自序

 僕はよくもよくも君の事を殺せたなと思う。


 僕は昔から、意識するともなく人が好きで、知らぬ内に精神を救われていた。人間は人間と触れる事で随分明るくなる。

 しかし、「私ね、○○君の事が好き」と、目に恋愛の色を浮かべて寄って来る人を僕は無条件に否定した。恋という感情を向けられた途端、僕はその人間を一気に否定した。自分の人生に我が物顔で入って来られることが、恐らく嫌だったのだろう。否、恐怖に依る拒絶かもしれない。恋を知らぬから、先入観で却下したのかもしれない。そんな感情程、身勝手で自己中心的なものはない。利点も無いと思う。

 それまで他の者と同様に平等に接して居たのを裏返し、きっぱりと否定した。だが、それが済めばまた他の人間と、おしなべて同一に扱った。しかし、それが相手には耐えられないのか、自然とその人達は去って行った。(僕の知った事では無い)


 気まずいという感覚を、僕は知らない。人と合わせるということの利点を、僕は重視できなかった。

 大学に行って多数が髪を染めるのを横目に、僕は生涯の黒髪を保った。適当に伸ばして、暑くなったら切った。僕は英文科に進んだ。理系に進まなかったのは、もう少し楽がしたかったからだ。

 ああ錯雑としているなと感じた。学生は二分されると思う。学ぶ為に来た者と、学びを避ける為に生きる者と。後者を憎むわけではない。だが、此処は自分等の居場所ではないのに、肩を寄せ合って飲み暮れる奴らを、諧謔を交えて軽蔑しそうになった。取るに足らない。


 君は僕にとっておしなべて人間として一般的な相手だった。君には女性性というものを感じなかった。美しいとは思う。其れ以上には何の感想も無い。別に君でなくても良かった。話し相手が居ないと、言語のアウトプットを持て余すから、ただ、気の許せる相手が居ればそれで良かった。気の許す相手など、作ろうと思えばいくらでも量産できるから、君が居なくても良かった。

 けれど、君が居るから、僕は君以上の相手も要らなかった。


 君も才能があると思ったのに、どうしてそのまま進まなかったんだろう。ハミルトン閉路が云々と言っていたあの論考、面白いと感じたんだよ。僕みたいな素人に面白いと思われるような論考は、もしかしたら研究としては駄目なのかな。それとも僕は無意識にお世辞を言っているのかな。よく無表情だと言われるけれど、僕自身は、始終人を褒め称えて微笑んでいるつもりだから。分からないや。過ぎた事だ。君はもう居ない。学問に飛びつく奴は、どの時代にも絶えずどこかに居る。きっと他の人が埋めてくれるよ。


 醜いね。どうして君は死を口にしたんだい。その途端邪魔になってしまったんだ。中学生の時、靴箱に逆恨みの手紙が入れられていた時みたいに、或いはその後に下校時待ち伏せされていたみたいに、嫌悪と悪寒を覚えたんだよ。何故僕なんかに執着するんだろう。あの時もそうだが、憎悪に替わる感情は、純粋な恋ではないと思うよ。他の代わりを見つけてくれ。同じく、君でなければならないと思ってくれるような男性など、幾らでも作れるだろう。


 正直僕は人の愚痴を聞きたくない。性別など気にもしないが、たまにあるタイプの女性が面倒だなと思うのは、区々とした愚痴を態々他人に話したがる性格を目の当たりにした時だった。身内は僕に結婚しろと言う。良い人などいくらでもいるだろう、との話。孫が見たいと言う。それから、昔っから○○君は女ッ気が無いから駄目ねと言う。毎度それだ。男らしくないと言う。何を以てそう指摘するのだろうか、恐らく筋肉質でないし、実際前述の通り女性を伴侶として見定めたくもない意が外へ洩れているためだろう。女性をそういう目で見た途端、僕も、僕が嫌悪するあの人種と同類になるんだ。恋という陳腐な手段としか相手を観られなくなった、乏しい目線だ。其れ以上に卑しい人間の動態など存在しないと考えている。


 僕は、君の事が多分、好きだったよ。それは君の花を前にして初めて思うんだ。僕は遺族になるんだろうか。君は僕と家族になりたいと望んで居たから。胃が苦しい。恐らく、錯乱している。あまり、綺麗に死んで仕舞うものだから。もう少し、粘ると思ったよ。僕みたいな屑に懸想するような女なんだから。哀れな者は、すぐ恋に走るような者は、図太い神経の持ち主で、そう簡単に折れやしないんだろう。構ってくれと懇願するためにすぐ弱い振りをするけど、本当は、すぐ別の偶像を見つけて崇拝して生きるんじゃないか。恋に走る奴って、そういうものじゃないか。だけど別に、そんな彼女等を僕は否定しない。彼等が勝手に舞い上がって、お互い幸せならば、いいじゃないか。


 けれどね、僕を選んだのは、罪だよ。僕に同情を乞うたのは、間違いだったね!前に君は僕の後ろ髪を意味もなく暑そうだと言って縛ったが、あれには意味があったんだね。取るに足りない意味だよ。思えばあの時から、君は僕にそういった特別な念を抱いていたんだった。気付くわけもない。変なところで遠慮がちなんだから。好きなら、好きと言えば良かったのに。僕はそれを受け流して、真っ向から否定するまでだ。そちらの方が、綺麗だろ。

 妙に君の手が優しかったのは、下心があったからなんだ。僕を傷付けまいとする、気後れの現れだったんだ、それが、懸想てやつだろ。


 あ、だから君は、僕に死を打ち明けた時、そんなに思い切った怖そうな目をしていたんだね。今、解った。僕に否定されるのがずっと怖くて、最後の最期に、どうせ死ぬからと覚悟して、言ったんだね。

 つい、罵倒しそうになってしまった。でも、そんな言葉は無意味だし、だらしがないから、止めるよ。君は何て言って欲しかったんだろう。ごめんね。死にたいなら、殺せばいいと、そう思った僕はやっぱり、一生結婚なんて出来ないよ。君ももう居ないし。ずっとこうして、否定するだけだろう。

 僕へ近付いた者は、皆、君と同じ末路を描くしかない。まあ、こんなに僕の琴線に近付いたのは、君が初めてだった。


 まだ僕もポスドクだし、あんまり気の利いたことは言えなかった。人って結局経済を求めるだろ。僕にそんなものは無かった。金を求めるのは自分の将来を信じているからだ。僕は永く生きる気がしない。


 僕がチョーサーを読んで居たのを偶然見た君は、同じく代表作を読みだした。あれも、懸想の現れだったんだ。気付かなかった。そうと知って居れば、単純な軽蔑の目で見て返して、直ぐに止めたのに。


 君が僕をそういった目で見ていたことを知った今、君との思い出は全部腐り切ってしまった。花が散る如く、君の途絶える様は、一度だけ、美しかった。それだけが、今も不思議だ。過去になった途端、僕はそれらを今は無いものとして見られるからか。好意を拒絶した後、僕はその女性を普通の人間として見られる。悪寒が解放に向かう瞬間、僕は安堵を美しさと錯覚したのかもしれない。


 君が僕にあれ程迄に死を相談したのは、もしかしたら、こういうことを望んで居たからなのか。そしたら、僕は、その思惑にまんまと騙されたわけだ。僕の手は君の最期で汚れて終った。煩わしかったな。

 良き友人だと思っていた人に、僕は手の平返されたわけだ。


 ああ、そっか。俗に、人というのは、この感情を言うんだな。今迄、抱いた事無かった、強い衝撃だった。嫌悪というのが一番正しい。今までで一番強い、頭に残る嫌悪だ。腹の底で喉を引っ掻くような悪寒だ。


 僕の髪は、君が縛った時よりも少し伸びてしまった。首が少し暑苦しいね。そろそろ切ろう。美容室なんて行くのも面倒だし、高いから、いつも通り近所の床屋で済ませる。

 きっと僕は人を殺したことなんて知らない顔して生きるよ。過去の事は、過去として捨てられるから。最後に彼女は僕に縋ったが、僕は彼女をもう思い出としても見ていない。居なかったことになるんだ。いや、もう居ない。


 ちゃんと切り捨ててあげたのは、僕とあの人にとって、良かったよね。落ち付いた論文が書けそうだ。


 まだこの猶予付きの地位に留まって居るのは、僕があんまり人間性を持たないからではないだろう。人と会えば楽しく話し、心から他人に慈悲を抱いている。こんなに愛想のよい人は他に居ない。人並み以上に、良い人だと自分で思っている。

 執着は汚いと思う。だからのし上がれないのかもしれない。媚びを売らねば教授に為れないくらいなら、一生ポスドクで良いよ。居心地は悪くないから。


 始末をするために、誰かひとり、呼ぼうかと思った。面倒だから止めた。大人は嘘つきばかりだし。きっといくら金を握らせようが、外聞に洩れてしまうだろう。

 また、人が一定程度機械だったらいいなと、考えた。


 誰を話し相手にしようか。幼馴染が消えたから、少し時間が掛かる。代わりにあの同期でも引っ張り出そうか。別に一人でも生きて行けるけれど、僕は人間だから、息抜きも必要だ。

 そんなに器用でもない。こんな書き捨てをものする位には。

 僕を此処迄担ぎ上げたのはこの世界だろう。ちょっと、学問が出来ると、居場所が出来る。書けばいい。掻き集めて、思ったことを、自分なりに張りぼてに仕立てて、ちょっとした所に投げれば良い。その輪廻を続ける為に、僕は人並みに笑って、話さなければならないんだ。


 分かるかい、君、僕はこんなことを話したい訳じゃない。戻ろうか、他愛もない話に。次の君は、もっと僕に似た普通の、普通の、汚れない人であることを願うよ。

 

 「○○君のやりたいことは何だい」とは、入院一年目の学内発表の時、少し専門の違う教授に言われた薄っぺらい台詞だ。そんなのが判って居たら、僕は研究職になんてならなかった。目的が無いから、誰もが布かれる一般的なレールを何となく深掘りして此処まで来てしまった。


 悲観はしていない。絶えざる課題があれば、生きるのも楽なような気がする。全く以て、人の目的なんて知った事でない。それより、綺麗に結ばれた理論の方が、よっぽど安心してしまう。人間のことは大好きだが、偽りなく慈悲を注いでいるが、……訳の解らなさに直面すると、無機質な紙上に逃げ、意識を暫し横たえて、安んずる。その理論を永らく地層として構築したのは、紛れない人間であるのに、僕は先人の事を、現代人よりも機械的だと見做す癖がある。そちらの方が、理論に信頼を置けるから。変だと笑われるかもしれない。矛盾を突かれるかもしれない。だが、僕なりの哲学と苦痛の回避の積み重ねが、僕を嘘のような毎日に投げ込んだんだ。

 哲学、っていうのも大層だ。僕の考えなんて、「思惑」くらいが丁度良い。


 明日はニワトコの花を煮詰めて飲もう。多少変なものを飲んで居た方が、頭に好いからね。気分が転換できる。何、本当だよ、君も飲むと良い。軽やかな芳香が、鼻腔を刺激してきっと気に入るよ。


 実のところ、僕は一人で生きられるけれど、出来たら道連れが欲しい。でも、他人が可愛いから、どうも僕なんかの伴侶としてのオファーを、どうしても一歩踏み出せないでいる。だってそれは、その子にとって死刑宣告だから。本当の人間性を持ち合わせた女の子は、無色透明な潔癖の生活に浸った途端、色を絞られて枯れてしまうだろう。僕は、彼女たちが望むようには、人に愛想よく振舞えない。それこそ、嫌悪で堪らない。その髪一本だって、真正のままに保つのが一番だ。僕が手を加えた途端、例えばお下げだった髪をポニーテールに結った時、彼女は本物じゃなくなる。僕の意思が介入すれば、それは、造り物だ。


 無機質より、多少繁雑な方が綺麗だよと言う人が居たら、どうか教えて欲しい。ほんとうに、慈悲を越えた恋と愛というのを僕は信じられないから。簡潔で一つも踏み込まない、領分を守った関係以上に安泰なものを見た事がないんだ。


 一生これでもいいが、もし、その先に将来があるとすれば、上辺でない幸福があるとすれば、垣間見たいとも思うんだよ。こればかりは、本当だけど、君以外きっと、真に受けてはくれないだろう。僕はたいそう、将来に無頓着な、人間好きな、綺麗好きに見えるだろうからね。


 あまり、これ以上失望させられたくない。時間を経ただけで、どうして子供はあんなに狡猾になるのだろう。世の中の嘘を全て抹消して、故意の悪意を一掃出来れば、僕のような人で世はいっぱいに満ちるんじゃないか。その時、話し相手をまた殺す事になったらほんとうに僕は気が狂ってしまうだろう。そうして遂に、自分まで信じられなくなったとしたら、それは一人称の崩壊だ。世界観の死であり、たった今、この論考の紡ぎ手は息絶えていく。


 しかし、自分の首を絞めるのは愚かだな。騙し騙し生かされてきた身を、わざわざ彼岸へ葬るなんて勿体無い。君の目に僕が映っている以上は、面白そうにしていよう。楽しいほうがよっぽど徳だ。君が笑うならそれで良いんだよ。


 僕が見えないって、そりゃあ、君は僕の心情しか解って居ないからね。君が僕を見えたときは、君が僕を本当に掴むときだ。


 何故此処につらつらと語って居るのか。それは、紙なんて風化するからだ。肉体は風になるし、僕は人体としての生の証にこれっぽっちの希望も抱いていないのだ。君の脳裏に焼き付けてこそ、僕の自叙伝が封を切られる。君が思い出す事で、僕の存在はこの世に映し出される。君の記憶だけが僕のエッセイだ。分かるかい、これは、自序であり、遺言とは違うよ。死を前提に書いたものでない。生を続ける為に君を利用しているんだ。君に、可能性を託している。僕を理解しなくても良い、こんな奴が居たって事を、眼に焼いてくれればいい。それを映写機のように、幻灯として思い出せば尚良い。…おや、これは、随分綺麗ごとだ。吐き気がするかい、横になればどうだい。


 苦労人が幸せを掴むとは、慰めだ。

 それでは、今度、会期が過ぎたら、会いましょう。馴れ初めはカフェテラスが良いだろうか。君の設定を其のうち僕の世界に持ち出してくれ。何とか合わせるから。


 折角見付けた代替なんだ、いや、君は、君だけだ。代わりなどないが、役割を担う身としては、今のところ、有望だ。自分を大事にしなよ。よし、分かったら、今日はもう寝ておいで。

 僕は明日の締切を片付けてから、死んだように眠る。ここのところ、毎日これだ。もう少し休暇が欲しい。学者に休暇は無いか。社会性の逃避との引き換えに、私的時間が食い込まれた。どちらが幸福かなんて、無価値な問いだ。


 こんなくだりになってから言うのも変かな、僕は幸せなんだ。外をよく知らないからだね。そう、本当に。もし、知らない方が幸せだろうと思ったなら、どうか、感想を黙って居てよ。否、知るべきだと考えるなら、そっと、寝ている間に呟いて下さい、夢で処理して彼岸に持っていくから。


 不器用だね、論文もずっとこんな調子。まず、聞いて呉れる相手の顏すら判読出来ないんだ。君が笑って居るのか泣いているのかも分からない。その表情の間に何らかの差異があるかどうかも覚束ない。

 もしかしたら、泣いている君の方が、幸せだったりするのかな。それだけ、意思が、いっぱいになっているってことだから。涙を流す事の喜びを、今度、聞かせてくれ。良い音楽を流しておこう。


 何、唯一性が欲しいのかい。それは、僕には出来ない相談だ。だって、僕も自分を唯一だと思っちゃ居ない。座標変えたら、多数ある内の客体だろ。ただ僕が掬っている此の手は、今暫しは君のものだけなんだ。誤解しないで欲しいが、僕は心底、人が好きだよ。良い人は更に好ましいと思う。だが、恋というのを、すぐ挟みたがる奴には、賛同しかねるってだけ。自他の区分も付かないうちに、愛だのを語るのは早いだろう。それさえ守れば、僕はいつでも人間の側に居る。うん、君も察しが良いね。君以上に、僕は面倒かもしれない。これでも、人並み以上に簡潔なつもりなんだけれど。


 見捨てても、良いよ。僕は人を一人殺めた男なんだから。しかし、殺人と執着の間に、何の相違があるというんだ。執着を遮るために終わらせる幕もあるだろう。長く続くことは、苦だ。


 僕が苦労する原因は、大層な面倒くさがり屋だということに尽きるかもしれない。何でもかんでも、すぐ面倒になる。好きで始めた事も、直ぐ、厭きる。嫌ではない。やれば楽しいこともある。だが、何をするにも、一旦逃避できないかと打算したくなる。こういう人にだけは、ならない方が良いね。もし、君もそうだったら、随分、苦労人同士だ。一緒に居ない方が楽じゃないか。心中しかねないよ。その心中の用意すら面倒だね。


 この自叙伝は君しか聞かないんだから、その序は君が書いてくれ。短い感想で良い。他人の印象が記されているだけで、うんと現実性が増す。僕がまるで、本当に生きたみたいだろ。無理な哀悼は、要らない。誉め言葉なんて、絞り出すものじゃない。単純なイメージを僕に等価すれば事足りる。現実的だ。

 逃げたいなら、逃げると良い。僕は何にも執着していない。さらっとしていた方が、気楽で、気を遣わなくていい。

 小、中学と、面倒に纏わり附かれたから、ちょっと無駄に時間を割かれてしまうことに、若干の外傷を抱いているのかもしれない。なんて言えば感傷に過ぎるし、大袈裟か。


 左様なら。第二回の口述筆記、何時にしよう。次はもう少し辛い茶を用意するから楽しみにしていてくれ。それで、書き終えたら、しっかりと、一緒に燃やすんだよ。筆跡も肉体も、遺すのは惨めだから。

 それでは、お疲れ様。さあ早く帰りなさい。(情が移る前に。)

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