第75話 赤色の小瓶
「そうか……そこまで言うのなら。ただ――とりあえず腹の子だけは何とかしておけ」
義男はそう言うと、手のひらに乗せた小さな小瓶を突き出した。
中では、毒々しい赤色の液体がゆらゆらと波打っている。
それが“ただの薬”ではないことなど、見る者なら誰にでもわかった。
「まあ、少しは痛むが……お前なら大丈夫だろwwww」
義男は軽薄な笑い声をあげながら、小瓶をさらに押しつけてくる。
――その言い方からして、堕胎の薬なのかもしれない。
挿絵:https://kakuyomu.jp/users/penpenkusanosuke/news/822139838714618312
だが、その瓶を見た瞬間、ヒロミの瞳から光が消えた。
絶望――その言葉がぴたりと当てはまる表情だった。
――隊長……信じていたのに。
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちる音がした。
それは、義男に対する信頼の崩壊なのか。
それとも、自分が“信じていたもの”そのものが崩れた音なのか。
義男が隊に入ったのは、ヒロミよりも後だった。
だが、持ち前の明るさで皆をまとめ上げ、いつしか隊長にまで上り詰めた。
そして事あるごとに、いつもヒロミに気をかけてくれていた。
「お前、寂しいんだろ……俺だったら、いつでも話を聞くぜ」
男遊びをしていたヒロミを咎めることもなく、彼はただ心配してくれた。
「俺、前の仕事柄、寂しい女をたくさん見てきたんだ……」
そのときの義男の眼差しは、本当にヒロミを思いやっているように見えた。
けれど、そんな言葉を受けてもヒロミは男遊びをやめられなかった。
それでも、義男は言い続けた。
「もっと自分を大切にしろよ。……お前だけを見てくれる人は、必ずいるから」
そのたびに、ヒロミの胸の奥はほんのりと温かくなった。
――隊長だけに見つめてほしい。
――隊長だけが見てくれていたら、それでいい。
そう思うたびに、ヒロミはわざと男と付き合い、義男に心配してもらおうとしていた。
もしかすると、ヒロミは気づかぬうちに義男へ恋をしていたのかもしれない。
だが――その小瓶を見た瞬間、すべてがまやかしだったと悟った。
義男はヒロミのことなど何とも思っていなかった。
いや、それどころか……その眼には、確かな“殺意”すら宿っているように見えた。
そう、この瞬間、ヒロミが信じていたものは完全に打ち砕かれたのだ。
挿絵:https://kakuyomu.jp/users/penpenkusanosuke/news/822139838714744270
というのも、この数日前――
ヒロミのもとに、あのタヌキの俊彦が訪れていたのである。
神民病院の外庭。
まだらに陽が差し込む木々の下、車いすに腰かけたヒロミの頬を、優しい風が撫でていく。
その前には、少し瘦せた男がひとり。ポケットに手を突っ込み、木にもたれかかっていた。
この男こそ、タヌキの魔装騎兵・俊彦である。
俊彦はヒロミに目を合わせず、足元を見つめたままつぶやくように言った。
「なあ……ヒロミ。お前、オニヒトデ隊長のこと、どう思う?」
突然の問いに、ヒロミはキョトンとした顔をする。
だが、やがて胸に手を当て、にっこりと微笑んだ。
「いい隊長だと思うよ。まぁ、顔はそこそこだけどねwwww」
俊彦は鼻で笑った。
「まぁ、お前の答えはそうだろうなwww」
その笑いには、どこか“哀れみ”のようなものが混じっていた。
おそらく、俊彦はヒロミの心の内を知っているのかもしれない。
だからこそ、ヒロミがオニヒトデ隊長――義男のことを悪く言うはずがないと分かっていたのだ。
いつもの俊彦なら、ここで話を切り上げていた。
のろけ話など聞いても何の得にもならないからだ。
だが、この日は違った。俊彦は話を続けた。
「……まぁ、俺の質問の仕方が悪かったな」
そう言うと、大きく息を吸い込み、意を決したようにヒロミへと向き直る。
――まさか、告白?
そう感じるほどに、その目は真剣だった。
「悪いwww俊彦www私、どの男とも付き合わないことにしてるんだwwww」
ヒロミは機先を制して言う。
もし告白され、それを断るとしたら、ちゃんとした理由が必要だ。
でなければ、オニヒトデ隊長への秘めた想いをさらけ出す羽目になる。
――それだけは……ちょっと、恥ずいじゃんwwww
だが、俊彦の口から出た言葉は、ヒロミの予想とはまるで違っていた。
「……お前、コアラのマーチがどうなったか、聞いているか?」
コアラのマーチ――それは、コアラの魔装騎兵・真彦のことだ。
そのあだ名は、“真彦(マサヒコ)”から転じた「マッチ」に、
さらに“コアラ”をかけ合わせた、ふざけた呼び名であった。
「確か……あの第六駐屯地の戦で死んだとか……」
ヒロミは言葉を詰まらせた。
あの時の光景は、今でもまぶたの裏に焼きついて離れない。
だがヒロミは、見てしまっていた。
ヨークに抱えられて撤退するその途中で――
オニヒトデ隊長の五本の棘が、マーチの背中を貫く瞬間を。
あの光景だけを見れば、
まるでオニヒトデ隊長がマーチを“殺した”ようにしか見えなかった。
だけど……
――きっと、苦しまないように一思いに止めを刺してあげたのかも。
ヒロミはそう思っていた。
いや、無理にそう思い込もうとしていたのだ。
「ああ……確かにひどかった。だが、かろうじて息はあったんだ……」
――生きていた⁉
その言葉は、ヒロミにとって衝撃だった。
ましてや、オニヒトデ隊長がマーチを殺したわけではなかったと知り、
ほんの少し、胸の奥が安堵で緩んだ。
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