えは寸分も変わることがなかった。結局わたしは、下働きのオルタナに腕を取られ、丁重ではあるけれど有無を言わさぬ力を以て追い払われたのだった。
これが荒野!
わたしは、吊し首の台が置かれたままの公園で、ひとり歯噛みした。法よりも不義理がまかり通る世界。腕力と悪知恵を備えた者が得をする世界。わたしが善きものとして学んだことが何一つ通用しない、人間の野性が剥き出しになった世界。まるで悪夢を見ているようだった。
ふと顔を上げれば、罪人を吊すための縄が風に揺れていた。わたしは、ブッツァーティがそこに吊されている様を思い描いた。
顔に布を被せられ、縄一本で吊された男の身体。
法が裁けないのなら――。胸の中に、一つの考えが浮かんだ。泡のように弾けたその考えは、紫色の霧をわたしの内側に充満させた。
気付けばわたしは、父の大きな拳銃に触れていた。いや、もっと明確に、握っていた。
足元の芝生には、傾き掛けた日を背中に受けて出来た影が伸びていた。本当にわたしのものかと疑いたくなるぐらい大きく、濃い影だった。
影が踏みつけられた。
子供たちが三人、笑いながら駆けていった。彼らの声は、わたしを再び陽の下に引き戻した。
サミィはわたしが〈フロンティア〉へ入ることを飽くまで反対したけれど、力尽くで連れ帰ることまではしなかった。人間の言うことには逆らうことが出来ない、オルタナの哀しい性だ。これで母がいち早くわたしの無茶を聞きつけ、サミィに停めるよう指示を出していたら、命令の優先度からいって、わたしは担いででも家へ連れて帰られていたかもしれない。
「お嬢様、どうか無理はなさらず」サミィは配線接触の悪い雑音混じりの声で、馬車の順番を待つわたしに言った。真鍮製の面に一対のレンズが嵌まった顔に表情が浮かぶ筈はなかったけれど、いかにも不安そうにしているのが伝わってきた。「危ないと思ったらすぐに逃げてください。それから、夜は決して外へは出られませんように」
そんなことを聞くうちに〈フロンティア〉へ向かう駅馬車がやって来た。わたしは改めてサミィに父を託し、馬車へと乗り込んだ。一人で帰り着いた彼を、母はなじるかもしれない。そう思うと、胸の隅が疼いた。けれど、それでも行かねばならなかった。
わたしはどこまでも、あの男を追い掛けなければならないのだった。
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