第190話 気味が悪い(2)

 タカトの泣き声とも叫び声ともわからぬ絶叫が、うす暗いトイレの中にこだまする。

 その声による腹圧で、ようやく絞り出された最後の一滴が、股間から飛んでいく。

 しかし、その一滴は、トイレの枠外へと外れてしまった。

 惜しい!


 だが、今のタカトにとってそんなことはどうでもいいのである。

 もはや己の一物すら片付けることをすっかり忘れてしまうほど動転している。

 いや、忘れていたというより、動きが完全に止まってしまったようである。


 タカトの目の前には、なぜか一人の女の子。

 それは、薄っすらと青く透き通る女の子。

 力なくうつむくその表情はあまりよく見えない。


 青く透き通った右手が伸びてきた。

 タカトに向かってゆっくりと。


 あ……あり……ありが……

 ――何か言っているのか? 蟻がどうした?


 しかしこの女の子、どこかで見たことがあるような。

 うつむいた女の子の顔が徐々に徐々にと上がりゆく。

 青白い顔に微笑みが浮かんでいる。

 ニタァ……・


 その刹那、タカトは、駆けた。

 何も考えずに、とにかく駆けた。

 己の一物をしまうことも忘れて、ただ、ただ全速力で駆けぬけた。

 風圧でタカトの頬肉は後方へと押し流される。

 ついでに鼻水も後ろに飛んでいく。

 悲鳴とも叫び声とも分からぬ声をあげながら、ビン子が眠る病室の開いたドアへと駆け込んだ。


 バン!

 勢いよくドアを閉めたタカトは、ドアにもたれて激しく肩で息をした。

 横目でドアの様子をうかがうタカト。

 大丈夫……大丈夫……

 タカトの体が徐々に徐々にとドアに沿って滑り落ちていく。

 ついに床に腰をついたタカトは、天井を仰ぎ大きく息を吐き出した。


 ――あの女の子は一体……

 そんなことは分からない。

 ただ、今は身の安全を確保するべきだ。

 ドアに耳を当て外の様子をうかがった。

 タカトの目は異様なまでに大きく見開いている。

 しかし、ドアごしの音は何も耳に届かない。

 全くの無音。


 ――もう、行ったか?

 四つん這いのタカトは、そーっとドアを開けていく。


 外の様子をうかがうために、ドアの隙間から外の廊下を伺った。

 静まり返る廊下

 その隙間には、まるで冷たい湖面のような暗い廊下だけが映っていた。


 ――何もいない……よな?

 ホッとするタカトは、安心しした。

 そして、ついつい、何気にその隙間の上を見上げたのだ。

 そう、やめときゃいいのに、つい、見上げてしまったのだ。


 暗い隙間に、一つの目玉


 その見開いた目玉は、見おろすようにタカトをにらんでいた。


「びぇぇぇぇぇ!」

 タカトは、後ろにのけぞった。

 恐怖におびえるタカトの目玉や鼻の穴からは、もう何の汁かが分からないものが、こぼれだしていた。


 ドアの隙間が静かに開いていく。

 来るな!来るな!

 心で願うも、ドアはスライドしていく。

 もう、どうとでもなれと観念したタカトは、固く目を閉じた。

 タカトの顔に熱いと息が吹きかかる。

 もう、顔のそばまで来たというのか。

 あかん、絶対に目が開けられない。

 生きた心地がしないタカト。


 俺なんか食ってもうまくない! 俺なんか食ってもうまくない! 俺なんか食ってもうまくない!

 そうだ!ベッドの上にはビン子がいるじゃん!

 タカトは、固く目をつぶったまま、ベッドの上のビン子を指さした。

「あちらの方がおいしいと思いますよ……・たぶん」


「タカトさん。もう夜中ですから静かにしてください」

 タカトの耳元で、小さな声が発せられた。

 意表を突かれたタカトは、恐る恐る目を開けた。

 そこには床に置かれたランプに照らし出された婦長の顔が。


「ばっ!化け物ぉ!」

 下から照らされるランプに光で、婦長のしわの影がはっきり見えた。

 タカトは咄嗟に声をあげた。


「失礼な!」


 婦長は、急に立ち上がると、廊下へと飛び出していった。

 タカトは這いずりながら入り口から顔をだす。

 婦長が消えた廊下の奥からは、女のすすり泣くような声が聞こえてきた。

「ひどぃ……ひどぃ……あんなこと言うなんんて……・」


 タカトは口に手を当て、なるべく小さい声で叫んだ。

「ごめんなさい……つい、本音が……」

「恨んでやる!一生恨んでやる!」

 さらに激しさを増した女の泣き声が、暗い廊下の中に沈んでいった。


 四つん這いのタカトは、仕方なしに寝床に戻ろうと、ベッドの方へと向きを変えた。

 もう正直、一人で寝るのは少々怖い。

 ベッドの上のビン子の横にでも潜り込もうかと、考えながら這っていく。

 おまえ男だろ?

 いやいや、そんなの関係ないわい!


 ゴフ、ゴフ、ゴフ


 今度は、ベッドの方から音がする。

 タカトの体は、硬直した。

 ビン子の寝言であろうか。

 四つん這いのタカトは、床に置かれた婦長のランプを己の頭上より上に掲げた。

 よく見えない。

 ならばと、ゆっくり己の顔を持ちあげる。

 びくびくしながらベッドの上を見上げてみると、ベッドには、黒い塊が転がっていた。

 いや、大丈夫。

 きっと、あれは、ビン子の後頭部だろう。

 しかし、その時、その後頭部がゆっくりと動き始めた。

 ゆっくりと、ゆっくりと

 タカトの方へと向きを変えてくる。


 天を見たと思われたビン子の頭は、ガクンとその向きを変えた。

 じーっとタカトを見据える動かぬビン子

 しかもご丁寧なことに、その目は白目……白目なのである。

 白目が不気味に微笑んでいる。

 その時、無意味に口角が上がった笑顔の口からは、何かが滴り落ちてきた。


 ぶぢゅるるる




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 あとがき

 いつもフォロー、★、応援ありがとうございます。いつもの皆様に感謝と言うわけではないですが、モチベーションも何やかんやで上昇し、ついに暴走しました。なんと挿絵を自分で書いちゃった。カクヨムでは挿絵を掲載できないため、該当ページにリンクを張らせていただきました。

 その名も「ビン子ハリセンの図」

 まぁ、私が書いたので、構図的に変ですが・・・そこはご愛嬌と言うことで。

 今後も、温かいフォロー、★、応援をよろしくお願いいたします。

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