忘れてください

麻城すず

忘れてください

 祝言を急いで済ませることになったのは、正隆(まさたか)さんがいよいよ出征されることになったからだ。


 正隆さんとは今までに一、二度お会いしたきりで、お慕いしているのかと問われればそうだと言う自信もないが、しかしこんなご時世であるしゆっくりと親交を深めてなどと悠長なことをいうことも出来ない。


 届いた赤紙を持って我が家を訪れた正隆さんは父と母に深々と頭を下げ、向かい合わせに両親と共に座る私は、とうとうこの日が来たのかと皆には分からぬように溜め息をついた。諦めのような不思議な気持ち。 
















 その日の夜設けられた祝いの席は、ささやかではあったが妙な盛り上がりをみせた。


 特に叔父は正隆さんに「大変な名誉だ」「お国のために」「命を賭して」と何度も大きな声で言っていて、これがいわゆる絡み酒かと自分の祝言であるというのに冷ややかな思いを胸に、私はずっと手にした盃に目を落としていた。














「いいこと、正隆さんに逆らってはいけませんよ。何ごともおっしゃるとおりにするのです。それが妻としての勤めですからね」


 ささやかな宴が終わり、寝間着に着替えを済ませると母は私を手招きし、妙にかしこまった様子で言い聞かせる。


まだ十六の私にも、母の言わんとすることくらい察しがついた。


 産めよ増やせよ国のため。


 出征すれば無事に戻る保証もない。正隆さんが、夫が側にいる間に妻としての勤めを果たして子を宿し、ゆくゆくは健康な男児を産まねばならぬ。


 まだ子供であると自分でも思うのに、祝言を挙げた途端大人に、母になれなどと言われてもどうにも出来ない、そう母に訴えても


「だから正隆さんに全てお任せするのです」


 取り合ってはくれなかった。

















 床は離れに用意してあり、シンと静まり返る中、正隆さんは先に布団に入って、腕を枕にじっと天井を見つめていらした。


「お待たせいたしました」


 なんと声を掛けようかと考えて、しかし思いつかずに言った言葉は静寂に溶けていく。


「ああ」


 一言を返し、掛け布団をめくって正隆さんは手招きをした。


 男の方と同じ布団に寝るなんて。


 目眩がしそうなほどの緊張と羞恥、それでも母に言われた通り私は正隆さんに導かれるまま、なるべく布団の端の方に体を横たえた。


 心臓は激しく打ち、指先は温度を失いそして震える。


「こんな紙切れのために、あなたも災難だね。まだ結婚を焦る歳でもないというのに」


 こんな紙切れ。


 ひらりと目の前に落ちて来たのは臨時召集令状と記された、それほど大きくもないペラペラの薄紙。赤と言うよりは薄い桃色で、裏側の文字が透けて見える。


「初めて見ました」


「以前は本当に真っ赤な紙だったそうだよ。しかし今ではこんなふざけた色だ」


 布団に落ちたその紙をきちんと畳んで枕元に置くと、正隆さんは少し乱暴に私を胸に引き寄せた。


「あ、あの」


 怖くないと言えば嘘になる。しかし正隆さんに任せなさいと母は言った。ならば私はその気持ちを押し殺しこの現状に甘んじるべきなのだろう。


「覚悟はとっくにしていたのだ。甲種合格。免れるわけがない」


 正隆さんの表情は見えない。


「名誉なことではありませんか」


 なんと言うべきか考えたものの、結局当たり障りのないことしか言えなかった。


 きっとこれが父や弟だったなら、私は涙を流し悲しんだことだろう。しかし正隆さんは夫になったとはいえ、殆ど話したこともない方だ。数週間後にはここを離れ、死地に向かうと言われても大した実感もない。まだ情すら持てぬ程この方は遠いのだ。


「冷たいね、あなたはとても」


 不意に私の耳に正隆さんの指が触れた。私は自分の気持ちを見透かされたのかと、申し訳なさに体を縮こめる。


「あなたの耳は冷えきっている。緊張していますか」


「とても……、あ、いえ」


 つい正直に答えてしまって慌てて否定すると、小さく笑う声が聞こえた。


「何もしませんよ」


「え?」


 顔を上げると正隆さんは微かに微笑んでいらして、小さな子供にするように私の頭を何度か優しく撫でてくださった。


「内地にも傷痍弾が降り、物資は乏しく国力は衰えている。赤紙の赤すらけちる程に貧しい国だ。そんな状況ですから僕が向かう場所は間違いなく戦況の激しい場所になるでしょう。生きて帰ってこられるとはとても思えない」


 生きて帰れぬであろう当人がそれを淡々と話す様は異様であると思った。なんてご時世、なんて理不尽なことなのだろう。


「だから、僕のことは忘れてください」


「忘れるのですか」


 私はよほど驚いた顔をしていたのだろう。正隆さんは微笑みを苦笑に変えて、まだ私の頭を撫で続けた。


「戦争は直に終わるでしょうが、その時僕が生きているかは分からない。万一今、子が出来ようものならば、あなたはこの貧困の中その子を一人で育てなければならなくなる」


「でも、父も母もおります。正隆さんのご両親だって。なんとかなります、きっとなんとか」


 正隆さんの話は、私も一度は考えたことだった。けれども逆に当人の口から出れば、それを受け入れてはいけないような気持ちになり、不安はまだ消えていないのに逆にせがむようなことを口にしてしまい、それに気付いて私は顔を赤らめた。


「不名誉な称号はいささか不本意だが仕方がないね」


「?」


「こんな可愛いお嬢さんを目の前に怖じ気づいた男。或いは子を作れない不能であるとか。……ああ失礼。少し言葉が過ぎましたか」


「いえ」


 大人である正隆さんが、大人らしい一言をあまりにさらりと口にされて、それにますます赤くなるのを面白そうに眺めながら、私の頬にそっと唇をあてた。


「このくらいは許してください」


「はい……」


 不思議なものだ。頬に感じた温もりから、緊張が解けていく。


 家で営む生糸業から繋がった正隆さんのご実家とのお付き合いの中、親同士に、いわば勝手に決められてしまった婚姻ではあったが恨む気にはもうなれない。


「皆の手前暫くはこうして寝所を共にせねばなりませんが我慢してください。僕が出征したならばあなたは僕を忘れ、好きな方と結婚なさい。間違っても親の言いなりになどなってはいけない」


「私、忘れません」


 今までろくに話さなかった私がはっきりと言った言葉に今度は正隆さんが驚く番だった。


「私、正隆さんのことをまだあまり存じてはおりませんが今お話しただけでも色々分かった気がします。そうしたらもっと知りたくなりました。忘れるなんて勿体なくて出来ません。お帰りを楽しみにしています」


「それは嬉しいですが、色々と言うのは……」


「色々です。ご自分のほうが大変だと言うのに、数える程しか会ったことのない私のことを心配してくださる優しい方であることだとか、誠実そうなところ、それからユーモアもあるようですし……少し品のないところもおありみたい」


 正隆さんは呆気に取られたようにこちらを見ていたが、私の最後の一言に吹き出すとお腹を抱えて笑い出した。


「笑い上戸でもいらっしゃるのね」


 また一つ知りました。


 そう告げると、正隆さんはどうにか笑いをおさめ「僕も知ったことがある」と私の頬に手を添わせた。


「お嬢さんは控え目なようでいて、その実辛辣な女性のようだ。そしてご自分の意見を言えるだけの意思の強さも持っている」


「親の言いなりの結婚をしたのですからそれは少し買い被り過ぎ……」


 困って言った言葉を遮るように、正隆さんの人差し指が私の口に当てられた。


「僕も、あなたの元に戻るのを楽しみにしています」


 柔らかな笑みから零れたその言葉を聞いた時、初めて胸が悲鳴をあげた。捩じりあげられるようなきゅうきゅうとした痛みを私は初めて知ったのだ。


















 戦争はその後数か月も経たない内に終わりを告げたが、正隆さんが私の元に帰って来ることはなかった。


 あのとき素直に正隆さんの言うとおり彼のことを忘れてしまっていたならば、もっと楽だったのかもしれないと思うことはあるけれど、そうでなくて良かったと思えるのは、私がそれを後悔していないからなのだろう。

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忘れてください 麻城すず @suzuasa

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