第192話 タカトの知らない世界(1)

 タカトは、暗い廊下を恐る恐る歩いていく。

 不安そうな目は、辺りをきょろきょろと伺う。

 その動きに合わせて、先ほど婦長が忘れたランプの明かりが廊下の上で小さく揺れる。


「ビン子さーん。どこにいらっしゃいますかぁ?」

 タカトはなるべく小さな声で叫んだ。

 それでも、静まり返った病院の廊下には、やけに大きく感じられた。


 お……と……だ……ま


 歩を進めるタカトの耳に何かが聞こえる。

 タカトの顔が引きつった。

 ――またかよ……


 先ほど、トイレで用を済ましておいて本当によかったと今更ながら思う。

 この残尿感なら、たぶん漏れることはないだろう。


 おれ・・とん……だ……おれ……まち……

 その音は、どうやら男の声のようである。

 その低い男の声は、何か同じような言葉を繰り返し呟いているようである。

 その声のもとへと、近づくタカト。

 一つの病室からぼそぼそと漏れ出している。


 タカトは病室のドアを少し開ける。

 中を伺うタカトの目は、一つの黒い影を見つけた。

 その影は、ベッドの上で背中を直立させ気が抜けたようにぼーっと座っている。

 そして、つぶやく。


「俺は本当に跳んだんだ……俺の時間は跳んだんだ……間違ってない……」


 タカトは、食い入るように男を見ていた。

 その時、タカトの膝がドアに当たった。


 ガタっ!

 ――やべぇ!


 ベッド上の男は、首だけをくるりと動かしドア先をにらむ。

 咄嗟にタカトは、ドアから目を離すと、後ずさった。

 なぜなら、見てしまったのだ。

 その振り向いた男の顔が、とてもとても楽しそうに笑っているのを。


 病室の中から男が叫ぶ。

「本当なんだ! 俺はあの女に時間を跳ばされたんだ! 記憶喪失じゃないんだ! 信じてくれ!」


 タカトは、怖くなり徐々にドアから離れていく。

 しかし、今度は、隣の病室から何やら聞こえてくる。

 やめておけばいいのに、タカトは、またもや、その隣の病室のドアを少し開けて中を伺った。


「もう、寝たいんだよぉ……夢を見るのが怖いんだよ……」


 タカトは、また、食い入るように男を見ていた。

 その時、タカトの膝がドアに当たった。


 ガタっ!

 ――やべぇ!


 ベッド上の男は、首だけをくるりと動かしドア先をにらむ。

 タカトは、ドアから目を離すと、後ずさった。

 なぜなら、見てしまったのだ。

 その振り向いた男の顔が、ぐちゃぐちゃに崩れていたのを。


 病室の中から男が叫ぶ。

「あそこには夢を実現にする奴がいる! 悪夢を現実にする奴が! 医療の国には絶対に行くな!」


 タカトは、怖くなり徐々にドアから離れていく。

 そして、廊下の奥へと目をやった。


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