第 2 話 過去 〜私と大嫌いなお姉ちゃん〜

〜三十一年前〜



 椿つばきは泣いていた。

 艶やかな葉をつける椿のように、いつまでも艶やかな心でいて欲しい。という名付けを受けて、生を受けた少女、椿は、公園のブランコに一人座り、寂しく声もなく泣いていた。

 その理由は、砂場で遊ぶ椿の友達が事の発端だ。


 一緒に遊びに来ていた椿の友達、まみちゃん、ゆきちゃん、みみちゃんの三人と、最初は砂場でお山を作っていた。椿は、みんなで作るお山の隣にスコップで小さなお山も作った。


「つばきちゃんそれなあに?」

 まみちゃんは椿の作る小さな山を指差して言う。

「これは、ようせいさんのいすだよ」

 椿の作る小さな山に座っている、羽の生えた少女に退いてもらい、もう少し山を大きくしてやる。

「ようせいさんがくるの?」

 みみちゃんは目をキラキラさせて椿の山を覗き込む。


 椿はそれなりにいい椅子として作れた山に、改めて座った妖精の羽をつんつんと突つく。今日はブロンド髪の可愛らしい妖精さんだ。


「いないよ、ようせいさん」

 まみちゃんは顔をくしゃくしゃにしかめ面を見せる。

「つばきちゃんにしかみえないの?」

 ゆきちゃんは残念そうに言う。

「あたしもみたいなあ」

 みみちゃんは目をキラキラさせたまま、小さな山を眺める。


「そんなのみえない! いないよそんなの」

 まみちゃんは一掴みした砂を妖精さんの山の近くに投げつけてくる。

 妖精さんはびっくりして、空へと羽ばたいていってしまった。

「なんでそんなことゆうの?」

 椿はまみちゃんへ、不当な非難を受けた妖精の擁護を開始する。

「だって、そんな、ようせいなんて、いるわけないよ、ねえ?」

 まみちゃんは、隣にいたみみちゃんの顔を見て同意を求める。

「うん……」

 みみちゃんはちらちらと椿を見ながら同意する。

「なんかいやになっちゃうね」

 ゆきちゃんはは素直にはっきりと首を縦に振って、まみちゃんの意見に同意した。


 見事に友達を味方につけ、まみちゃんは誇らしげに胸を張って椿を見る。

 椿は何も言えず、スコップを握りしめて俯く。小さな椿にとっては、一時間ほど時が経ったように感じた。じんわりと、スコップを持つ手には汗が滲み、鉄と酸性の匂いが混ざった嫌な香りが鼻につく。


「もう、つばきちゃんをなかまはずれにして、あそぼう」

 ついにまみちゃんはそう言って、自分の山を作り始める。みみちゃんは、少し椿を気にしながら、ゆきちゃんは完全に椿を砂場からいないものとして、山づくりに参加した。


 辺りに親はいなかった。ここは、時並町の真ん中にある杉の木が目印の公園だ。

 椿たちの他には、小学生が数人、ランドセルをベンチに投げ捨てて、杉の木の周りで鬼ごっこをしている。


 椿は自分のいる砂場の圧迫感に耐え切れず、スコップを持ったまま砂場を飛び出した。そうして、今ブランコにいる。

 そうしているうちに、友達三人の間から、椿の存在を忘れたような、楽しげな笑い声が聞こえてきた。椿はスコップを強く握りしめる。


「つばちゃん?」

 顔をあげると、さくらの姿があった。小学六年生の、椿の姉だ。

「つばちゃん、お友達と遊んでるんじゃなかったの?」

 椿は、小学生にしては凛と整った姉から顔を背ける。そして、またスコップをぎゅっと握った。


 桜は砂場の方で遊ぶ椿の友達に顔を向ける。風に吹かれて前髪を抑えるその姿は、椿には天使のように見えた。いつもいつも、お姉ちゃんは童話の中のお姫様のように可愛い。妖精さんたちも、桜の周りには三人ほどいつも飛び回っている。さっき飛び去ってしまった、ブロンドの妖精さんもいる。


 桜はくすりと笑って椿の前にしゃがみ込む。天使は優しい笑顔をしていた。

「何で泣いてるの?」

 泣いてなんかない。心でそう思えば思うほど、椿は桜の笑顔を見て、さっきまで堪えていた涙をポロポロと流した。

「まみちゃんがね、ようせいさんはいないって、ゆうから——」

 その後は、嗚咽となって言葉にならなかった。だってそこにいる妖精さんに、椅子を作ってあげていただけなのに。私はみんなと一緒にお砂場遊びがしたかっただけなのに。


 桜は、嗚咽を繰り返す椿の頭を撫でた。

「まみちゃん達には、妖精さんは見えないの?」

「うん」

「そっか。じゃあ、妖精さんはお姉ちゃんとつばちゃんの二人だけの秘密にしよ」

「でもっ、まみちゃんも、ゆきちゃんも、みみちゃんも、つばきをなかまはずれにしよって」

 小さな少女の意見を汲み取った桜は、ふむ、と口を真一文字に結び、しばし考えた。そして、天使の面にキラリと閃きが落ちてくる。妖精さんたちも、嬉しそうにハイタッチをしている。

「わかった。お姉ちゃんも一緒に行ってあげるから。一緒に遊ぼうって、言おう?」

 と、桜は手を出してきた。


 椿はその天使の細く白い、柔らかい手を見つめ、そっと桜の手をとり、一緒に砂場に向かう。

 まみちゃんたちは椿と桜に気付いて振り返った。

「あ、さくらちゃん」

 みみちゃんが言った。

「こんにちは」

 桜は笑顔で言う。そして、椿の背中をぽんと押した。

 椿はすがる思いで桜を見る。桜は、両手で拳を作り、頑張れ、とただの応援を向けてくる。

 椿がまみちゃんたちの方に顔を向き直すと、いぶかしげでもなく、嫌いな子が近付いてきたような様子もなく、興味津々な顔で、椿から発せられる言葉を待っていた。


「い、いっしょに、あそぼ、う」

 椿が言うと、まみちゃんたちは顔を見合わせる。そして、そんなことか。というような笑顔を見せた。

「いいよ。いま、おままごとやってるの。つばきちゃんはおねえちゃんでいい?」

「うん!」

「さくらちゃんは、おかあさんね!」

「え、あたしも?」

「あたしはおとうさんなの!」



 夕方になり、椿と桜はまみちゃんたちと別れて、手を繋いで家への道を歩いていた。

 途中は、犬の散歩をするお姉さんにふさふさの犬を撫でさせてもらい、意気揚々と帰路へつく。


「今日のご飯はハンバーグだって」

「おてつだいできるかな?」

「一緒にやろっか」

「うん!」


 なんでもできるお姉ちゃん。天使のようなお姉ちゃん。妖精さんからも愛される、大好きなお姉ちゃん。

 それは、家に入る一歩手前までだった。


 家に帰ると、お父さんとお母さんがリビングでお互い声を荒らげている。

「だから公立は嫌だって言ったんだ」

「今の収入で私立に入れられるわけないでしょう」

「そもそももう少し勉強させていれば」

「あなたが勉強を見るっていったじゃない」

「仕事があるんだ、勘弁しろよ」

 いつも喧嘩をしていた。それが普通だった。そして、そのお父さんとお母さんが喧嘩をしていると、必ず桜も、椿の『嫌いなお姉ちゃん』になる。


 二人が帰ってきたことも気付かずに、お互いを罵り会う夫婦にため息をついた桜は、足取り重く二階に上がる。椿はそれを追いかけた。

 二人の部屋は同じだ。

 椿は二段ベッドの自分が寝ている方に腰かけ、クッションを抱いた。桜は、自分の机の椅子に座っている。

 子供部屋の空気は最悪だった。幼い椿でもわかる。桜はかなりイラついていた。ガタガタと、机の周りの物が揺れている。彼女の足の震えだ。


「おかあさんとおとうさん、どうしてけんかしてるのかな」

 椿の声が聞こえると、桜の貧乏ゆすりが止まった。

「つばきが、もっとおべんきょうできればよかったのかな?」


 ふらりと桜は立ち上がると、椿の座るベッドの前にしゃがみこんだ。がしりと両肩を掴まれる。逃げたくても、その力の強さと桜の気迫に、椿は何も出来ない。


「つばちゃんはね、何も悪くないよ」

 肩をつかむ手に力が入り、短く切っているはずの爪がくい込んでくる。

「あたしが、もっと頑張んなきゃいけないの。つばちゃんはそのままで大丈夫。お姉ちゃんに任せてね。つばちゃんは何もしなくていいからね」


 桜の顔が椿を見据える。その顔は、公園で見た優しいお姉ちゃんの顔ではなかった。冷や汗をかき、髪も乱れ、その背は恐怖に追いかけられるような、必死の彼女の抵抗。


 椿は、このお姉ちゃんが嫌いだった。


 やっと桜から解放され、椿は目を瞑ってベッドにあるクッションをきつく抱き締めた。両肩が痛い。いつも、どこかを強く掴まれたところが、痣になっている。今日は小さな切り傷に似た痛みもあった。


 桜は、再びふらりと自分の机に向かい、何か教科書を取り出して勉強を始めた。ぶつぶつと何かを呟いている。椿にはそれが何を言っているのかわからなかった。


 妖精さんは、桜ではなく椿の周りに、羽を悲しく下ろして頬の近くに寄り添っている。


 大丈夫。


 たまに聞こえるのは、つばちゃんは大丈夫、という呟き。


 大丈夫。


 カリカリと何かを書き進める音と、桜の呟きで、部屋はいっぱいになった。

 心配そうにみつめる妖精さんの数が、椿を埋め尽くしそうなほどたくさんいた。


 大丈夫。


 お母さんとお父さんの喧嘩が終われば、お姉ちゃんは元に戻る。大好きな、お姉ちゃんに戻ってくれる。『嫌いなお姉ちゃん』じゃなくなる。


「大丈夫、つばちゃんは大丈夫」


 椿がクッションからちらりと桜の顔を覗くと、桜もふとこちらを見ていた。


「大丈夫だからね」


 桜は椿を見て笑った。

 泣きそうな目、諦めたような表情、その笑顔は、何もすることのできない無力な椿の脳裏に深く刻み込まれた。

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