第5話 涙 第一回無貌賞賞品
*本作は第一回無貌賞を受賞したネツヤマさん(@netsuyama)への賞品として書き下ろされたものです。
元の作品はこちら https://kakuyomu.jp/works/1177354054897984481/episodes/1177354054897984743
「ザ・ブルードって映画知ってる?」
大学の講義が終わった仄暗いキャンパスであたしは晩飯のことをぼんやり考えながら歩いていた。突然、知らない男子に話しかけられた。それが橘内だった。
「ザ・ブルードって映画知ってる?」
最初のひとことがそれだ。
「クローネンバーグ好きだって言ってたじゃん」
確かにあたしはクローネンバーグを好きだが、なぜこの男は話しかけてきたんだ? 知り合いか? いや、見たことないはず。でも、橘内は勝手に話し続け、勝手に去って行った。あたしはぼんやりと橘内の後ろ姿を見送った。
少し前から涙が止まらなくなった。痛みや違和感はなく、ただ涙が流れ続ける。ひたすら不便だ。右目をハンカチで抑えてコンビニでおにぎりを買って食べた。気が付くと白かったハンカチが赤黒くなっている。あたしの涙の色だ。病院に行かなくてはいけない、と思う。
寝る前に顔の下にタオルを何枚に敷いた。すぐに赤黒く染みて嫌な気分になる。彼氏からメッセージが来たが、体調悪いとだけ返して寝た。
今日も涙が止まらないような気がする。翌朝、赤黒く濡れたタオルを風呂場に放り込んだ。他人が見たら人を殺したと思われそうだ。マンションを出ると、彼がいた。
「心配したんだぜ」
返事をしようとして、頭になにかが引っかかった。
「目の調子が悪いの?」
彼はあたしが右目に当てているハンカチに手を伸ばしてきた。すぐに小さな悲鳴を上げる。
「血だ。急いで病院行こう」
「血じゃない。涙だよ」
なんだか身体がだるくなってきた。大学に行きたくない。
「だって、どう見ても血だよ」
彼はしつこく言ってきたので大学内にある眼科に行くことにした。検査すると、血ではないという。でもなにかはわからないので、結果が出るまで数日待ってくれという。やれやれと思いながら眼科を出ると彼はいなかった。講義に行ったんだろう。
明日も涙が止まらない。
政治学の講義に行くと、橘内があたしの横に座って、「うらやましい」と言い出した。
「血の涙を流すなんて素敵だ。グレゴリアンチャントでも歌おう」
「人の涙をおもちゃにするな。あたしは聖人なんかにならない」
よくわからないけど、橘内に話しかけられると身体がぞくぞくする。
「ゴスペルでもいい」
「黒人にもならない」
橘内はあたしに手作りの眼帯をくれた。気になったのでトイレに行くと、下着がおびただしく濡れていた。あたしは自分の正気を少しだけ疑った。
来週も涙が止まらない。
検査結果を聞きに彼と学内の眼科に行った。なんだか彼の顔が別人のように見える。なぜ、あたしはこの男子を彼だと思ったんだろう。
「精神病理学研究室で調べてもらいました」
嫌な前置きだ。
「この涙の成分は”狂気”です。あなたは涙を流すことで“狂気”の発症を抑えています。つまりこれは健康状態を維持するための反応で特に問題はありません。むしろ涙が止まると深刻な精神障害が発症する可能性が高いと考えられます」
「なぜ今まで大丈夫だったんでしょうか? 涙は先週突然止まらなくなったんですよ」
「あなたの“狂気”が肥大させるきっかけがあったのでしょう。精神科を受けることをお勧めします」
彼が息を呑んだ。いや、こいつは彼じゃない。いったい誰なんだ。
「薬剤で“狂気”を抑えられれば涙は止まるかもしれません。そのままだと不便でしょう」
来月も涙は止まらない。狂気を涙にしているなんて話は聞いたことがない。あたしは精神科にもいかず、家に閉じこもった。彼を名乗る見知らぬ男子は毎日のようにあたしのマンションを訪ねてきたが会わなかった。
「目的はなに? なぜ彼のふりなんかするの」
「ふりじゃない。一緒に撮った写真を送っただろ。なぜわからないの?」
彼からはたくさんの写真が送られてきていた。でも映っている彼の顔はそれぞれ違っていた。しかも一緒に映っている女はあたしじゃない。頭がおかしいのはあたしじゃなくてあんただ。
来年も涙が止まらない。あたしは橘内に紹介された病院にいる。手術で右目の涙腺を焼き切った。もう涙は出ないはずなのだが、それでも涙が止まらない。なぜか橘内も入院している。病名を教えてもらったが、覚えられない。「効かない薬を飲み続けないと死ぬ」病気らしい。意味がわからない。
あたしと橘内は毎日、お昼に病院の中庭を散歩する。色とりどりの花が咲き乱れる庭にはあたしたち以外誰もいない。時折、悲鳴や笑い声が聞こえる以外はなんの音もしない。空はいつも晴天で雲も鳥もいない。花畑の真ん中であたしはいつも橘内を絞め殺す。その時だけ涙を止まる。だからきっとこれは特効薬なのだ。
このまま涙が止まらないままでいい。
橘内は効かない薬を、まるでキャンディのようにぼりぼりかじり続ける。あたしは知っている、この病院がどんな患者を受け入れているか。
一昨日、のっぺらぼうの幼児が病院を廊下を駆け抜けて壁に激突して死んだ。深夜にずるずるなにかを引きずる音がして、廊下を見ると八本足の老人が涎を垂らしながら歩いていた。病室の窓にはいつも誰かの顔が貼り付いているからあたしは落ち着かない。廊下では白衣の医師がグレゴリアンチャントの練習をしている。中庭から病院の建物を見ると、いつも黒い影が屋上に見える。
橘内の背中から薔薇が生えてきた。あたしの涙のようなどす黒く赤い花が咲いた。邪魔なので引き抜くと、橘内は歓喜の悲鳴を上げて射精した。来年はここに薔薇園ができるだろう。あたしたちは永遠に中庭で逢瀬する。
あたしはあの言葉を忘れるべきじゃなかった。
了
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