『安達としまむら四方山話その2』



 田舎の祖母からゴンの画像がちょくちょく送られてきて、それを見る度、親愛と、息災と、擦り切れるような気持ちが交錯する。その感情の行き着く先は、目と鼻になることが多かった。

 心にできた水面に、雫の落ちる音が聞こえる。

 その音をかき消すように廊下から陽気な音が鳴っているので覗いたら、マラカスを振って軽快に歩くカバがいた。気に入ったのか、マラカス両手に歩き回っている姿をよく見る。

「そこの暇そうなの」

 ピタっと一時停止する。「うーむ」と考え込んだ後、自分のことではないなと判断してマラカスを陽気にシャカシャカ再開した。

「違ってないぞ」

 なんと、と片足で飛び跳ねてからこっちにやってきた。

「まさかわたしとは思いませんでしたぞ」

「こっちはそのまさかがまさかって感じだけどね。しかし元気そうね」

「ご飯の進む季節になりましたからな」

「あんた進まない季節なんてあるの?」

「ありませんが……」

 健康で結構。そしてほっぺがつやつやしているカバを眺めていてふと思いつく。

「なんかポーズ取ってみて」

 カバがまたも「うーむ」と悩んだ末、「やー」アリクイの威嚇みたいに両腕を広げた。

 ま、これでいいやと撮ってばあちゃんに送ってみた。

 反応がすぐに来る。

『なにこの楽しそうな生物は!』

 食いつき方に母親との血の繋がりを感じさせた。

『今度の夏には一緒に遊びに行くよ』

 今年は置いていかないで、連れていくだろう。

 なにも変わらないようで、少しは変わっているものがあることを知る。

 その威嚇を続けるカバの頭を、なんとなく撫でた。



「じゃあこっちとこっちなら、どっちが好き?」

「んー…………こっち」

 ほんのり生地に甘い味付けがされている方のパンを選ぶと、「なるほどね」としまむらがそのパンをちぎって、口元に運ぶ。確かめるようにゆっくりと咀嚼して、「うん」と飲み込んだ。

 ホテルから少し坂を下って、大きな通りから一本外れた市街地の途中で見つけたパン屋では香ばしく、そして少し懐かしい空気を感じられた。前の旅行でも、地域は違えどもこんなパン屋に寄った気がした。買ったパンを外のテーブルで食べていいとのことで、朝食をそのまま日の下で取っていた。

「なるほど、こういう系ね。チーズ系。で、チーズがちょっと甘いのかな」

「果物の風味があるね」

 しまむらは最近、私にこうやって味を尋ねることが多い。食べ比べさせて、どっちが好きかと。私は味に関心が薄いのは自覚しているけど、聞かれたらちゃんと味わって、答えることにしている。

「安達の好みを知りたいだけだよ」

 擦れたように乾いた色合いの壁を背景に、しまむらが私の瞳に浮かぶ疑問に答える。

「それを理解できた方が、安達を喜ばせられるし」

 十代のしまむらだったら、きっと口にはしない、素直な動機。

 濾過されたような、ざらつきのない願いの触り心地に震える。

「旅行先で色んなものと、色んな安達を見る。ほら、いい感じ」

 指を二本立てたしまむらがそれを躍らせて、屈託なく笑う。

 傘を被ったように雲の向こうに隠れた朝日と空が、その優しさに滲む。

 しまむらは、優しくなった。いつかの頃よりずっと、それを感じる。

 正確には、秘めた優しさを隠さなくなった。私もまた、しまむらに隠すものはもうない。

 ぶつけていいのだと、そのすべてを信じられた。

 私は世界で、しまむら以外に関心を持てないそんな生き物のまま一生過ごすつもりだったけれど。

 しまむらが私を知ろうとしてくれることに、応えたい。

 好きになっていこうと思う。私の好きなものを喜ぶ、しまむらを見るために。



「床を掃除してほしいのかな? どうかな?」

「はよやれ」

 なぜもったいぶれる立場だと思ってるんだお前は、と足の動きで指図する。

「じゃあこっち半分がわたしで日野はそっちなっ」

「お前な」

 でもやった、暇だから。二人で庭に面した外の廊下を拭いていたら、通りかかったお手伝いさんが目を細めてこっちを見てきた。

 高校を卒業して何年か経った後、いつの間にか永藤がうちの家に就職していた。自称と採用の狭間にいるそいつはお手伝いさんの一員となった。もちろん、完全に縁故採用だ。ちなみに給料はない。本当にない。その代わり衣食住がこの家で保障されている。

 早い話、単にうちに住み着いただけとも言う。池に勝手に住み始めた生物と大差ない。本人は気候のいい時期は庭にテントを貼って生活したいとか計画している。しかも気まぐれに実家に帰るときもある奔放ぶりで、そういうときはなんならわたしも泊まりに行く。今日もそうだった。

 勤務態度が適当でも、働くだけわたしより立派かもしれない。わたしは本当に労働していない。

 どうせ満たされて生まれてきたなら、それを享受する。

 こんな簡単に生きていけることに、今は、割と満足だった。

 二人で入っても持て余す風呂も、手入れを諦めたくなるほど広大な庭も、使っていない部屋を把握しているやつがいるのかも分からないほど広い家も最初から全部、そこにあった。

 だからまぁ……それを、楽しもうと今は思った。

 お昼が過ぎてから、二人で永藤の家に向かう。大きなリュックを背負う永藤は、うちに住むようになってから眼鏡をかけていない。こいつが眼鏡をかけ始めた理由を知っているから、わたしはなにも言わない。その永藤の視線が上から来るので、「なんだ」と見上げ返す。

「日野が和服をよく着るようになったから、わたしはご機嫌なのさ」

「これは……ま、慣れたら服選ぶの楽だからな」

 もう一つの理由は、誰が本人に言うかと流した。

 永藤の店の外観は、わたしが子供のころからなにも変わっていない。周りは、時の流れに少しずつ風化していく中で。それが時々、なぜか凄く嬉しい。肉のセール日を知らせる看板を置いている永藤の母親が振り向いて、こちらに気づく。

「あ、帰ってきた」

「凱旋」

 うおおおおお、とやる気なさそうに腕を上げて母親に立ち向かっていくアホが軽く返り討ちにされて、ぐるぐる回りながら店の奥に入っていく。あいつ、行動が五歳くらいからびっくりするくらい変わらんな。

「おばさん、こんにちは……」

「晶ちゃんも、おかえり」

 前より少し白髪が増えたおばさんが、にこにこと、出迎えてくれる。

 一拍置いて、笑う。

 わたしは日野の子で、それは永遠に変わらなくて、それでも。

「ただいま」

 もう二人で入るには狭すぎる風呂、庭なんてない、部屋はかくれんぼもできない。

 だけど、心がどっかりと、永藤家に座り込んだ。

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