トラ猫がうちにやってきた

朝倉神社

第1話 出会い

 十数年前までは、家の周囲には野良猫や野良犬というものはどこにでも居たように気がする。でも、ドラマに出てくるような、ダンボールに入った子犬や子猫というものは見たことは無かいし、近所に野良猫がいるらしいことは分かっていたけども、姿を見る機会はとんと減ってきたように思う。


 夏のある日、仕事から帰ってくるとアパートの玄関前に一匹のトラ猫が丸くなっていた。玄関前は一段高くなっていて、ドアを開けるには其処に足を乗せなければならないという完璧な場所で、トラ猫は眠っていた。野良とは思えないほど、丸々と太っていて、ボクの気配に気がついたのか、ふてぶてしい顔を一度持ち上げると、ちらりとこちらを見上げてすぐに何事もなかったように目を閉じた。


「いやいや、其処どいてくれないと…」


 ここは自分の場所だといわんばかりに、玄関前のスペースを独占しているトラ猫にボクは声をかけた。暑い夏の日、打ちっぱなしのコンクリートで、しかも斜め前にある桜の木のお陰で日陰になっていて涼しいのだろう。日は沈みかけて、空は赤く色づいている。伸びた影がちょうどボクの家の玄関に伸びていた。


 しばらく待てば、日陰の位置は移動するし太陽が沈んでしまえば、他にもいい場所は生まれると思う。でも、ボクはいま家に入りたいのだ。僕の左手には通勤用のカバンが、右手には近くのコンビニで買って来た今日の夜飯が入っている。家に帰ったらすぐに食べるつもりで、コンビニでレンチン済みである。


 刻一刻と弁当は熱を失っていく。


 もちろん、自宅にもレンジはあるからもう一度温めることは可能だ。べつに目の前の猫が居なくなるまで待っても問題はないのだ。だが、それは何だが悔しい気がする。ボクは一日仕事をして疲れて帰ってきたのだ。なんで、猫のために夕食を邪魔されなければならないのだろう。


 いっそのこと、無理矢理ドアを開けてしまおうかと考える。


 猫である。


 象が家の前に鎮座しているわけではない。力づくで退けられないわけではない。


 でも、と思う。


 折角気持ちよさそうに寝ているのを邪魔するのは少し気が咎めるものだ。それにしても良く寝ている。頭を前足に乗せて、頭から背中、尻尾までコンパスで描いたようなキレイな円が描かれている。野良猫らしく、毛並みはぼさぼさで薄汚れていた。でも、これだけ太っているというのは、もしかしたら最近まで飼い猫だったのかもしれない。だから、こうして人に対してまるで警戒心がないのだろう。じっと見ていると呼吸に合わせて、体が膨らんだり縮んだり、人間となんら変わらない。そんな観察をつづけていると、ぴくっと右の前足が動いた。


 寝る直前に起きる入眠時ピクツキとかいう人間でもよくある現象が猫にもあるのかと、思わず笑みがこぼれた。まるで人間みたいだと思うと、途端に猫に親近感が沸いた。

 もちろん、それでこの猫を飼おうと思うほどではないけれど、餌でもやれば動くんじゃないかと思った。夕食とはべつに買物袋にはスルメが入っている。メシくって、風呂入って、ビールと一緒にと思っていたけども、夕食にありつくためには仕方ないかと、袋からスルメを取り出した。


 ビニール袋のガサガサという音色に、トラ猫は何事かと顔を持ち上げる。コンビニに売っている100円の少量のスルメの封を切ると、一本取り出し猫用に小指の先ほどの大きさにちぎってあげた。見るからに食い意地の張ってそうなトラ猫は、早くくれとせかす様に顔を突き出してくる。


「ほら」


 ボクはそういうと、コンクリートの土間から下りた先にスルメを差し出した。トラ猫はのっそりと体を動かすと、土間から下りて、スルメを口にする。その隙に鍵を開け、部屋に入り、すばやく扉を閉める。


「ナー」


 足元から聞こえてきた声に、下を見ると先ほどのトラ猫がいた。スルメをもっとくれというように、大きな目でこちらを見上げ、更にもう一度「ナー」と鳴いた。


「おいおい、何で勝手に入って来るんだよ」


 扉を開け放ち、文句を言ったところで、出て行く気配はない。スルメを口にするまでは動きは遅かったくせに、扉を開けた一瞬で体を忍ばせるとは油断のならないやつだ。仕方ないなとスルメを再び少量千切り外に向かって放った。放物線を視線で追いかけて、トラ猫は部屋から出て行った。

 一瞬の隙を付いてボクは部屋のドアを閉める。


「しょうがないだろ。猫なんて飼う余裕ないんだからさ」


 誰に聞かせるわけでもない言い訳を口にして、ボクは部屋に入った。男の一人暮らしとしてはそこそこにきれいにしていると思う、2DKのアパート。ローテーブルに買物袋を置いて、部屋着に着替えて人心地つける。バラエティ番組を流しながら、から揚げ弁当に箸を伸ばす。美味いけど、飽きて来た。そんな風に思う。


 だったら、自炊でもすればいいけども、自分のための食事というのは中々に億劫なのだ。料理自体は嫌いではない。人に作る分にはいいけれど、自分のためにと思うとちょっと食指が動かない。キッチンには立派な冷蔵庫もあるし、包丁やフライパン、鍋といったキッチングッズは一通り以上にそろっている。


 僕はため息をついた。

 一人で住むには少し広すぎる。




 翌日、会社から帰ると、昨日のトラ猫が玄関前で丸くなっていた。


 

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