第 3 話 現在 〜初恋の君へ〜

こんな気持ちになれるなんて


私の人生で 一番の奇跡


雲一つない青空に 太陽が眩しい


これが夢だって 驚かない




 俺は野原に寝転がり、空を見上げる。柔らかい風が目の前を通り抜け、若葉が目立ち始めた杉の木が音を立てて揺れている。

 近くでは、空き地で小学生が野球をしていた。何度か、軽快な球を打つ音が聞こえる。

 ここは、時並町と呼ばれる町の真ん中にある、杉の木が目印の公園だ。朝や昼間は体操をするじいさんばあさん、子供たちで賑わう。


 耳からは、カーペンターズのトップオブザワールドが流れている。

 いい曲なんだ、ほんと。

 この空間全てが、気持ちよかった。ここで死ねたら本望かもしれない。


 携帯を見た。時間は夕方の四時頃。そろそろ、帰ろう。


 そう思って立ち上がったとき、堤防の上から俺の名前を呼ぶ声がする。


「わっちゃん!」


 そこには、デートとして気を使ったであろう、ワンピースを着た圭夏が立っている。

 わたわたと堤防の坂を走り、小さなポシェットを揺らしてこっちに近付いてきた。俺の前まで走ってくると、膝に手をついてはあ、と息をつく。


「よかった、間に合った」


「迎えに行こうと思ったんだけど」


「だめ! 迎えに来たら」

 一際強い声色の圭夏。


「なんでだよ」


「待たせてごめんって」

 圭夏はそう言うと、冷たい腕をするりと絡ませてきた。

「ほら、早くいきましょ、和水様」


「気持ち悪い。離れろ」


「ひどーい。せっかく女の子みたいにしてあげたのに」


 確かに、今日の圭夏は今までとはだいぶ違う風貌だ。

 いつものポニーテールはそのままに、花柄のワンピースに女の子がよく持っている小さなポシェット、低くはあるが踵のあるサンダルを履いている。

 まあ、ポニーテールじゃなかったら百点かな。


「いつもそのくらいにしてくれればいいんだけどな」

 俺の知る圭夏は、部屋着に適当に纏めた髪の毛、お菓子を食べながら部屋の漫画を読み漁る姿だ。


 圭夏は俺の腕をじっと見た。

「土いじりでもしてたの?」


 俺は土の汚れのついた手を払う。

「タイムカプセル掘ってた」


 圭夏は、嬉しそうに笑った。

「今見ちゃうの、手紙」


が何を書いたか、知りたくて」


 突然俺たちがに渡された、とある手紙。開けずにもう四年経った。本当は、大人になったら開けろって言われたけれど。

 家に帰ったら、じっくり読もう。


 圭夏の腕を振り払って、俺は堤防の下から上へと歩き始める。圭夏は後ろから付いてくる。


「今日はどこ行くの?」

「別に、どこでも」

「じゃあ、結局この前行けなかったからタピろうよ」

「甘いやつ嫌いなんだよな」

「昔から嫌いだよね」

「特にシュークリームな」

「じゃあ、漫画見に行きたい」

「結局いつも通りだな」

「本当にね」


 圭夏は溌剌とした声で笑った。


 近くの百貨店に入ると、入口の冷房から涼しい風が通り抜けた。


「あー、暑かったんだろうなー、みんな」


 圭夏は気持ちよさそうに伸びをする。そんなことを言っていながら、圭夏は汗一つかいていない。まあ、当たり前なんだけど。


 百貨店の中は、かなり混んでいた。やっぱり、休日は混むようだ。親子連れから年配客まで、幅広く人がひしめきあっている。


「本屋何階だっけ」

「いい加減覚えろよ」

 ここに何年住んでると思ってんだ。十年近くは通っていたくせに。


 ため息をついたとき、誰かと肩がぶつかった。圭夏に気を取られて、よそ見をしていた。

 転びそうになった女性に、素早く手をまわして支える。よくやる動作だ。慣れてる。

「すいません、大丈夫ですか?」


 声に反応して、女は顔を上げた。

 こちらが笑うと、女はぼーっとしながら体勢を立て直す。


「わっちゃん」

 イラついたような圭夏の声が聞こえた。

「五階行くよ」

 姫が言うんだ、仕方がない。もう一度女に笑いをプレゼントしてから、俺は先を歩く圭夏を追いかけた。


「そんなイラつくなよ。いつものことだろ」


「あたし、わっちゃんの隣歩いてると、楽しいし嬉しいけど、ああいうことしてる時のわっちゃんの近くにはいたくない。気持ち悪いんだもん。どうしてそんな風に育っちゃったの」


「スマイルゼロ円」


「あんな平べったい女に売り込んだって損するだけだよ」

 圭夏はお怒りのようで、エスカレーターの上からガミガミと怒鳴ってくる。


「お前よりは胸あったよ」


 無言の鋭い腹パンが飛んで来た。


「女に顔売っときゃ、何かあったときいいんだよ」

 そう言って、少し歩調を緩める。


「ね、ねえ待って」

 ほら、来た。

 一つ階を上がったところで、声をかけられる。振り返ると、さっきの女が小走りに走ってくる。


 三十代だろうか。黒縁のメガネをかけた、ふわふわの頭の女だった。ただ、磨けば光りそう。ダイヤモンドの原石ってところか。


「お名前、伺ってもいい?」

 随分と単刀直入だ。どっかの芸能人と間違えたんだろうか。

「すいません、連れと来てるんで」

 俺が言うと、女は慌てて謝ってきた。誘うのにも慣れてない様子。


 会釈をして、圭夏の元に戻る。彼女は貧乏ゆすりで百貨店を壊しそうだ。

「わっちゃんキモい。その敬語いや」


「うるせえよ」


 圭夏はハムスターのように頬をパンパンに膨らませて抗議の意を唱えてくる。


「圭夏も、あのくらいおしとやかだといいんだけどな」


 圭夏は、生まれたときからの幼なじみだ。

 それ以上の何者でもない……と思っていたが、人生は何があるかわからない。


 こんなに愛しくて、手に入れ難い存在になってしまうなんて、思ってもみなかった。


「わっちゃん、今あたしのこと考えてた?」

 更に上るエスカレーターの上から、姫はにやにやとこちらを見ている。


「いや、別に」


 いつも、お前のことしか考えてないよ。


「わっちゃん知ってる? わっちゃんが“別に”って言うとき、嘘を隠してるときなんだよ」


 幼馴染みの言うことなんだから、間違いないんだろう。観念しました、と吐息をつくと、勝利したように圭夏は胸を張り、くすくすと笑う。

「ほんと、あたしのこと大好きだね」


 ほんと、どうしてこうなったかね。


 五階に着き、圭夏に腕を腕を引っ張られて本屋に向かう。が、圭夏の目に漫画が見えた瞬間、圭夏の姿はどこかへ消えた。

 まったく、これのどこがデートだ。


 適当に陳列棚を眺めていると、いきなり服を引っ張られた。見ると、小さな男の子だ。


「お兄ちゃん、あれ取って」


 そう言われて男の子の指差す方を見ると、小さい子向けの本がずらりと並ぶ本棚だった。


「どれ?」


 俺が訊くと、男の子は服の袖を引っ張って俺を誘導していく。されるがままに連れていかれると、男の子は背伸びをして高い所にある本を指差す。


「あれ。『電車のせかい』ってやつ」


 男の子の指す本は、一番上の棚に置いてあった。子供の本が、なんでこんな上に置いてあるんだ。


「これ?」


 指していたであろう本を取ってやると、男の子は笑顔でうなずき、その本を受けとった。

 ありがとう! と、男の子は、どこかにいたらしいお母さんの元へと走っていく。今の状況を話したのか、お母さんらしき人物が驚いたような顔を見せ、歩み寄ってきた。

「息子が、すみません」


「あ、いえ、別に本を取っただけですから」

 外用の爽やかな笑みを見せると、お母さんは頭を下げる。

「ありがとうございました」


「どうしたの、わっちゃん」

 本棚の後ろから、ひょっこりと圭夏が顔を出す。


「とんでもない。じゃあ、連れと来てるんで」

 軽く会釈をして、その場を去ろうとする。


 三十路くらいのお母さんは、どこか不思議そうな顔をして、会釈を返してきた。

 こんなのが連れで、大変申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


 圭夏の手には、何も持っていない。

「また女の人と話してたの」


「今のは、未来への徳を積んだ」


 圭夏は空返事を返してくる。


「買わないのか?」


「うん、いいや」


 俺は漫画コーナーへ行き、圭夏が好きな漫画の最新巻を手にとった。


「わっちゃん、いいよ」


「俺が読みたいんだ」

 俺はそう言って圭夏を残し、レジに向かった。


 漫画を買う任務を終え、俺たちは百貨店を後にした。

 外は、じわじわと熱気が漂っている。時刻は昼を過ぎ、立っているだけで汗ばむ陽気だ。


「うわっ、夏っぽいねー」

 軽い足取りで、スカートを広げて圭夏はくるくると回っている。


 近くの駐輪場に、自転車を停めてある。自転車の籠に漫画を放り込み、自転車に跨った。


「スカート気を付けろよ」


「下にスパッツ履いてるから大丈夫」


「それは聞きたくなかった」


 俺は圭夏が後ろに乗るのを確認すると、自転車を漕ぎ始めた。


「え、安全じゃん。こういう時」


「そういう問題じゃねえんだわ」

 後ろに乗る圭夏のパンツを他人に見られるよりはいいか。


 自転車をこぎ、川沿いの道をひたすら真っすぐに進む。百貨店を少し出れば、ビル群のない田舎道だ。後ろには立って肩に手を乗せている圭夏。

 住宅街を抜けて、電車の線路の横に続く道を走る。


 今日も蝉は、元気に合唱を続ける。


「わっちゃん」


 圭夏の声に、夢から覚めるような感覚を覚えた。


「あたしはわっちゃんか大好きだから、わっちゃんを好きになっていいんだよ」

 蝉の声に紛れてしまうほど小さな声。


 また質問モードかと思ったが、少し違うようだ。


「でもわっちゃんは、あたしを好きになったらダメなんだよ」

 小さくとも、はっきりと耳に聞こえた。


 知ってるよ。わかってるよ、お前を好きでいちゃいけないなんて。

 でももう少し、もう少しだけでもこうしていたいんだ。


「もう少しだけ」

 俺が言うと、後ろから圭夏の笑い声が聞こえる。


「ほんとにあたしのこと大好きだね」


 しょうがないだろ、大好きなんだから。

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