3

 お参りを終えた三人は、揃って拝殿の脇へとそれた。そこは、少なくとも今の妻にとっては瀞のように静かだった。その静けさはすなわち、今の彼女の心を映す水鏡のようだった。もしも夫婦二人きりだったなら、それも油蝉と螻蛄が嘈嘈とするただの夏の夜だったかもしれないが、今は違った。

「ねえ、このまま帰りましょう。一緒に、このまま」

 突然、妻が時の均衡を破った。

 妻の絞り出したような声は、祭りの宵へと融けてすぐに消えた。

 そう言ったきり、彼女はうつむき、自らが履く日和下駄の朱い鼻緒を見つめて黙りこくった。声は夫に届いていた。しかし彼は背を向けて立っていたために、その敗亡の気色をさらすことなく、あたかも彼女の声が夏の喧噪にかき消されて聞こえなかったかのように偽った。あえて逆浪に笹舟を漕ぎ出すような真似を避けたのも、妻を思いやっての決断であった。

 それから妻は二度とは言おうとしなかった。祭行燈が照らせる範囲の外で、木の葉から漏れる月の光が、森に真珠を落とした。妻が涙を隠すように匆々と目もとを拭った露けしき手の甲が、児女の前へと出された。しばらくその手を観察していた児女は、手首に懸けていた巾着からマッチ箱を取り出した。どこかで遊んだ輪投げかくじ引きの景品であろう、そのマッチ箱の色彩はお祭りにふさわしい角々しさで、レッテルには青い鳥が羽ばたいていた。

 妻の痩せぎすの体をめぐる帯に、児女はマッチ箱を押しつけた。

 児女は何も発しない。目の前の涙の理由はわからずとも、ただ上目づかいに、純粋な慰めの眼差しを向けている。

 妻はマッチ箱を握ると同時に、児女の玉手をも一緒につつみ込んだ。児女には、月光を後光のように背で受けている眼前の女性の影が、さながら菩薩様のように見えた。

「よし、もう一度引き返して、今度はからくりでも見に行こうか。他に何か好きなものがあれば何でもいい」

と、夫が一段の幕切れを思わせる快活さで言った。

 折から、彼の語尾とまったく連続するように、

「あら、山室さん、今からお帰りでございますか」

という高声が響いた。それは、あたかも次段の始まりを告げるかのように明快だった。

 見ると、この声の主は、小学校に通う二人の子供を連れた千早町の奥さんである。家族とともに縁日へ来た帰りであろう、二人の子供は様々な土産を抱えていた。その奥さんは、妻より五つほど年上であるが、妻が毎週木曜日に開いている箏の稽古に欠かさず顔を出しており、生徒兼友人を自認してやまなかった。

 迷子を連れる、子のない夫婦が千早町の金物問屋家族と挨拶を交わしてから、児女を紹介しようとして揃って振り返った時、その先の暗がりに児女の姿はなかった。

 夫はたちまち、保護していた迷子を見失ってしまったことを危惧した。妻は間髪をいれず、今宵最寄りの駐在所から境内へ出張して来ている巡査を頼ろうと思った。たとえ不自然なお節介に思われても、我が子の失踪と同じように感じていた。

 児女の行方を捜して四顧する先に、幕を垂れた芝居小屋の楽屋口へと駆けてゆく、燈心蜻蛉の浴衣の後ろ姿が見えた。垂れ幕の前には、おしろい焼けで老けて見える女が立っている。妻から見ると、女はわきまえもなく島田に振袖というなりで婆娑羅に映った。それでも、児女は女の帯にむしゃぶりついた。児女の後ろ姿を見つめる彼女には、不思議にも、児女の安心しきった表情が見えていた。

「なんだ、旅芝居のところの娘だったのか。親元に帰れてよかった」

と夫はつぶやいた。

「ええ、よかったんだわ」

 妻は当然のことをわざとやや大きい声で言っていた。この声が聞こえ、千早町の金物問屋夫婦はただ迷子の帰還という喜ばしいできごとだけを認識した。奥さんは、

「山室さんも、もうお帰りになりますの」

と再度聞いた。

「ええ、そのつもりです。行きましょうか」

 夫はそう答え、六人は鳥居へと踵を回らすことなく、拝殿わきの柃などの常緑低木が頭上にせり出す近道を歩き出した。

 金物問屋家族と歩く道すがら、夫は妻に、

「マッチがあるなら、さっき買った線香花火でもどうだ。愛染川なら火の心配もないだろう」

と問い掛けた。しかし妻は、

「いったん、家に帰ってから考えましょう。すぐ使ってしまうのは、不躾だわ。それに、なぜかしら、できることならこれは取って置きたいの」

と、にこやかに囁いた。そして青い鳥のマッチ箱を丁重に持ち、見澄ましてから大事そうに懐に仕舞った。今や懐中の湿気を慮ることはすっかり忘れている。

 はからずも、夏の夜半は、更たけるにつれておもむろに爽やいでいった。


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【小説】夏は夜、こころはみなも 紀瀬川 沙 @Kisegawa

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