第269話 イサクの過去(3)

 穴の中でうずくまる女はソフィアであった。

 ソフィアのその口は、ケテレツの実験で失敗した、人魔や人の腕を咥えていた。

 口からは、赤黒く濁った血が滴り落ちている。


 ソフィアは、飢えていた。

 満たされぬ飢え。

 食っても食っても満たされぬ。

 もっと食いたい……

 獣でもいいが、やはり、人の方が柔らかい。

 人を食いたい……


 だが、ソフィアは知った。この聖人世界で人を食うということは危険な行為であることを。その食う対象が人魔であっても、その死骸を確認するために守備兵が集まってくる。そして、魔装騎兵も集まってくるのである。

 初めて、街中で人魔を食った日、ソフィアは、咄嗟に、豚の泥に紛れ、臭いを誤魔化した。

 豚小屋の中でうずくまり、魔装騎兵のヨークをにらむ。

 この時、ソフィアは悟った。

 人や人魔を食うには、人間たちに悟られずに食う必要がある。

 ならどうすればいい……どうすれば……

 赤い目は豚の足元で、必死に考えた。


 ソフィアは、かつて、聖人国にくる際に通った小門の中の大穴の事を思い出す。

 小門に逃げ込んだ人間を追いかけていると、大穴に逃げ込んだのである。

 人間という、うまいごちそう。

 ソフィアは、その人間を必死に追いかけて大穴に飛び込んだ。

 その大穴には、魔物であるオオヒャクテやクロダイショウがうじゃうじゃいた。

 とりあえず、目の前の人間を食ったが、やはり飢えは満たされなかった。

 目の前にいる、オオヒャクテを捕まえて次々と食らってみる。

 まずい……

 ソフィアは口から、オオヒャクテの肉塊を吐き出した。

 目の前に血を流し倒れている人間を食った後だと、そのまずさはさらに際立った。

 やはり、人間の方がうまい。この温かい内臓など格別だ。もっと食いたい。

 ソフィアは大穴から飛び出すと、聖人国の出口へと歩いていった。


 あの大穴のオオヒャクテ同様、この穴の中の腐った死体も、本当にまずい……

 ソフィアは、ケテレツが廃棄していた人間の腐った腕を食いちぎる。

 だが、空腹には代えがたい。


 血がしたる肉を食いたい……

 湯気だつ内臓にかぶりつきたい……

 新鮮な生肉を腹いっぱいほお張りたい……


 そんなソフィアを、穴の上から恐怖にひきつった表情でケテレツが見下ろしている。

 ケテレツは、微動だにしない。いや、できないのである。

 ソフィアは、口の中に挟まった、ボタンをペッと地面に吐き出すと、穴の上を見上げた。

 そこには生きた人間がいる。

 肉!

 生きた肉!

 ソフィアの顔が、不気味に微笑んだ。

 三日月のように口が大きく微笑んだ。

 赤い目は、恋い焦がれる恋人にやっと出会えたかのように、大きく見開かれている。

 その瞬間、ソフィアは、穴の上に飛び上がった。

 ケテレツの前に、膝まづき、着地の衝撃を吸収する。

 そして、ゆっくりと顔をあげていく。

 口を赤黒く染めながら、真っ赤な瞳でケテレツに微笑みかけている。

 ただ、口からは、とめどもなくよだれが垂れている。

 もう、我慢できない。

 口に出さずとも、その様子は見てわかる。

 咄嗟の事に、訳が分からないケテレツは、声をあげることもできずに尻もちをついた。

 穴の中から、美しい女が飛び出してきたのだ。だが、その異様な格好。

 食われる……

 ケテレツの本能が、叫んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る