第 4 話 過去 〜私の初恋〜

〜二十年前〜



 それは高校の入学式を終えた帰り道だった。


 椿は家の近くの高校に入学していた。姉の桜が卒業したところと同じ高校だ。


 家の近くの、杉の木の根元に座り込み、椿はいつものようにスケッチブックに絵を描いていた。公園で遊ぶ子供たちを観察しながら、軽いタッチでたくさん描いていく。ボールペンで、一ページから二ページを埋めたところで、いつもは家に帰っていた。


「うちの制服だ」

 突然、男子が声をかけてきた。


 見ると、すらりとした足と、端正な顔立ちの学生が、堤防の上からこちらに近付いてきている。

 椿は逃げることも出来ず、ただスケッチブックだけ急いで閉じ、鞄の中に隠した。


「後輩ちゃんかな?」

 椿が彼の少し履き潰した革靴を観察できるまで近付くと、首を傾げた。

 彼の周りには、たくさんの妖精が飛んでいる。足下や、肩、頭の上、五人ほど、妖精がいる。

 彼の着ている制服は、確かに椿の入学した学校の制服を着ている。

「多分、そうです」

 しどろもどろにしか答えられない椿を見て、先輩はにこやかに笑った。どこか、吹けば飛んでいってしまいそうな柔らかい雰囲気がある。

「じゃあ、もう知り合いだね」


 どうすることも出来なかった。ただ、逃げるのも勿体なかった。もう少し、本人も妖精なのではと錯覚するほどの彼と、同じ空間にいたいと思ってしまった。


「何か描いてたよね」

 友人の隣に座るように、さも当たり前のように彼は隣に座った。

「日課なので」

 言いながら、椿は鞄の中のスケッチブックを握りしめる。


 承認欲求と、恥ずかしさが拮抗していた。

 このまま会話を進めたら、見せることになる。今までこの絵を見た人たちは、様々な反応だった。上手いと褒めてくれるにとどまる人から、どうしてこの絵を描くのか訊いてくる人。そして妖精が見える話をしてしまえば、奇異の目で見られるのは必然だ。


「見せて見せて。俺、美術部の知り合いいるし」

 理由付けは意味がわからなかったが、椿は承認欲求に負けた。待っていたかのように、スケッチブックをするりと出して、おずおずと彼に渡す。

 彼は受け取ると、長いまつ毛をスケッチブックに落とし、ゆっくりとしなやかな手つきで捲ってゆく。


 杉の木の下で、淡い風に吹かれながら絵を鑑賞する姿は、それこそ絵になった。このまま、額縁をはめ込んで展示すれば、大賞を取れそうなほどに。


「あ、俺の名前は亮太。清水亮太です」

 目はスケッチブックにあるまま、彼は答えた。

 妖精も、スケッチブックに腰かけたり、うっとりと彼を眺めていたりする。

「白澤椿です」

 亮太先輩は好きなアニメが始まる前の子供のような、無邪気な笑顔でこちらに顔をあげた。

「お花の名前がついてる子って、覚えやすくていいよね」

 と、また亮太先輩はスケッチブックに、目を落とす。


 暖かい陽気がふわりと二人を包み込む。遠くで遊ぶ子供たちの声も、今は小鳥の囀りのように小気味よく聴こえた。

 ずっとこのまま、自分の絵を見てくれる美しい青年を見たまま、時を過ごしたい。そう思うほど、彼の隣にいるのは居心地が良かった。


「妖精が好きなの?」

 最後のページまでじっくりと見終わると、亮太先輩はゆっくりとスケッチブックを閉じて返してきた。

 柔らかい笑顔は、決して椿を見下すような顔ではない。純粋な、彼の疑問のように聞こえた。

「いや、好きなわけでもないですけど……」

 実際、別にこの妖精達が好きな訳では無い。この子達のせいで、今まで悪いことの方が多かったように思う。

「見たもの描いてるだけだし」

 つと言葉が口から出たのに、椿はしまったと口を噤んだ。

 返事のない亮太先輩を、恐る恐る前髪から覗く。


 せっかく、雰囲気良く一緒にいれたのに。これでもう、終わりかもしれない。今まで浴びてきた、眉をしかめ、椿を可哀想と思い、見てくる蔑んだ目。あれと同じ顔をした、亮太先輩の顔は見たくない。

 彼は、何も聞こえなかったのかと思うほど、先程と同じく柔らかくにこやかな笑顔を見せる。

 聞こえていなかったんだ、と椿はほっと胸を撫で下ろした。なんて言ったのか、わからなかったんだろう。


「すごいね、妖精見えるんだ」

 ピアノ習ってるんだ。と同じテンションで亮太先輩は言葉を吐いた。

 椿は亮太先輩から出て欲しくなかった単語を聞き、硬直する。

 ああ、終わった。

 一度ほっとさせてから落とすなんて、亮太先輩は悪趣味だ。


 ふふ、と亮太先輩は含み笑いを漏らした。

「そんな固まらないでよ。素敵なことじゃない。なかなか見えないよ、妖精なんて」

「先輩も見えるんですか」

 椿の言葉に、軽快に笑った亮太先輩を見て、早とちりをしたと後悔する。

「俺は見えないけどさ」

 亮太先輩は涼しげな顔で、まるで彼の鼻先で飛び回る妖精が本当に見えているかのように遠くを見て口角を上げている。


「妖精ちゃんは、素敵な感性を持ってるんだね」

「妖精ちゃん?」

「妖精が見えるから、妖精ちゃん。可愛いでしょ」

 白い歯を見せて笑う亮太先輩。


 春の暖かな杉の木の下で、椿は初めて心臓が高鳴るのを感じた。微風そよかぜに揺れる髪を、柔らかな肌を、微笑みを浮かべる目を、椿は目に焼き付ける。彼の声を、「妖精ちゃん」と何の他意もなく呼んでくれる、その声をいつまでも聴いていたい。

 彼の周りの妖精たちも、祝福するように椿の周りを踊っていた。


 高校に入って知ったことは、亮太先輩は学校でも有名人だった。

 女の子分け隔てなく優しくて、ふわふわしてて、クラス、学年、関係なく、毎日のように、隣を歩く女の子が変わっている。

 彼女を作らなくても、周りから女性が絶えない人を、初めて見た。

 そんな亮太先輩でも、たまに杉の木に会いにきてくれた。


「あ、今日もいるね、妖精ちゃん」

 椿のことを妖精ちゃんと呼び、椿が絵を描く姿を眺める。


 様々な彼女を送っているのか、椿が杉の木から見上げると、堤防を女子と肩を並べて歩く姿もよく見かけた。今まで、絵を描きに行っていた杉の木が、亮太先輩に会える場所になっている。

 時折、その隣の女子と別れて、こうして杉の木にいる椿の元に来てくれる。その時の別れた女子の目が椿をじっと見ていることもわかったが、亮太先輩が来てくれることに浮かれていた。

 そんな嫉妬をする女子のことは知らない。その瞬間、亮太先輩が選んでくれたのは椿なのだ。


 蝉がうるさく鳴く季節になっても、亮太先輩は会いに来てくれた。

 じわじわと、日陰である杉の木の下にいるだけでも、服の下が汗ばんでくる。


「先輩は、絵描かないんですか」

「妖精ちゃんみたいに、妖精見えないからなー」

 椿はくすりと笑う。

「妖精じゃなくてもいいんですよ」


 こんなに、妖精について話せる人がいなかった。亮太先輩は高校の知り合いの中で、妖精について話せる唯一の人だった。

 妖精の存在を知っていた姉の桜とは、もう妖精の話はしていない。桜からは、今はもう見えないのか、街ゆくあの人には見えるか、よくたずねられるが、もう見えないと伝えていた。実際には、小さい頃と変わらずに見えている。

 心配をさせたら、また椿の嫌いなお姉ちゃんが出てきそうで。


「俺、絵下手くそだよ」

 と言って、顔を近づけて来る。椿が硬直すると、亮太先輩は椿の手を上から包み込み、椿の手と共に、スケッチブックにさらさらと絵を描いていった。

 じんわりと、亮太先輩の手の汗が、自分の肌に浸透していく。薄い香水の匂いが、鼻をくすぐる。細いさらさらの髪が、椿の目にかかりそうだった。視界が、嗅覚が、触覚が、毎日想像してはあり得ないと思っていたものが突然実現して、心臓の鳴る音が、耳で響く。彼に聞こえてしまうのではと考えるほど、頭がくらくらした。


「ほら」

 描き終えると、さっと椿から離れる。

 スケッチブックに残されているのは、幼稚園生が描きそうな、四本の足が直列に並んだ犬だ。

「好きです」

 亮太先輩は跳ねるように笑う。

「綺麗な絵描く子に、こんなの好きって言ってもらえるなんて嬉しいよ」


 言い始めてしまったことを塗り替えることはできなかった。もう、伝えなければ心がもたなかった。溢れてしまう言葉は、止められない。


 椿は首を横に振った。

「先輩のことが、好きです」


 亮太先輩はしばし椿を見つめると、ふわりを微笑んだ。

 今、この瞬間で時が止まればいいのに。この先の返答を聞かずに、過ごせればいいのに。聞いてしまったら、もう亮太先輩を見ることはできなくなってしまいそうで。


「今日、一緒に帰ろっか」

 亮太先輩の言葉は、思わぬ返答だった。

 夢でも見ているかのようだった。


 亮太先輩は椿の妖精の絵が完成するのを待ち、椿がスケッチブックを閉めるのを見届けると、ゆらりと立ち上がった。

「家どっち?」

「学校方向です」

「あー、俺と反対方向か。じゃあ送るよ」


 先輩との帰り道、軽快に会話を続けながら、亮太先輩はずっと椿の肩に腕を回していた。

 今は夏で、暑くて、でも離れたくなくて、でも自分の汗の匂いが気になった。椿は少し距離を離そうと歩幅を変えてみるが、亮太先輩は思った以上の力で、椿が離れるのを許さなかった。

 それだけでも椿は嬉しくて、暑くて火照ほてっているのか、恥ずかしさで火照ほてっているのかわからなかった。


 コンビニの前に来ると、亮太先輩は立ち止まった。

「妖精ちゃん、アイス買おう」

 椿の問答を聞かず、亮太先輩は椿の手を引いてコンビニに入っていく。

 涼しい冷房の風を感じ、アイスコーナーへ向かう。

「やっぱこれだよね」

 と、亮太先輩は棒アイスを一本、コーナーから持ち上げる。

 椿も同じアイスの別の味を持ち上げると、亮太先輩に奪われ、レジに持っていかれた。


 コンビニから出て、棒アイスを二本買い、歩きながら食べる。

「こういう素朴なソーダ味って美味しいよね」

 先輩はソーダ、椿はグレープ味を食べている。

「すっきりしますよね」

「食べる?」

 清水先輩は食べかけで溶け出したアイスをこちらに向けてくる。

「いえ、大丈夫です」

 先輩の物に口をつけに行くなんて、そんな勇気はない。


 突然、清水先輩は立ち止まった。こちらに顔を向けると、すっと顔を近づけて来る。また、薄く甘い香水の香りが香る。

 冷たく、柔らかいものが唇に触れると、口に、ぬるりと何かが入ってきた。

「ふむ、グレープも美味しいね」

 亮太先輩は歩き出した。


 椿は、初めてのソーダの味を確かめる。頭の先から、湯気が出そうなほど、体内の暑さが沸点に達しそうだった。

「ソーダ美味しかった?」

 振り返り、にやりと笑う亮太先輩。


「初めてでした」

 ふふ、と笑う亮太先輩はアイスを食べ終えた棒を口で弄んでいる。

「妖精ちゃんほんとに可愛いな。ご馳走様でした」

 軽やかな亮太先輩の言葉は、蝉の叫声によって夏の空に消えた。


 いつの間にか、椿の家に着いていた。

「ここ、です」

「わー、おっきい家」

 額に汗の滲む先輩は、椿の肩から腕を離した。まだ、この妖精のような人と、もっと一緒にいたい。この腕を、まだ離して欲しくない。

「あの、冷たい物飲んでいきますか」

 清水先輩は額の汗を拭った。

「いいの、ありがと。暑くて死んじゃうとこだった」


 鍵を開けて中に入ると、リビングの方から足音が聞こえてきた。両親は会社だ。ということは——。

「あら、おかえり」

 桜だった。白いワンピースの部屋着を着た桜が、顔を出した。


「妖精ちゃんのお姉さん? こんにちは」

 亮太先輩は、桜と初対面の男の人の反応はしなかった。桜と同じカーストの人だからだろうか、女の人に困らない人だからだろうか。

 だいたいは、桜を見て男性は鼻の下を伸ばしたり、彼女の美しさに挙動不審におちいる。


 桜の眉が、ぴくりと動いたことに椿は気付かなかった。


「学校の、先輩」

 まだ返事もらったわけではないし、彼氏だって言えないことが悲しい。

「清水亮太です」

 亮太先輩がそう言うと、桜は頭から爪先までじっくりと亮太先輩を眺めると、にこやかに笑った。

「知ってるわ。よく、隣の彼女が変わってるって有名だったわよね。椿がお世話になってます。ゆっくりしていって」

 と、リビングに消えていった。


「俺のこと知ってた。あれは嫌われちゃったかな」

 亮太先輩は目をぱちぱちとしばたかせる。

「姉、うちの高校の卒業生なので、先輩知ってるのかもです」

「そっかー。俺のことすっごい見てた。妖精ちゃんが心配で大好きなんだね」


 部屋に先輩を入れると、亮太先輩はベッドに座った。

 ぐるりと部屋を見回されるのが、恥ずかしい。

「部屋に妖精の絵はないんだね」

「家族を心配させたくないんで」

 椿は先輩に歯を見せ、鞄を置いて部屋を出ようとする。

「どこ行くの?」

 そう訊かれて、少し嬉しかった。

「お茶、いれてきます。喉渇きましたよね?」

「うん。ありがと」


 ドアを後ろ手で絞め、ドアの前でつまっていた息を吐き出した。心臓の音が止まらない。鼓動が早すぎて、息が止まりそうだ。ちゃんとしなきゃ。

 椿がリビングに入ったとき、椿の部屋に桜が入っていくことに、気付かなかった。亮太先輩が、家に来てくれたことで浮かれていた。


 キッチンで麦茶を二つのコップに入れて、部屋に戻ろうとした。

 部屋のドアが、少し開いている。さっき、出るときはちゃんと閉めたはずだ。

「ねえ、亮太くん」

 部屋から、桜の声が聞こえる。甘く囁くような声。

 やっと落ち着いてきた心臓が、また体の中で響き始めた。

 椿は部屋へ入ることなく、コップを床に置いて、そっと隙間から中を覗く。考えたくはない。けど、こんな行動をとること自体、中で何が起こってるのかだいたい予想がついていた。


 薄い防衛線を張ってみる。亮太先輩は大丈夫。けど、事実を見なきゃわからない。ただ――。


 椿の部屋には、桜がいた。亮太先輩とは話してるわけではなかった。いや、話せるような状態じゃない。

 二人は、唇を重ねていた。長く、濃厚な、恋人同士のように。挨拶代わりの軽いキスではない。

 桜は亮太先輩の細く柔らかい髪に触れて頭に手を回し、亮太先輩は、桜のワンピースの下から手を滑り込ませ、桜の下着は露わになっている。


 椿は、何もできなかった。ただ、そこに座りこんで、二人を見つめることしかできなかった。

 椿に、小さな声で誓約を結ぶ二人の会話は聞こえなかった。


「俺、無理矢理されるのは好きじゃないんですけど」

「早く、出て行ってくれる?」

「妖精ちゃんより上手いですね」

「その呼び方、やめないと殺すわよ」

「こわいなあ」

「あの子がいいなら、私が代わりになる」

「俺、お姉さんには興味無いなあ」

「金輪際、つばちゃんに近付かないって約束して。あなたみたいな男につばちゃんをけがされたくないわ」

「あは、お姉さんも俺のこと嫌いなんだ」


 こんな会話の聞こえぬ椿が顔をあげる。亮太先輩と触れ合う中で、桜は、椿に気付いた。行為はそのままに、いつもの笑顔を向けてきた。


 その目だけでも、笑顔は十分にわかった。嫌なお姉ちゃんの笑顔。


 わかってる、わかったから、もうやめて。早く、いつものお姉ちゃんに戻って。


 涙が、手の甲に落ちた。床にも落ち、麦茶の中にまで落ちて、波紋をゆっくりと広げた。

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