第601話 ありがとう……

 そんな黒い右目を、アイナの左手が激しくひっかいた。

 ちっ!

 白き涙が赤く染まっていく。

 それと共に、輝きを失っていく黒き瞳。

「ケケケっ! お前はおとなしく眠っていろ!」

 いまやもう一つの緑の片目が激しい怒りを爆発させるかのように鋭く吊り上がってたのだ。

「ケケケっ! 小僧! アダム様と共に! もう一度眠りにつけぇ!」

 再びアイナの体が大きく息を吸い込んだ。

 だが、再び右目に黒い光が戻り強まった。

「させない! 今度はさせない!」

 動きを止めるアイナの体。

「今よ! タカト君! 早く!」

 だが、タカトの体も動かない……

 それどころか、自然と体が後ずさる。

 ――できない……俺にはできないよ……

 そんなタカトを見る黒い瞳は思うのだ。

 ダメな人……

 本当に肝心なところで逃げ腰になるダメな人……

 でも、そんなことは分かってる。それがタカト君のいいところ。

 そう、最初から分かっていた。優しいタカト君には私を殺せないことを……

 でも……

 でも……このままだと、タカト君がまた……

 なら……ごめんね……


 大きく息を吸い込んだはずのアイナが叫び声をあげた。

「まずはコイツから血祭だ!」

 夜空へと振り上げられるアイナの手刀。

 その手刀の先が羽交い絞めにされているちび真音子の後頭部に狙いを定めた。

 その状況がうまく整理できないタカトは固まったままだった。

 ――えっ? 本気? ちょっと……どっちのアイナちゃんが言ってるの?

 だが、アイナが放つ殺気は本物。

 確実に真音子をやるつもりだ。

 そう、先ほどから緑の瞳と黒き瞳がともに冷たい殺気を放っていたのである。

 ――なんで俺じゃないんだよ!


「ちょ……ちょっとアイナちゃん、何言っているか分からないよ……」

 そんなアイナを落ち着かせようと、タカトは言葉をかけた。

「それ……真音子だよ……ステージで一緒に歌った真音子だよ……」

 というか、言葉をかける以外に今のタカトには思いつかなかったのだ。

 その言葉に、一瞬、狙いをつけていた手刀の先がビクンと震えた。

 かすかに躊躇の色を浮かべる黒い瞳。

 だが、次の瞬間、黒瞳が鋭く光る。

 ……ごめんね……タカト君……

「ケケケッ! 私の力となって死にやがれぇぇぇぇぇ!」

 アイナの手刀が勢いよく振り下ろされた。


「やめろぉぉぉぉぉ!」

 泣き叫ぶタカトは、もう無我夢中だった。

 アイナちゃんを助けたい。

 でも、ちび真音子も助けたい。

 どちらも助けたい。

 でも、このままだとちび真音子が死んじまう!

 キュィィィィィン

「やめてくれぇぇぇぇ!」

 タカトの持つアイナの光が勢いよく風を吸い込むと強い光を放った。

 その刹那、赤き血しぶきと共にアイナの右腕が吹き飛んだのだ。


 暗い空に一条の光が線を引く。

 その輝きがアイナの右肩から先を打ち抜いていたのだ。

 それを見るタカトの膝がワナワナと震え出していた。

 ――俺は……俺は……なんてことをしてしまったんだ……

「いぎゃぁぁぁぁぁ」

 遅れて響くアイナの悲鳴。

 そんなアイナの体からチビ真音子の体が放り出され放物線を描いていく。


 真音子の体が地に落ちようとした瞬間、暗い空から降ってきた男によって受け止められた。

「でかした! 小僧!」

 男は抱える真音子をそっと石畳の上に寝かすと、すでに気を失っている真音子の頭をそっと優しくなでた。

 どうやら、真音子がアイナから離れるチャンスを城壁の上からうかがっていたようである。


「ケケケッ! 何やつ!」

 吹き飛んだ傷口を抑えるアイナが男につかみかかろうとした。

 だが、なぜか体は進まない。

 それどころか指一本も動かせなくなっていたのである。

 今や、アイナの体には無数の金糸が絡まって、その動きを制していたのである。


銘肌鏤骨めいきるこつ……」

 静かに声を発した男が、素早く目の前で手を交差した。

 瞬時に無数に張り巡らされた金糸が緊張する!

 

 金糸が食い込む黒きアイナの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちていた。

「こんな私を見つけてくれて……ありがとう……大好きだったよ……タカト君……」

 ニコッりと微笑むアイナの瞳……

 だが、次の瞬間、それは無数の肉片に変わっていた。


 呆然と立ち尽くすタカト。

 ……

 ……

 ……

 うそだ……

 ウソだ……

 嘘だ……


 なんだんだよ……これ……


 キュルキュル!

 甲高い音と共に金糸が男のもとに帰っていく。

 金糸に引きずられ飛び散る血の匂いが、それがまぎれもない真実であることを如実に物語っていた。


 そんなタカトの身体がストンと力なく落ちる。


 アイナちゃん……




 アイナちゃん……




 アイナちゃん……



 アイナちゃん……



 アイナちゃん……


 アイナちゃん……


 アイナちゃん……

 アイナちゃん……

 アイナちゃん……

 アイナちゃん……

 アイナちゃん……アイナちゃん……

 アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……

 アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……アイナちゃん……


「アイナちゃぁァァァァァァァァァァぁん!」

 石だたみに強く打ち付けられるタカトの額と拳。

「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁ!」

 いまや夜空にタカトの悲痛なる叫び声だけが響いていた。


 金糸が戻り切ると男はすっと立ち上がる。

 そして、石畳の上に無数に散らばるかつてアイナだった肉片に塩のようなものを振りまき始めたのだ。

「アダムの従者よ……安らかに眠れ……これで転生はできはしまい……」

 それは医療の国で作られた神払いの塩。

 低俗な神にしか効果を発しない代物であるが、今だ神としての力が戻らず、魔物のの部分しか力の戻っていないアイナには効果があるのかもしれない。

 塩をまき終わった男は、忌々しそうに第七駐屯地を見回す。

「ほかの三匹は、また、地に潜ったか……」

 この男、名前を金蔵勤造。

 一之祐の神民であり懐刀。そして、なによりも真音子の父親だったのである。

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