第191話 気味が悪い(3)

 ヒヒヒヒ

 白目のビン子から笑いがもれる。


 恐怖でタカトの顔はひきつった。

 ――もう……アカン……

 意識が白い世界へとんでいくのが自分でもわかった。


「もう……食べれないよぉ……」

 舌なめずりをするビン子。

 どうやら、ビン子の口から垂れているのは、ただのヨダレのようだ。

 ――こ……こいつ、また、食い物の夢かよ……


 現実世界へと引き戻してきたタカトは、安心し、ほっと視線を下へと落とした。

 真下の暗い床へと疲れた笑いを見せつける。

 なぜだろう、目頭が少々熱い。


 しかし、アノ聞きなれない音は何の音であったのだろうか?

 音の原因がはっきりしないため、腑に落ちない。

 ビン子のいびきとも違うし……

 でも、今は聞こえない……

 やっぱり気のせいかな……

 うん、気のせいにしておこう!

 気を取り直したタカトは、また、ゆっくりと手を進めほふくしはじめた。


 ゴフ、ゴフ、ゴフ

 !?


 やはり、音がする。

 今度は、さっきよりもはっきりと聞こえた。

 ベッドの下か!

 それは、どうも、ベッドの下の暗闇からのようである。

 もう……不吉な予感しかしない。

 しかし、気になる……


 タカトは、四つん這いの状態から、さらに下へと頭を下げた。

 そして、手に持つランプを、ゆっくりとベッドの下の暗闇へと突っ込んでいく。


 暗いベッドの下にランプの明かりが、ほのかにひろがる。

 ベッドの下には、タカトが食べ残しを詰め込んだ袋が落ちていた。

 フジコがやってきたために、とっさにベッドの下に隠したのであった。

 しかし、その後、フジコの魔物のマスクによる報復により、この袋のことを完全に忘れていた。

 いやぁ、こんなところに食べ物を入れた袋を放置していたら腐るぞ!

 それどころか、ゴキブリやネズミだって来るかもしれないじゃないか!


 その袋がガサガサと動いている。

 ――ネズミか?

 だから言わんこっちゃない!


 しかし、その袋の後ろにはネズミよりも大きな影が。

 どうやら、小型犬ほどの黒い影のようである。

 ――野良犬かよ!ココ病院だろ!大丈夫か?

 お前が言うな!

 ――しかし、その袋は俺の貴重な食い物!犬ごときにくれてやる訳には!

 タカトが、袋を取り戻そうと手を伸ばす。

 その気配を察したのか、袋が動きを止めた。

 袋の中に突っ込まれていた頭が抜き出されていく。


 その明かりの中に女の顔がぽつんと一つ。

 なんでだろう……犬の顔ではなく、女の人。

 ボサボサに乱れた髪に、くぼんだ黒い瞳。

 緑に目ではなくて黒い瞳

 なんでだろう……

 なんでだろう……

 なんでだ!なんでだろう~

 体は犬で頭が人間、どう見ても魔物のような気がするが、

 なぜか!? こ奴の目は黒い!

 なんでだろう~

 なんでだろう~

 なんでだ! なんでだろう~


 そのくぼんだ眼は静かにタカトを見つめ微笑んでいた。


 ハハハハ……


 もはやタカトは乾いた笑いしか出てこなかった。


 その瞬間、ベッドの下の女の口から赤いものがボトリと落ちた。


 ウゴギヤァァァァ!

 悲鳴を上げるタカトは、ベッドの上へと飛び乗った。


 ウゴっ!

 タカトに飛び乗られたビン子は、うなり声を上げた。


 ウゴゴッゴ

 こちらも低いうなり声をあげながらベッドの下の女の顔は、開いたドアから走り出していった。

 そう、顔だけである。

 その体は、もはや人のものではなかった。

 いうなれば、犬……そう、マルチーズの体に女の顔がついていたのである。


「ビン子! ビン子! ビビビんこ!」

 タカトは、ビン子を激しくゆする。


「こんな夜中になんやねん!」

 ビン子の頭がタカトの顎にヒットする。


 ウゴぉ!

 タカトが顎を押さえながらビン子の足先へとあおむけで倒れ込んでいく。

 あごを押さえながら、タカトは天井へと訴える。


「ビン子……気味が……いだよぉ……たずげでぇ……」

「えっ! そんなぁ」

 なぜか照れるビン子は体の上で倒れたタカトを、恥ずかしそうに右足で何度も何度も足蹴にする。


「なにするんだよぉ……」

 上半身を起こした涙目のタカトは、その足に抵抗する気力も残っていなかった。


「タカトたら。もうズボンから出しちゃって、そんなに焦らなくても……」

 上半身を起こしたビン子は、赤らめた顔を反らして照れ笑う。

 はいぃ?

 タカトは自分の股関を覗きこむ。

 先ほどからずっと出っぱなしだったのだろう。タカトは自分の一物を急いでしまった。


「だってぇ、急に言われても、その、ムードとか、あるじゃない。私も女の子だし……」

 ビン子は、シーツを目元まで引き上げて、もじもじしている。


 タカトの目は、点になった。

 さきほどまで涙がこんこんと湧き出していた目頭は、急に枯れ果てた。

「えっとぉ……ビン子さん? 何をおっしゃっておられるのですか?」


「えぇ、だって、君が欲しいって」

 きゃぁと言わんばかりに、シーツを頭からかぶった。


 しかし、ビン子のこの行動。

 状況が状況なら少々かわいいと思うのかもしれないのだが……

 今のタカトにそのような余裕は全くなかった。


「一体……誰がでしょうか……?」

「タカトが」

 ビン子をシーツから目を出してそうつぶやくと、また、とっさにシーツをかぶって、もじもじし始めた。


 無機質な表情のタカトに、ある一つの確信が生まれた。

 ――こいつアホや……


「君が欲しいじゃなくて、気味が悪いじゃ!」

 我に返ったタカトは怒鳴る。


 ――えっ?

 ――何それ……?

 期待が外れたビン子は、やる気なくシーツを降ろした。

 当てが外れたその目は、死んだ魚のように冷たい。


「黄身が悪い?あぁそうね、あのオムレツのことよね!」


 ――このアホ、まだボケるんか~い!

「ちがわーい!気色が悪いってことですぅ!」

 ノリノリのタカトが突っ込んだ。

 お前も切り替わりの早いやっちゃなぁ……


「誰が?」

「ビン子が」

 タカトはビン子を指さした。

 みるみるビン子の顔が泣き崩れていく。


「ひどおぉぉーい!」


 ビン子は、泣きながら病室を飛び出した。

 そして、その足音は暗い廊下の奥へと消えていった。


 ぽつんと暗い病室のベッドの上に取り残されたタカト

 正座するタカトは、無言で病室の入り口を見つめていた。

 背中から、黒い恐怖の手が徐々に徐々にとタカトを抱きしめてくるような感覚が戻ってきた。

 顔が引きつっていく。

 もう、後ろを振り向くことさえできない。


「ビン子ぉぉぉ! 俺を一人にしないでくれえぇぇぇ!」

 タカトは、ビン子を追って廊下に飛び出した。

 だって、どう考えても、君が悪いんだろ!

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