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黒山の人だかりの向こうに、縋搏風が見え隠れしてきた。杉と公孫樹の樹々に吊された、一夜限りの行燈は煌々と縁日の境内を照らしている。参拝客は、自ら夏越しの祓を行うように丹念に祈りをささげているので、拝殿前の混雑は尋常ではない。社の全景が露わになってからも、夫婦は足止めを食って順番を待った。夫はこの間に、暇潰しがてら環境を思索しようと試みていた。
平生、東雲神社を荒びと頽唐のほしいままにして顧みず、無明長夜の浮世を謳歌している俗人が、今宵境内に押し寄せて社の夜を燦燦たらしめている。そして自分もまた、彼等と同じだ。とすると、やはり自分も、こうした高尚ぶった考えをめぐらす資格はないのであろう。
夫がここまで考えて顔に自らを嗤う気色を浮かべた時、さらには時を同じくして、黙り込んだ夫を見かねた妻がまさに話頭を投じようとした時、夫のほうを向いている石女の袖を、一人の児女が引いて
「お母さん」と呼び掛けた。
この声に妻はびっくりしてしまい、自らの袖を引く児女を、目を見張りながら見て、片時言葉に詰まってしまった。よりによって自分にかような呼び掛けがなされたことに驚嘆し、迫りくる水のわななきを必死になって抑えようとした。
児女のほうはその心理を知る由もなく、ただ自分の呼び掛けに振り返った顔がまことの母とは異なっており、母よりも遥かに美しき芙蓉の容であったので、幼いながらにばつの悪さを感じて黙りこくってしまった。
二人の媛の間で、玉響にすべての音が消え去った。
すると忽然、夫の、そのか細い体躯には似つかないほどに野太い声がした。
「何だ。人違いだろう、あっちへ行きなさい」
強い口調と矛盾して、彼の目には憐愍の色が滲んでいた。鋭敏な妻を守るために無理をしているのが、傍目にもわかった。
紺青の燈心蜻蛉が飛ぶ白い浴衣の児女は、依然むっつりとして動かなかった。児女は、肉質な可愛い素足で履く下駄の、朱い鼻緒を見つめ続けていた。児女が黙然としていじくる、風鈴を擬した子供だましの玩具が、片や露店の風車は一回転だにしないのに、くしくも玲瓏な音を奏でた。
小康を得た妻は、その音色に聞き覚えがあるような気がしていた。
この時の妻には、去年の夏、宝町の産婦人科病院から帰ったあと独り濡れ縁で涙のうちに聞いた音色が思い出されていた。去年の夏のあの日以来、妻は不妊を治す目的で三年間通った医院へもう足を向けることはなくなっていた。
「大丈夫だから、親御さんが見つかるまで、お世話してあげましょう。今日のような日は特に物騒だもの」
妻は黙って立ちすくむ児女を見かね、夫と自分と双方に対して言い聞かせでもするかのような口調で言った。
「しかし、お前が」
子供と接する際の妻の心理を慮り、夫はためらいがちに言った。
彼がこう言うのも、子供に対する慈愛と猜忌とが相剋し呵責される妻の脆い心を心配してのことだった。以前、ある秋の日の夕暮れに、彼女は辻で遊ぶ近所の子供達に発作的に小石を投げたことがあった。当座は釈明して回る夫の尽力で大事にならずに済んだが、それ以降、二人とも臆病であったために原因や動機というものうっちゃって、今に至っていた。爾来、彼は妻を労るとともに、彼女と子供との接触を、可能な限り忌避することに努めてきた。
「大丈夫、わたしは」
こう言う妻は、今は神色自若と見え、夫は自分の腐心が杞憂たればと思った。三人は人混みの中を無言のうちに歩き出した。夏祭りの喧騒と情緒とが、三人の代わりに物を言っていた。
そのうちに拝殿が間近になり、社前の石灯籠やその下の葉隠れの桔梗、さらには拝殿を蔽うように伸びる槐や孟宗竹の鬱葱たる茂林も見えてきた。三人は拝殿に到る五段の石階を登りきり、毳立っている鈴綱の前に立った。
「はい、これを」
鈴を鳴らす前に、あらかじめ妻は蝦蟇口から銭貨を取り出して夫と児女に渡した。その声は、どちらに向かって言ったともはっきりしないような響きだった。夫は黙って受け取ったが、夫婦の間からは、楓のような手のひらとともに、
「ありがとう」
という声が風に乗って聞こえた。それは、まことの母が見つかるまでの束の間、自分の庇護者に対して礼を尽くしただけであるのかもしれない。しかし妻は児女が応じてくれたことが嬉しく、その手のひらに銭貨を丁寧に置き、両の手でつつみながら握らせた。
三人は鈴綱を掴んだ。夜空から順に、縋搏風、梁、鈴、夫の手、妻の手、児女の手があった。
平時の月参りでは、乾燥し散漫に聞こえていた鈴の音が、この時ばかりは潤沢として妻の耳に響いた。いつもの彼女なら、後方に肉薄してくる他人を過剰に意識してしまい、参拝も中々に慌ててしまうところだったが、今の彼女はあえて遅々として礼拝に及んだ。なぜなら、かたわらの児女が自分の見よう見まねで一こま遅れの二拝二拍手一礼をしていることに気がついていたからである。
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