第194話 タカトの知らない世界(3)

 タカトは首を振る。訳も分からず首を振る。

 激しく激しく首を振る。

 それにつれて、鼻水が右左に飛び散っていく。


 ハエの魔物は、手を自らの両手を後頭部に当てると、頭を徐々に裂いていく。

 メリメリメリ

 静まり返る廊下に、魔物の皮膚が音を立ててはがれていく。

 両の手がハエの皮膚を勢いよく引きはがすと同時、何かがあふれ出してきた。

 それは、ミミズのようにうねうねと動いているようにタカトには見えた。

 すでにタカトの活動限界を超えていた。

 口から白い魂が抜け出して行くようである。

 白目を向いたタカトが、力なく揺れている。


「あっ!川が見える!」

 現実から逃避したタカトの目の前に、赤黒い世界に大きな川が流れていた。

 そこは、タカトの知らない世界であった。

 渡し船の横には大きな木。

 なぜか木には、服が一杯かけられていた。

 一人の老婆がタカトに声をかける。

「銅貨6枚お出し!」

 タカトの手には銅貨が5枚。

 1枚足りない……

「おまえ、銅貨6枚も持っていないのかい! この貧乏人! さっさとお帰り!」

 けんもほろろに追い返されてしまった。


「驚いたぁ?」

 そこには、ハエのマスクを手にしたフジコが立っていた。

「あ~ぁ、汗かいちゃった。髪もべたべた」

 髪を掻きあげる仕草が妙に色っぽい。

 ミミズのように見えたものは、フジコの髪であったようだ。


 タカトは、力なくその場に尻もちをついた。

 もう、立っている気力もなくなっていた。


 ニコニコしながらフジコはタカトに声をかける。

「ねぇ、ねぇ、驚いた?」

 ……

 タカトは、無言のままフジコを見上げたかと思うと、とっさにその足に抱きついた。そして、足に顔をこすりつけながら子供のように泣き喚めく。

 その尋常ならざる様子に、フジコは少々やりすぎたかと、頭をかくと、ひざを折り、タカトの肩を抱いた。


「ごめんね。そんなに怖かっただなんて……ちょっと、驚き……」

 タカトは、廊下の奥を指さしながら、ガタガタと震えながら何かをつぶやいていた。

「あっちに……人の顔をした変なモノが……」

 フジコは廊下の奥に目をやった。

 ハハンと納得したフジコは、にっこりと微笑む。

「あぁ、あれを見たのね。たぶん、それだとケテレツ先生のペット達ね」

 ペットだと?あれが?

 タカトは混乱する。

「今日はケテレツ先生が夜勤の日だから、お願いして連れてきてもらったのよ」

 フジコは、腰に手を当て大きくため息をついた。

「やっとよ。やっと。さんざんお願いして、やっとよ」

 言っている意味が、全く分からないタカトは、目をぱちくりさせていた。

「見せてやるから。婦長の気を反らせだって。本当に、もう、面倒くさいんだから!」

 気をそらす?一体何の話?

「晩御飯の時よ。私がこのマスクでタカト君の部屋に行ったでしょ。その時、タカト君の悲鳴で婦長が来たじゃない。あの時よ」

 ……あれ?

「気になるなら見に行く?」

 首を横に振るタカト。


 べちっ、べちっ

 暗い廊下の奥からまた音が聞こえてくる。

 先ほど、犬女とろくろ首が消えた反対方向の壁側からである。

 今度は何かの足音のようである。

 べちっ、べべちっ、べちっ、べべちっ、

 その音の数は次第に多くなっていく。

 タカトはフジコに尋ねた。

「あれもそうですか……」

「いや……違うと思う……けど……」

 二人は顔を見合わせた。

 壁の影から人の姿が現れた。

 ホッとする二人。

 その人の影は、どんどんと増していく。

 やけに多いですね……連れショんですか?

 そんなアホな!

 その影たちはゆっくりとタカトとフジコの方を振り向いた。

 緑色の目が、いっぱい光る。

 それも、もう、一人ではなく、何人も。何十人も。

 もしかして、あれは人魔さんですか……

 はい、そうですね……

 フジコとタカトは顔を見合わせて、自分たちの出した答えを確認しあった。

 緑の目玉たちが、震えるタカトたちを見つけけた。

 うがっぁぁぁァァ!

 その瞬間、大きな口を開けて人魔たちが襲い来る!


 ぎやぁぁぁぁ!

 驚き抱き合う二人は目を大きくして飛び上がった。

 着地と同時に二人は脱兎のごとく、懸命に走り出す。


 フンガ!

 フン!

 タカトはフジコを押しのける。

 フジコもタカトの行く先を遮った。

 二人は自分の事だけを考えてダッシュする。

 あわよくば、片方がエサになってくれることを切に望んだ。

 相手の献身的な犠牲によって、自分だけは助かることができるかもしれない。

 もう、後ろの魔物よりもこの二人の心の方が、恐ろしい。

 押し付け合う二人の顔は、醜く歪む。

 どつきあいながら、タカトの病室へと駆け込んだ。


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