第142話 逃亡者(3)

 暗く狭い路地裏を走り抜ける一塊いっかいの人影。

 その影は、窓々からうっすらと漏れ落ちるランプの明かりの中を次々と跳ねていく。

 右肩にエメラルダを抱き、後ろを気にするミーアの影は、まるで子ウサギのようにおびえ、その先を急ぐ。


「こっちに逃げたぞ!」


 暗い街々の壁に男たちの声が反響する。

 それは、まさに子ウサギを追う猟犬のように、けたたましくたけり立っていた。


「こっちに血の跡があるぞ!」


 ミーアの左わきには、逃げた時に負ったであろう傷口が、大きく口を開けていた。

 左手で押さえるも、手の隙間から血は溢れだしてくる。

 致命傷とまでは言わないが、ミーアの苦悶の表情から、かなり深手であることは間違いないようであった。


 街並みをはずれると、ミーアはそばにある茂みの中にエメラルダを隠した。


「ここで少し待っていてくれ……」


 エメラルダは、木の根元で膝を抱え震えている。

 その様子は、雨に濡れて行き場のない少女のように、はかなくとても弱々しいものであった。


 ミーアは傷口を自らの左手で広げる。

 うぐぐ……

 小さなうめき声が漏れる。

 ミーアは歯を食いしばると、反対側の町の中へと走り出した。

 ミーアの後を血痕が追っていく。


 エメラルダの目の前の茂みの外に、守備兵たちの影が集まる。

 頭を抱えて目を強く閉じたエメラルダは、ただただ震えていることしかできなかった。


「こっちに血痕が続いているぞ!」


 男たちの足音が茂みから離れていく。

 しかし、エメラルダの震えは止まらない。


 ガサッ!

 エメラルダの後ろの茂みが揺れる。

 ヒッ!

 恐怖にひきつるエメラルダ。


 エメラルダの後ろには、どこから盗んできたのであろうか、シャツを傷口に強く押し当てたミーアが立っていた。


「待たせたな……」

 しかし、ミーア―の額からは脂汗が垂れている。

 ミーアもまた、立っているのがやっとの状態であった。


 茂みの中をゆっくりと進む二人。

 茂みは、一つの道に出た。


 ミーアの手がエメラルダを制止する。

 茂みの中にじっと身をひそめる二人。


 道の奥から二人の守備兵たちが、警戒しながら歩いてくるのが見えた。


 茂みの中で様子をうかがう二人。

 ミーアのわき腹のシャツから血が滴り落ちる。


 動かない守備兵たち。

 道を挟んだ目の前は、もう、そこは森である。

 森まで駆け込めば、守備兵の追跡をまくのは容易である。

 ひたすら機会を待つ二人。


 何かしゃべっている守備兵たち。

 動かない。

 全くその場から動かない。

 ミーアの頬に脂汗が垂れてくる。


「何者だ!」


 咄嗟に守備兵たちが怒鳴る。

 影に向かって槍を突き出す。


「おお! 危ない! これは久しぶり。精が出るね」


 守備兵たちに歩み寄ってきた男は、『お尻ラブ』と書かれたタンクトップを身にまとっていた。

 そのガタイのいい筋肉マッチョの男を見ると、守備兵たちは、一斉に頭を下げた。


「これはスグル先生。ごぶさたしております」


「お尻ラブラブ! ラブビーム! そんなにかしこまるなよ……」


「いえ、先生には神民学校でお世話になりっぱなしでしたから。しかし、先生、相変わらずのセンスですね。そのタンクトップ」


「いやぁ、そんなに誉めるな。照れるだろう。しかし、まぁ、あの時のガキどもが、こんなに立派になったのだからな」


 スグルと呼ばれた男は、わざとらしく手で目を覆う。


「先生、今日は第六の門から魔人どもが攻めてきて厳戒態勢なんですよ。早く神民街に帰ってくださいよ」


「そうかそうか。ところであっちになんか不審な人物がいたんだが……」


「どこですか、今追跡中の人物かもしれません」


 スグルは守備兵たちを手招きし、ミーアたちがいる方向とは逆の方向へと連れていく。

 守備兵たちが徐々に離れていく。

 ミーアはチャンスとばかりに、エメラルダの肩を抱き、目の前の森へと駆け込んだ。


 その気配に、守備兵たちが後ろを振り返る。


「あぁぁ! あそこだ!」


 スグルが大きな声をあげる。

 守備兵たちが、再度、前へと振り返り、スグルが指し示す方向へとかける。

 後ろをちらっと伺ったスグルは、ミーアたちが森に入ったことを確認した。


「あれぇ? このあたりにいたんだけどな?」

「どこです?」

「あれー? おかしいなぁ?」

「先生酔ってますか?」


 スグルは笑いながら親指と人差し指を立てた。

「少しだけね……」


 はぁーーーー!

 そして、一人の守備兵の顔に大きく息をかける。


「酒くせぇ!」

 守備兵は鼻をつまむと、後ろに飛びのいた。


「もういいですよ。先生かえって寝てくださいよ」

「分かったよ。帰って尻でも磨くとするよ」


 スグルはわざとらしくふらつき、千鳥足で帰っていく。


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