第189話 気味が悪い(1)

 病院の窓から見える外の世界は、黒くその一寸先も全く見えなかった。

 月が隠れた深夜のその暗さは、深く、覗き見る者の心を写すかのように、妙な不安を掻き立てさせる。

 どこぞの窓でも空いているのであろうか。その暗闇は、外から冷たい空気と共に流れ込んできているような気がする。

 冷たい空気が流れ込んでくる病院の静かな廊下では、壁に掛かるランプの明かりが、うっすらと怪しく揺らめき立っていた。

 ただ、ただ、その明かりの影だけがユラユラとその廊下の上で揺れ続けている。

 しかし、深夜の病院の廊下というのは、炎が揺れる音すら聞こえてきそうなほど静かなものだと、今更ながら感心してしまう。

 なんだか、暗い廊下の奥から、何か異質な存在が、じーっとこちらをのぞいていそうな気がして背筋が凍りそうだ。


 しかし、タカトの病室からは、そんな嫌悪感とは無関係なこらまた呑気な音が聞こえてくる。

 今日も、ベッドの上からすやすやと可愛い寝息がこぼれ落ちていたのだ。

 だが、もう一つ、いつもと違う音も聞こえてくるようだ。

 それは、うめき声とも、うなり声とも聞こえる低い音。

 どうやら、ベッドの下から湧き上がってきているようである。


 ベッドの上の寝息が向きを変えた。

 すると、サラサラサラと、そのベッド裾から、黒い長髪がこぼれ落ちていく。

 黒い長髪は、うめき声に引き寄せられるかのように、ズズ・・ズズ……と地面へと落ちていく。

 うめき声がピタリと止まる。

 その瞬間。


 へっくしょん!


 ベッドの下から大きなくしゃみ。


「クソ! ビン子の髪か! 縛っとけよ!」


 床に寝ていたタカトは、こわばった首をゴキゴキと左右に振りながら起き上がる。

 硬い床に直に寝ているせいか体が痛い。

 熟睡もままならぬタカトが、低いうめき声を発していたのだ。

 ベッドから垂れる黒い長髪を掴むと、ベッドの上で気持ちよさそうに眠っているビン子の頭へと恨みを込めて投げ返した。


「大体、なんで俺が床で寝にゃぁならんのだ。ビン子のやつ明日もまた、朝食を食う気か……」


 タカトは、ベッドの上で気持ちよさそうに眠るビン子を恨めしそうに見つめた。

 フジコのブラを外すという、超ハードなミッションに失敗したタカトは、ビン子という無慈悲な敵勢力に捉えられた。

 そう、捕虜といえば、拷問である。

 捕虜となったタカトには、お決まりの拷問タイムが待ち受けていた。

 床に正座をさせられ、ビン子に3時間も説教を聞かされることになったのだ。

 さんざん、アホだ! 変態だ! 浮気者! と罵ったビン子は、ついに力尽き、ベッドへと倒れこんだ。

 タカトは、そんなビン子に気を使い床で眠ることを選んだのだろうか?

 いや、こいつは、ビン子が眠る3時間も前に夢の世界へと旅立っていたのである。そう、説教が始まるとともに寝やがったのだ!


 ブルブル


 タカトは小さく身震いをした。

 ふと何かの気配を感じて辺りを見回すタカト。


 何か嫌な感じが新幹線のごとく体の表面を走り抜けていく。


「そうだ……小便、行こう……」


 膀胱のふくらみが気になったタカトは、ゆっくりと立ち上がると、病室のドアを開け、暗い廊下へと旅立った。


 トイレに向けて歩くタカト

 暗い廊下では、タカトの歩く足音しか聞こえない。


 ピタ、ピタ、ピタ


 はだしの足音が、ランプの光を揺らしていく。


 ピタ、びた、ピタ、びた、ピタ、びた

 !?

 咄嗟にタカトは、歩くのを止めた。

 勢いよく後ろを振り返る。

 しかし、何もいない。

 何の音も聞こえてこない。

 シーンと静まり返る黒い廊下。


「気のせいか……漏れる漏れる!」

 気を取り直し、もう一度、トイレに向かって足を踏み出した。


 ピタ、びた、ピタ、びた、ピタ、びた

 ……

 タカトの歩幅が縮まった。

 やはり聞こえる。聞こえます。

 空耳ではないですよ。


 今度は気づかれないようにゆっくりと振り返る。

 恐怖で見開かれた視界が徐々に黒い廊下を映し行く。

 しかし、やはり、何もない……


 暗いトイレの中で、水が落ちる音だけが響いている。


 ピチョン、ピチョン


 そうだ! 小便は今だ!

 タカトは、恐る恐る、トイレで用を足す。

 いつもはきれいな放物線が、やけに四方へと乱れ飛ぶ。

 直立する足は、少々震えていた。

 早く終われ!

 しかし、こういう時に限って、キレが悪いものである。

 ビュル、ビュル

 最後の一滴が決まらない。


 !?

 その時、タカトは、己の背後に何かの気配を感じとった。

 股間に手をやったままのタカトの首は、ゆっくりと後ろを伺った。


 ぎゃぁぁぁぁぁっぁぁ!

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