熒惑のストレンジャー

佐藤ムニエル

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 父はわたしに色々な話をしてくれた。空の向こうからやって来た十二聖人の伝説や、大昔の英雄の冒険譚。その種類は、書斎のささやかな本棚では収まりきらないのではと思うほど多岐にわたっていた。

 中でもわたしのお気に入りだったのは〈魔女〉の話だ。

 それは父がまだ幼かった頃のこと。制御系が壊れてはぐれた馬(ソート)を探して草原を歩き回っていた時、出会ったのだという。

 どこからともなく現われたその人物を、少年だった父は初め、テラーズだと思った(赤土色のローブに鏡の仮面という格好が、まさにテラーズだったそうだ)。そして恐怖に駆られ、急いでその場から逃げようとした。けれど、その時に父が乗っていたソートは動くのをやめてしまい、逃げることは出来なかった。勢い余って地面に転がり落ちた父は草の上で、このまま暗い洞窟の中へ連れて行かれバラバラにされ鍋で煮られるのだと観念した。

 ところが、怯える父の前に降り立った人物(相手もソートに乗っていたのだ)は躍りかかってくる様子もなく、むしろ手を差し伸べてきた。腕を掴まれそのまま捕らわれる恐れはあったものの、父は怖々と相手の手を頼って立ち上がった。少年がズボンに付いた土を払うまで、相手は何の動きも見せなかった。

 さてこれからどうしたものか。ソートに飛び乗り鞭打って、その場から走り出す様を父は何度も想像した。けれど、この物言わぬ無機動物がその人工筋を躍動してくれる保証はどこにもない。失敗すれば、今度こそ何らかの危害を加えられるかもしれなかった。

 春の風が、音もなく草原を渡ってきた。シロクシナダが一輪、足元で揺れていた。それを眺めていると、向かいで相手の動く気配がした。

 テラーズが、彼らのシンボルともいうべき仮面を外したのだった。それから、頭を目深に覆ったフードも。少年は息を呑んだ。風になびく銀色の髪を、彼は大人になった今でも忘れられないと語った。

 現われたのは女だった。年の頃は母(即ちわたしにとっての祖母だ)より少し若いぐらいだろうか。艶のある銀色の髪に白い肌。灰色の眼差し。父は何故だかそこに、言い知れぬ懐かしさを覚えた。

 と同時に、胸騒ぎも感じた。後に「何か、見てはいけないものを見ているようだったんだ」と語るようになるそれを、父は〈畏れ〉と名付けていた。そしてその畏れこそが、ここで出会った人物を〈魔女〉たらしめる結果となったのだ。

 父を見下ろす〈魔女〉は目を細めた。何かを慈しむような眼だった。父は、後退りすることも叶わず、その場に立ち尽くしていた。

「この辺りの子?」

 初めは何を問われたのかわからなかった。相手の発する言葉が理解できないものだと、頭が勝手に思い込んでいたのだ。同じ問いをもう一度投げかけられ、父はようやく、ぎこちなくはあったけれど頷いた。

「馬を探しているのね」

 もう一度、頷いた。

 すると〈魔女〉は、肩越しに背後を振り向いた。目で追った父はそこで初めて、彼女の乗ってきたソートとは別にもう一頭、二足歩行の無機動物がアイドリングしていることに気が付いた。

「昨夜の嵐で感覚系に異常を来したようね」傍らに来たソートの胴体を撫でながら〈魔女〉は言った。「簡単にだけど手直しはしておいたわ。これであなたの後には付いていける筈だけど――」

 そこで言葉が切られた。ぼんやりと聞いていた父は、相手としばし見つめ合った。

「あなたも迷子……ではないわよね?」

 父は自分がやって来た方を振り返った。けれど、その先に自分の帰るべき家があるという自信は湧いてこなかった。途中で何度か方向転換をしたのだ。はぐれソートを探すことで頭がいっぱいになり、自分がどれだけ遠くへ来ていたのかも忘れていた。

 遠く地平線の上では、黒ずんだ雲の切れ目で光が瞬いていた。遅れてゴロゴロと、雷の音が聞こえてきた。

 〈魔女〉が笑った。父が目を向けると、彼女は赤土色の布で覆われた肩を揺すって、口元に手を充てていた。父にとってそれは「とてもおかしい」と思う時にする動作で、〈魔女〉にとっても同じ意味合いを持っているようだった。

「ごめんなさい」笑いの波間で〈魔女〉が言った。「余程この子が大事だったのね」

 一頭でも減れば母が哀しむ。一頭分の材料費だって決して安いものではないし、その売り上げだけで母と兄弟を合わせた家族全員が優に一月は食べていける。たかが一頭として捨て置くには、あまりにその価値は高かった。

 〈魔女〉はマントの内側から何かを取り出した。懐中時計のような丸く鎖の付いた代物で、彼女はその蓋を親指で開いた。

「大丈夫。そう遠くまでは来ていないわ。あの雲が来るまでには帰れる」

 父には彼女が、時間を確認したわけではないということしかわからなかった。そんな少年を余所に〈魔女〉は、はぐれソートの身体に手を充て、何かを囁いた。その意味がわからなかったのは決して声の小ささのせいだけではなく、一つ一つの言葉が今まで聞いたこともないものだったからだ。

 囁きが終わると、はぐれソートは駆け出した。数歩行ったところで立ち止まり、父たちの方へ振り返った。「来ないのか?」と問うているようだった。

「あの子についていけば問題ないわ。帰り道を教えたから」

 魔法だ、と父は思った。

「ミイラ取りがミイラになってしまったわね」首の後ろに手を回しながら〈魔女〉は言った。「けれど、あなたの行動は尊いものよ。わたしはそれに敬意を表するわ」

〈魔女〉は首から提げていたペンダントを外した。それをそのまま、父の首に掛けた。父はその間、されるがままだった。

 ペンダントは丸く、金色だった。長い時を経てきたようで輝きは鈍く、手に取ってみても蓋のようなものは見つからず、本当にただのアクセサリーといった代物だった。けれど、そのデザインは独特で、祖母が持っている数少ない装飾品のいずれかともその出自を異にしているのがわかった。

 ペンダントに見惚れる父に、言葉が降りかかってきた。

「他者を守る、真の強さを手に入れた時、あなたたちはこの星の真の住人になる」

 え、と問うように顔を上げると、〈魔女〉は既に馬上の人になっていた。今し方の言葉に対する解説はなく、彼女はただ「気を付けて帰りなさい」と言うと、己のソートに蹴りを入れて走り出した。

 父は草原に立ち尽くしたまま、彼女を見送った。〈魔女〉の後ろ姿は、遠くの森に消えていった。

 わたしがこの話を特に好きだった理由は、その〈魔女〉のペンダントが実際に手を触れられるところにあるからだった。父の過去と、その話を聞いている自分が、時間を越えて繋がっているような気がしたのだ。

 父は、わたしが十六歳になった日に、そのペンダントをくれると約束した。

「誕生日には君の首に掛けてあげよう。これは我が家の宝物だよ、アニー。いつか君に子供が出来て、その子が一人前の大人になったら、同じように君がその子の首に掛けてあげるんだ」

 けれど、約束が果たされることはなくなってしまった。

 永遠に、どうあっても不可能になってしまった。

 大きな揺れがあったのか、わたしは眠りから醒め、瞼を薄く開いていた。

 座席の下から断続的に伝わってくる振動。荒れ地を踏みしめる車輪を、わたしは頭に思い描いた。四頭立てのソートに引かれた車輪付きの小箱が、時折岩に跳ね上げられながら荒野を進んでいく。あながち遠い想像ではない筈だった。

 車内の、三人掛のシートにはきっちり乗客たちが収まっていた。それが三列並び、わたしは一番後ろの列の右側に座っていた。誰かが煙草を吸ったらしく、空気が煙たかった。窓を開けたかったけれど、立て付けが悪いのか上手くはいかなかった。何度か頑張ってからやがて諦めて、くすんだ硝子の向こうに広がる景色を眺めることにした。

 真っ赤な、不毛な大地がどこまで広がっていた。

 〈フロンティア〉といえば聞こえは良いけれど、ここは明らかに最果ての土地だった。

 秩序も文化もここにはない。力と野性に支配された世界。父はそうした世界の道理に命を奪われたのだ。

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