【小説】夏は夜、こころはみなも

紀瀬川 沙

1

 夕べになって朱夏の烈日は西の山並みへと沈みかけていて、残んの暑気だけをその面影となしている。昼のうちに疲労した人々は、はびこる霍乱に逡巡することもなく、楽しそうに東雲神社の境内に集まってきた。

 この神社の歴史は古く、濫觴をたずねると素戔嗚尊の名が見える。もっとも、一の鳥居を入ってすぐに見えてくる石碑の、宝暦年間の篆書とされる由緒書きに関して真偽を如何することは野暮である。今日確固として言えるのは、瑞垣のいびつな環にかたどられた境内は狭く、そこに鳥居・手水舎・左右の帷舎・石畳・社が配置され、隈なく鎮守の森に蔽われていることぐらいである。

 そして、縁日である今日に限って、瑞垣の外縁から境内まで露店がひしめき、この日を幾日も前から待っていた老若男女が寄せ掛けて、まだ薄暮であるというのにさながら境内は芋を洗ったような賑わいとなっている。同様に参道も混み合っていて、蟻が熊野詣でをしているような様相である。

 時に、とある夫婦が人の流れに沿って明神鳥居の下へと到来し、そこで流れを袖にした。

「あら、綺麗、見て。人に踏まれたらいけないわ」

と、妻は鳥居の亀腹に菅に埋もれながら咲く常夏を指してつぶやいた。彼女がたたえた表情もまた、凛として、かつ純真であった。

 そして彼女の声は、四方の囂しき香具師の売口上、ならびに祭客のおしゃべりにもかかわらず、透き徹って夫の耳に届いた。ただ、夫になすすべはなかった。あまつさえ彼は、二人の足下に咲く可憐な花の名を知らなかった。彼はその花が可憐であることは辛うじて理解したが、それだけであった。

「ああ、うん」

 彼は同意の返事か、窮厄のうなりか判別できない声を発して天を仰いだ。彼の目には暮鴉が映っている。

「ほととぎすだわ。からすに追われなければよいけれど」

 妻は、夫の目に映る暮鴉の遙か後方を一羽きりで飛ぶ杜鵑を指して、嘆声を上げた。今度は果たして夫に聞こえたであろうか。それは分からない。

 宵闇も迫り、人の出はさらに膨大なものとなってきた。

 見世物小屋からは大音響が漏れ出して、啖呵売や三寸は鰐口に泡を生じさせながら稼業に勤しんでいる。このような喧々囂々たる環境の中で、夫に妻の声が届いたかどうかはもとより定かではない。とにかく、常夏の次には杜鵑を案じた妻に、夫が返事をしなかったことだけは確かであった。妻のほうは、二人が同じ願いを共有していることを疑わず、杜鵑がもたらした僥倖に感謝していた。

「それじゃあ、ひやかしがてら、お参りして帰ろうか」

 そう言って背を向けた夫に追いつこうとして、妻は駆け足になった。その勢い余って、下駄と足の狭間に跳び込んだ砂利を強く踏みつけてしまった。砂利は容赦なく痛覚を刺激したが、彼女は顔をゆがめないように努めながら、駆け足がやがて行歩になった。

 夫は、このような背後における撫子の可憐を知る由もない。彼は、先刻見た印象的な紫苑色を思い出していた。それは斜陽と山並みが織りなした色彩であり、杜鵑越しに見えた山際がこの色を呈していた。そのことを、妻のほうは知る由もない。

 両人は参道をたどる祭客の黒い川へと溶けていった。

「五八十は四六のガマだ。四六のガマ」

 境内のどこか遠くから、威勢のいいせりふの断片と続いて沸き起こる人々の歓声が聞こえてきた。夏祭りはいよいよその風情を増してきた。

「そういえば、軒下の風鈴を落として、ひびが入ってしまって。新しいのに取り替えたいと思ってたの」

 妻は、露店で南風が鳴らした風鈴を、見るというより聞いてこぼした。いかにも胡散臭い露天商が黒ずんだ手でかかげた風鈴は、江戸風鈴のまがい物なりとも、南風を受けて雅めいていた。

「そうか、だがひびの入った音もまた風流で乙さ」

 そう言って、夫は風鈴の音が招く涼を納れて、見世棚を俯瞰した。すると、撚りが甘そうだが湿気はなさそうな線香花火が彼の目にとまった。彼は咄嗟に手を伸ばし、

「親爺、これを一つくれ」と言った。

 脈がないと思いかかげていた風鈴を木枠に戻していた露天商が、あわてた素振りも見せずに、

「あいよ、百円だよ」と答えた。無論、場慣れした弥四は吹っ掛けてきているのだが、超然たる両人は気にも留めていない。夫の石部金吉は夏着の懐中をまさぐったが、その懐は空貝だった。

「おい、蝦蟇口を持ってないか」

と彼は妻に聞いた。妻は微笑んで蝦蟇口を渡したが、くだんの風鈴もついでに買って欲しいということは、喉元まで出かかって呑みくだした。

 妻は夫から線香花火を受け取ると、湿気を避けるために自らの汗ばんだ肌に近い懐へは収めずに、指でしっかりとつかんだ。二人がそぞろ左見右見しながら境内を拝殿へと進むと、溶けた飴の芳香が鼻を掠めた。夫婦が夏祭りの光景を存分に堪能していると、社へ向かって流れていた人々の川が急に委蛇しているのに気がついた。

 二人にはそこに到ってすぐ、流れの委蛇たる理由がわかった。まず見えたのは、乞丐の人であった。その座前に置いた、欠けた茶碗にはいくばくかの銭貨が入っている。しかし、それよりも何よりも、饐えたような臭いが行人の鼻をつんざいて、二人も居たたまれなくなった。

 ようやく通過したと思うところに、今度は、戦の廃兵と思しき楽団が手風琴や太鼓をやかましく鳴らしながら、真ん中の一人が彼等自身の勲功を叫んでいる。それは、ややもすると行人につかみかからんとする勢いであって、妻はこれを恐れて夫の陰に隠れた。だが妻は心の中ではひそかに、彼等をして自らを呼ばしめて曰くの、醜の御楯に対して敬意を表していた。

「まったく、けしからん。正真正銘の廃兵ならば、方面や部隊名をきちんと明らかにしたらよかろうに」

と、夫は懐疑的にこぼしたが、すぐさま彼の興味は他所より聞こえてきた一節に奪われた。

「この釣船の三婦が尻持った達引―」

 並木千柳・三好松洛・竹田小出雲の浄瑠璃『夏祭浪花鑑』を、どこぞのどさ回りが演じている声だった。彼はその芝居を観たいと思ったが、ちょうど妻がかたわらで咳いたので、その場では止まらずに拝殿へ歩を進めることにした。妻は先週来、夏負けの様態で、時折咳をしている。

 次いで、椚の木の下にすすけた万年筆を並べ、号泣しながら売っている商人を、二人は横目に見た。妻のほうはそこを通り過ぎたあともなお、学生のようななりをしたかの商人に対し気を揉んで、気の毒そうに何度も顧みた。

「あれは、泣く芝居をして人の情けを乞うてから、粗悪な品を売りつけるものだからだまされるんじゃない」

 振り返っていたため石畳の一片につまづいた妻に、たしなめるように夫は言った。

「それでも、一本ぐらい、あなたの文筆用にもなるでしょう」

と、懲りずに言うお人よしの妻を見て、夫は破顔してこう言った。

「よい、と言うに」

 この一言以降、妻は大人しくその口をつぐんだ。

 日はとっぷりと暮れて、お祭りはなお、いっそう殷賑を極めて、活況を呈し続けていた。

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