side-B


 私の住むその星はいつしか薄い雲に覆われていた。空の天蓋を傘のように白い雲がどこまでも果てなく広がっている、そんなセカイ。薄い雲の先に、僅かに日輪の運行が見えた。


 けれどそれだけだった。弱々しい日の光の下で人も動物も植物も弱々しく生まれ、育っては死んでいった。




 霞の時。




 狭間の時間。




 照ることのない太陽。太陽という名すら忘れられた、そんな時代。




 雲を作っているのは、この星のあちこちに立てられた空高くそびえる巨塔。いつしか誰もがそれなしに生きることは出来なくなっていた。けれどもあの塔の先端には光が輝いていると、それはまるで天国のようだと、みんなが口をそろえて言うようになった。だって挑んだ者は帰ることはなかったから。決して帰ることはなかったから。そうしてまた一人の少年が挑む。塔の先、曇れるセカイのハレマを求めて。




 だからこの話はここに住む誰にとってもありきたりな話だ。この星にまき散らされた、ありきたりの神話。自分は頑健だと信じ、陽光を隠す塔を純粋に憎んだ、とある少年、あるいは少女の物語。特筆すべきことがらなど本当に何一つ無かった。実際彼等は誰一人帰ってこなかったし、それからも塔はヒザシを隠し続けた。彼等がいなくなったことで、セカイは何一つ変わりはしなかった。




「君は“それでも”を信じるかい?」




 けれども少年は笑って旅だった。賢しい大人たちのたしなめを聞くことを無く塔へと登った。どこか無邪気に。どこか楽しそうに。そうして“それでも”だけが残された。それはひどく美しくて誰にも触れられないような、そんな気がした。




 塔を見上げる。次は私の番だ。きっと私の番だろう。塔を見上げる。




 塔は無言でそびえ立つ。生まれてから死ぬまでを見守る、神のように。




 また実際にも神だった。いまや彼等は塔が生み出す雲がヒザシを遮ってくれなくては生きていられないほど衰弱していたからだ。私たちのうちで知恵あるものは塔に登る代わりに集められた古代の本やデータを読むことでそれを知っていたし、塔へ登りたがる少年や少女達にとってはそんな大人たちによって何度も聞き古された言葉だった。




「君は“それでも”を信じるかい?」




 けれどもその少年は言った。私はそれを信じたくもあった。信じるには、塔を登るしかなかった。丹念な準備をして足を踏み入れる。広大な塔のその一本。中は見知らぬ金属や機械で出来ていた。




 螺旋階段を上ってゆく。時に休み時に眠りながら。やがて空気が苦しくなった。大気が寒冷になった。ところどころ私たちの成れの果て――死骸を見つけた。けれども誰ひとり道を諦めることはなかった。上へ上へ。みんながそれを目指していた。




 あの少年の死骸も見つけた。少年はたどり着けなかったのか。私も死にそうだった。それでも登り続ける。何のために。




「無意味なことは止めようよ」




 私の中の賢しい部分が言った。けれども諦めたくはなかった。戻りたくはなかった。




 プツン。




 意識が途切れる。あやふやになる。私もたどり着けないのか。けれどもあと少し。あと少しのような気がする。それは夢か幻か。みんながそう願って上を目指したことはわかる。死に際になってわかる。時に何事かを止めることより続けることの方が容易いのだと。その行く先が死に向かっていても。そうしてみんな手遅れになる。私もそうだった。




 倒れ伏す。




 もう一歩も動けそうもない。心臓も呼吸も激しくなっているのに、それが命の脈動へと結びつかない。空回りしている。ここまでか。私は目を閉じる。




 天国を見たかったな。かつて太陽と呼ばれたものを見たかったな。ヒザシというものを浴びたかったな。記憶は途絶え、暗闇が私を覆った。真っ暗の思考の中私が思うことは。




 ヒザシ、ヒザシ。ヒザシを浴びるには。




 そこで思いつく。死にかけた私が見た壮大な計画。この塔そのものを壊して雲を希薄にさせる。そうすればいつかみんながヒザシを浴びることができるだろう。




 けれども私には無理なようだ。最後の力でそれを書き記しておくからここまで辿り着いた人は生きて戻ってそれを実行してほしい。それが私の最後の願い。天国へたどり着けなかった、私の願い。わがままでお節介な私の祈り。それだけを残して私の意識は闇に飲まれた。




――――。




“了解。実行します”




 それは私の中に生まれた初めての願い。“私”は少女の手記を地上へと届ける。いつかその最後の意志が後継の手の者によって実行されることを願って。






 それから長い時。本当に長い時が流れた。






「……」




 視覚を狭く保つ。沢山保管されている自己の中から保存状態の良い一個の個体に自己を集中させる。これからはこの個体が主となる。その他全てを従へ。もっとも従なしに主は保てないのだけれど。それはここでは余計なこと。ただ言えることは私のセカイは所々赤く染まっていた。それは塔があちこちで機能停止している証。




 あちこちで塔が壊されている。という報告を受けたのは私にとって喜びだった。あのときからずっとその時を待ち望んでいたのだから。自分が壊されるのを待っていたのだから。




 私は塔の集合意識。人や動物や植物をこの霞でまやかし続けてきた存在。でも嬉しいのだ。壊されることが。そう、いつかまた生き物がこの雲を払って力強く、ヒザシの中を生き続けることを望んでいた。まるで繭を破って羽化するように。




 そのために少し事象をいじったこともあった。だいぶ前に遡ることだがとある少女の遺骸を機械を使って階下に運んだ。人目に付きやすいように。なんでそんなことをしたのか自分でも不思議だった。少し考える。




 きっとそのころにはすでに自分は自分であることに飽き飽きしていたのだろう。そう結論づけた。本当にそれで満足してしまった。




 天国は行くものではなく作るものだ。昔の彼等はそう信じて私を作り、今の私はそう信じて自ら壊れる。また天国へ行くものも限られている。あの彼等の言うヒザシを浴びて無事に生きていられるものは人も動物も植物もさほど多くないだろう。それを思うと少し私の心は皮相に歪む。けれどもそこにとある言葉が降ってきた。




「だからこその雲なのだよ。人びとや生き物に徐々に強くなる陽光に慣れる時間を与えるための」




 ああ、いにしえの博士。貴方の言い分は正しかった。人びとは力強く、そしてゆっくりと時間をかけて私を壊してゆきます。私の視界がまた少し、赤く染まる。セカイはゆっくりと、ほんとうにゆっくりと新たなる段階へと向かおうとしていた。




 願わくば、それに混じりたいのだけれど。




 それは新たに生まれた欲望だった。けれど叶わぬことだった。自己の破壊とセカイの再生は結びつきすぎている。だから私はそれに混じれそうもない。それがひどく残念で、唯一の心残りだった。




 それからまた長い長い年月が流れた。




 今日もまた塔が破壊された。後一本塔が壊れればもう私の意識は保てなくなるだろう。あの階下に運んだ少女のように、私の意識が途切れるときが来た。それはひどく長い年月のように思えたし、あっという間の出来事の様にも思えた。




 ヒザシが地上に差すのを見たかったな。ハレマが地上から見えるのを眺めたかったな。




 それは叶わぬ願い。塔はまたあちこちで壊され続けている。そうして一本。また機能が停止する。だからおしまい。私はおしまい。




 悲しくはない。ただ未練だけがあった。この星に愛着があった。ずっとこの星をまやかし続けてきた自分なのに、それは奇妙な願いだろうか。




 やがて、陽光が顔を出すだろう。きっとヒザシが地上に再び差す。青空もセカイに戻る。切れた雲の向こうにハレマが見えると思う。




 それを夢見て私は眠る。起きることはないだろう。機械に奇蹟など馬鹿げている。そうして私は眠り、あたりは静寂に包まれた。




――――。




「わかった。あなたの意志は私たちが叶えよう」




 それは私たちの中で芽生えた願い。ずっと私たちを守ってくれていたあなたへ対する精一杯の感謝。




 私たちみんなで一斉に火を灯す。白い煙がもうもうと上がる。集まっていた私たちはそれを見て歓喜の声を上げた。それはどこか懐かしく、古くさい光景。煙は低く立ち上りそこでたなびく。みなその下へと入りたがった。




 私たちの住むこの星はハレマで満ちていた。星を囲む白い雲はもう疾うに消え去っていた。塔があったという記憶さえ薄れかけていた。




 けれども人は時に雲の下へと戻りたがる。かつて人間が機械の力を持ってそうしたように。




 神の似姿を模した私たちは言葉を紡ぐ、唱和する。神の似姿はかつてこの地上に新たな希望をもたらした少女の姿だ。そして言葉はこの星を守り続けていた機械の神のものだった。神の言葉はデータとなり拾われて一冊の本になっていた。そのなかから一節を私たちで唱和する。




 人と機械が織りなした希望は、祝祭となって続いてゆく。“それでも”を信じたものたちの手によって。

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曇れるセカイのハレマ 陋巷の一翁 @remono1889

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