『わたしの時の止め方・前編』
最初はただ純粋に止めてみたかった。時間を。
だから練習を始めた。時間を止める練習を。自分の部屋でなにするかといえば、時を止めるために叫んだり腕を広げたりしていた。時計の針をじっと見つめる練習もした。これは三分くらいで寝られるという副産物を得た。とまぁそんな調子を、ずっと続けた。
幼稚園から十年くらい。夢は覚めることなく、時を進めることなく。
意志だけは既に時の流れを超越していた。
学校ではえへほへへと女子仲間にかぁるい話に花咲かせながら、家に帰れば止まれ止まれと叫んでは腕を広げていた。幸い、親に心配されることなく順調に時間は溶けていった。
で、その結果。
「止まった」
高校二年生の夏を前にしてついに、実を結んだのだった。
下校中の信号が変わる直前の、何気ない時だった。点滅する青信号を見上げて、止まれと軽い気持ちで念じた結果、世界が動きを失った。そのままてってってと交差点を渡り切って、音が蘇り、心臓が雄叫びを上げた。飛び跳ねて、そのまま振り上げたこぶしが空を突き破りそうだった。
コツさえ分かれば、後は感覚が勝手に仕上げた。
頭の中でストップウォッチを押すような、そんなイメージが完成する。
あんまり気合は必要なかったらしい。まぁ、成果が出たのならよし。
十年くらい頭を狂わせて粘ればこんな力にも到達できるのであった。
人間の可能性というものに心身が震える。
わたしに与えられたのは、五秒間の時間停止。
五秒間!
すげぇ、って思った。最初は。
これですべてが思いのままとさえ勢いづいた。最初は。
世界の支配者の気分で登校したり、授業を受けたり、家に帰って猫と戯れたりして。
その間、わたしの頭は人生でこれほど使ったことがないくらい回転したわけだけど。
「五秒じゃなんにもできねへっへぇぇぇぇぇぇ!」
丸二日悩んだ末の結論を叫ぶ。
五秒というのは思いの外、現代社会では短すぎる時間なのだった。
わたしの発想が貧困なだけなのか? 悪党の素質がないのか? 町を歩いていても学校の中でもなにも思いつかない。いや思いつくんだけど、実現できるかと考えると怪しい。
結局できそうなのはすれ違った嫌なやつを叩いて逃げるのと、女子のスカートを覗くことくらいだった。小悪党にもほどがある。あともう一つ思いついたしそれはなかなかに凶悪なのだけど、犯罪じゃんって気分が萎んでしまう。人殴るのも下着覗くのも立派な犯罪なのだけど、ランクが三つ四つ上の悪事だ。やりたいかというと、まったく理由がない。
「んー……」
時を止めた町を歩いても五秒ではなぁ。人混みを抜けるときにはちょっと便利なくらいで終わってしまう。
とりあえず、家の猫とテレビとスマホを相手に様々に試した結果をまとめる。
・止められる時間は五秒。それ以上は無理だし、それ以下で解除もできない。
・効果範囲は多分世界中。何回止めても騒ぎがどこにも広がらないから、止まった時の中を動けるのはわたしだけと推察できる。ネットのない世界の人のことは知らん。
・時が止まっている相手は別に硬くない。でも動かすとそのままの体重だから重い。
ぐらいか。そこまで取り立てることのない標準的な時間停止である。標準ってなに。
五秒じゃなーと勉強机に頬杖を深々突く。五秒だと可愛い子のスカートの中を覗いて出会いを始めることもできない。攻撃を避けることはできるだろうけど攻撃ってなんだよという話である。わたしの高校生活に闘争は無縁だった、大変ありがたいことに。
とまぁ、こんな調子で。まったく活用できない。
更に二日悩んだところで、限界を感じる。
一人で考えるのを諦めて、仲間を増やすことにした。
自慢したかったという面もあるのは否めなかった。
「ということで時を止められるんだよわたし」
「すごすぎない?」
そういう割に声に熱はまったくなく、水分の抜けた草木よりもカリカリだ。
昼休みの食堂に強引に連れてきた小倉は学食の方しか見ていなかった。
小倉は今難しい顔をしている同級生だ。普段はもう少し温厚そうに表情が柔らかい。髪は少し短めで薄く茶色に染めている。ミルクココアブラウンとか聞いて、美味そうな頭してるんだなこいつと思ったのを覚えている。
一年の頃から女子バスケットに夢中で、ボールをばむばむ弾ませている。活躍している方らしく、後輩の女子もきゃっきゃと弾んでいる。かは知らない。少なくとも同級生の男子からは結構人気がある。小倉に話しかける男子の態度やらを近くで見ていれば自然、伝わってくるのはあるものだ。なんでも清涼感なるものがあるのがいいらしい。
つまり言われたことないわたしは爽やかではないということだ。
えぇー。
それはどうでもいいとして。
そんな小倉のあだ名はアンパン。顔が丸いわけではなく、名字から連想でアンパンになっていた。わたしが勝手に言いだしただけのあだ名は今や周囲に広がっていて。
だから今のわたしはこいつを小倉と呼んでいる。
だってみんなが使ってるあだ名なんて……なんか、面白くないし。
「生玉ねぎはちょっと嫌なんだよね」
小倉が付け合わせのサラダに難色を示す。露骨にわたしの皿に移したがって、箸がうろうろしていた。しかし今、誰が玉ねぎの話をしたのか。
「話聞いてる?」
「聞いてないよ」
「あ、やっぱり。じゃあもう一回説明するね」
「聞かないよ。それより玉ねぎほら」
「ほらじゃないが」
ぴろーんと端っこ摘まれた玉ねぎがわたしの皿に運び込まれる。食べてみると少し辛みがあってこれが苦手らしい。もしゃもしゃしている間に次々に玉ねぎがやってくる。
「じゃあこれ食べたら聞いてよ」
「聞いたよ」
「なんなんだきみは」
「五秒時間を止められるんでしょ」
「そうそうそうそうそうそう」
ちゃんと聞いているじゃないか。で、なにその淡泊な反応は。
逆上がりできるようになったよの方がまだ感動してくれそうだった。
「信じてないな?」
「どうだろ。目が本気だし、もしかしたら本当かなとは思ってるけど」
「思ってる割にめんどくさがってないか」
「あんたが時間止められて、じゃあなにみたいなところもある」
「えー、止めたらさー……こう、悪事の限りをですね」
「そんなことできるやつじゃないでしょ」
小倉とは高校入学時からの、そこそこの付き合いだけど見透かされているようだった。
「と、とりあえず信じなさい」
「んー」
「じゃ、じゃあラーメンを時間止めている間に全部食べちゃうぜ」
またたきの間にどんぶりが空になったら認めざるを得まい。
「いやあんた、五秒ではどっちみち無理」
「とまれぃ」
止める。そしてしゃかりきにラーメンに向き合う。ざぱぁっと箸で掬って、がーっと。
「あっつ!」
温度は変わらなかった。むしろ時間止めたら絶対変わらないのか? わからん。
そして悲鳴を上げている間にあっさりと停止が解けて、小倉の冷めた視線を頂戴する。
「舌火傷しちゃった」
「話もういい? もういいね」
「待ってって。じゃあそうだなー……」
ひりひりする舌を気にしながら考え込む。どうやって証明したものか。
「とりあえずご飯食べてからやろう」
「はい」
一応まだ付き合ってくれるだけ、小倉はいいやつなのだ。
食べている間に思いついたので、小倉を次はグラウンドに連れていく。
「今からわたしが時間を止めて走る」
「はぁ」
そのめんどくさそうな反応にくじけそうだから手心が欲しい。
「スマホで秒数確認しててよ。五秒でめいっぱい走って距離開けるから」
「なるほど」
わたしのやろうとしていることは伝わったらしい。小倉は電話を今持っていないので、わたしのスマホを貸す。わたしは小倉の隣に立って、足を伸ばして準備する。
昼休みのグラウンドは梅雨の空気が読めていないくらいの青空を出迎えていた。待っている間でもじりじり、髪と鼻の先が焼ける。夏の到来を他の人より先に感じる。
そう、もしかするとそれは当たり前なのかもしれない。
もう百回くらいは時を止めているから、わたしは世界よりちょっとだけ先にいるのだ。
小倉が指で〇を作った瞬間、わたしは頭のストップウォッチを押した。
時が止まったのを確認もしないで「いーちっ」秒数を大声で刻みながら走り出す。にーぃ、さーんと叫んでどたどた走る。昼ご飯の直後に全力でばたばたしているためか身体が重い。でも距離を稼げば稼ぐほど信じてもらえる気がして、懸命に腕を振った。
グラウンドの途中で「ごっ」前のめりに止まって、振り返る。
時間を確認した小倉の目が丸くなっているのが見えた。
「どうだっ」
フリスビーを拾ってきた犬くらいの調子で小倉の元に戻る。
「驚いた。いや、これはさすがに」
わたしの顔とスマホの画面を何度も見比べている、小倉の反応に息を切らしながら満足する。「体力ないね」とそっちにも驚かれたけど、そこはほっといてほしい。
「これは……超常現象は起きてるね、確実に」
「だろぉ?」
だっはははとつい得意げになってしまう。あー、なんかすっとした。
「あ、でもワープの可能性もあるのか」
「わぁぷ?」
「時間を止めたんじゃなくて、瞬間移動したのかもってこと」
小倉はなかなか疑り深い。でも確かに目にも止まらない速さで動いたというのもあり得るのか。凄い速度と時間停止。違いをはっきり出すためには、うーん……。
「んー、じゃあもう一つ証明してみよう」
小倉にスマホを返してもらいながら、カメラを起動する。
「これはあまりやりたくなかったのだが」
怪訝な顔のまま時間を失った小倉を見届けて、小倉のスカートを少しめくった。極力直接は見ないようにしながら撮影ボタンを押して、すぐにスカートを戻す。そして同じく可能な限り画面を見ないようにしながら、素早く撮ったそれを表示する。
丁度、世界が時を取り戻したのを見て、小倉を見上げた。
小倉の方がちょっとだけ背は高い。
「はい」
小倉に撮ったばかりのそれを見せる。小倉は最初、きょとんとしていた。そして映っているものがなにかを理解したのを示すように「はぁ!?」と声が裏返った。声が角ばっていてちょっと怖い。などと腰が引けていたら、顔を真っ赤にした小倉の、運動部仕込みのしなやかな腕に頭をどつかれた。
わたしの足元がぐらつくくらいには本気だった。
「ぬお、ぬお、ぬお」
「ばっかじゃねえの!?」
「でもほら、凄いスピードで操作してもさ、音には気づけるでしょ。多分」
小倉にはカメラを使った音さえ認識できないはずなのだ。これが、時を止めたことの証拠になる。とまぁわたしは説明したわけなのだけど、小倉はそれどころではなさそうだった。
「ばか、ぼけ、ばか!」
もう一回頭を叩かれた。がつんがつん来た。わたしはちゃんと気を遣って見てないのに。
「上手く撮れてた?」
「うるさい」
勝手に人のスマホを操作して、恐らく写真を消去してしまう。終えてから雑に投げてきた。角がわたしのこめかみに当たるくらいには雑。そんなに怒らなくても、と思ったけど怒るくらいで済ましているだけでも寛大なのかもしれない。
唸るような小倉の声が怖い。こっちから声をかけようとしたら「がぅっ!」吠えて牽制された。
「ひぃ」
「自分の下着撮ればよかったじゃん!」
「そんなことしたら変態じゃん!」
「うるさい変質者!」
「なにおぅ!」
いやでも事実を並べるとおっしゃる通り。
「ごめんなさい」
すぐに萎れた花みたいに頭を下げた。小倉も荒げた声はすぐ落ち着く。
「いいよ、もう。怒ってない」
「うっそだぁ」
そんなスピード解決するくらいの勢いだったか?
「ねぇそれより、どんな風に撮ったのあんた」
「どんな?」
どんなとは。
「時間を止めてぱしゃっと」
「そこじゃなくて。どういう位置とか……姿勢とか、やり方とか……まさか下着を……」
小倉の声がもごもごして聞き取りづらい。撮影方法? なに聞きたいのかわかんね。
「スカートをちょっとぴろーっとめくって撮っただけ」
説明したら、小倉はますます赤くなってしまう。目の下が取り分けわかりやすい。縁取りでもしているのかっていうくらい赤くなっていて、触れたら粉でも取れそうだった。
「へんたい」
「あまりやりたくないって言ったのに」
「犯罪者はみんなそう言うんだ」
「そうなの?」
「知らない」
まだ大分カリカリしている様子だった。小倉はその場で肩を怒らせるようにしながらぐるぐる回って、それからわたしを見据える。視線の鋭さに思わず背筋が伸びた。
「ばか」
念押しのように呟いて、体育館の方へ歩いていく。肝心な話をさっぱりしていないので、わたしも小倉の後を追った。振り向く小倉が、もの凄くなにか言いたそうに唇を尖らせている。拗ねている子供みたいに見えて、ちょっとかわいく思えた。
「他の子には絶対するなよ」
「しないしない。小倉にだけ」
「私にもするなよ!」
ごもっとも。
小倉が正面を向く。
「するなよ」
なぜかもう一回言われた。フリ? と確認したいけどまた殴られそうだから止めた。
小倉は体育館の前で適当に靴を脱いで、揃えもしないで入っていく。仕方なくわたしが自分の分と合わせて揃えた。小倉はバスケットコート二つを横切るように歩いて、壇上に腰掛ける。その時地味に、壇に手もつかないで跳躍して座っていてなんだこいつこわって思った。どんな足腰しているんだろう。
隣に座ったら「ばか」と言われた。肩をつんと押したら「ばか」と言われた。
「ねえねぇわたしの名前が馬鹿で登録されてない?」
「くそばか」
案外、小倉もなにを言えばいいのか困っているのかもしれない。
わたしは時間を止めないで、流れるままに、少し考えて。
「せっかく時間を止められるんだから、少し特別っぽいことしたかったんだ」
ボールの弾む音がしない体育館を眺めながら、わたしなりに反省する。
「でも小倉を嫌な気持ちにさせることを考えてなかった。浮かれてた。自慢したかった。本当にごめんなさい。気の済むまで叩いていいよ。でもできれば友達ではいてほしい」
頭を下げるついでに小倉に差し出す。十回くらいなら耐えようと思った。たとえぐーでも。けどそれ以上に殴られたら、いくらでもと言った癖にキレて終わらせようと思った。
小倉の手がわたしの頭に載る。形はぱーだ。
そしてその手がわたしの髪をぐしゃぐしゃにしてくる。
「怒ってないってば。嫌っていうかさ、恥ずかしい……もういいよこの話は」
突き放すようにリリースされた。
「小倉お前友達か?」
「はいはいおともだち」
「おーぅ、マイフレーン」
小倉に抱き着く。わたしの方が小柄なので、しがみつくような形になる。
小倉の髪からは桃みたいな香りがした。
「友達やめたくなった」
わたしにがくがく揺らされながら、明後日の方を向く小倉がぽつりと呟く。
「なんで?」
「……なんでも」
離れろとばかりに押し返された。小倉の手は生温い。
「そうそう、それで時間停止の話なんだけど。小倉に話したのはさ、一緒にこの力を有効活用する方法を考えてほしくて」
遠回りを経て、やっと本題に入れた気がする。
「私も考えるの?」
そうそうと頷く。一人じゃ大して思いつかなかった、と言うと小倉は目を細める。
「五秒止められるなら、町中や学校でいくらでも悪さできそうだけど」
「んー、それがけっこう気軽に使えそうもないことに気づいてさ」
ふむ、と小倉が少し前屈みにこっちを覗いてくる。
「今の世の中、結構カメラが回ってるんだよね。どこで不自然な移動を撮られているかも分からない」
「それはありそう」
だから使える場所は屋内で、とか色々制限つけていくとやっぱり、窮屈なのだこの力。
「そういうわけで小倉、きみも考えるのだ」
「私が止めるわけじゃないしなぁ……」
そうなのだけど。そこは勢いで忘れよう。
「明日までにお互いに使い方考えてきてさ、凄いの考えた方が勝ちね」
「なにそれ……」
わたしの提案に小倉が少し笑う。
「分かった、明日までになんか考える」
「お、いいねー」
小倉なら付き合ってくれるだろうと思った、わたしの目は間違っていなかった。
「小倉は時間止められたらなにする? あ、これは軽い話だから適当でいいよ」
「中学時代にパス絶対してこないやつがいたけど、時間止めてそいつにボールぶつけたい」
「わぁ陰湿」
「どっちがさ。まぁ半分は冗談だけど、他に……五秒かぁ」
小倉がわたしをじっと見つめてくる。目を、頬を、それから唇を。
「なに?」
「ぱーんち」
しゅっと、小倉の手がわたしの鼻の前に突き出された。
「時間止めなくても当たりそうだわ」
「このやろ」
完全に止まってからのパンチを掴んで、やーだのきゃーだのじゃれた。
こういう時に時を止めれば簡単に勝てるのかぁと気づいたけど、別にやらなかった。
「そうだ。ちょっと、あんたのスマホ」
「はい?」
「見せて」
惚けている間に奪われる。「暗証番号」教えるか悩んだけど、いいかって言った。
「教えるなよそんな簡単に」
なぜか小倉に怒られた。
「なにするのさ」
「写真の確認。一枚だけじゃなかったらと思って」
小倉の画面をスライドする動きが早い速い。
「そんな気にしなくても……あ、いえ、すべてわたくしめのせいです」
わたしはゴミクズですくらいの気持ちで下手に出る。
「でも小倉の下着くらい見たことあるし」
そこまで貴重でもないのではございませんでしょうかという意味で申したのだが、小倉が凄い顔で固まった。誤解を招く発言だっただろうかと振り返り、招きそうだと思った。
「ほら更衣室で……授業前とかに」
意識したわけじゃなくて、一緒に着替えればそれくらい目に入るだろう。
そういう話よ、と身振り手振り込みで伝える。小倉は凄い顔を解いて、ぼそっと呟く。
「へんたい」
「なんでぇ?」
昼休みも終わりそうなので、そろそろ体育館を出ることにした。
入口で靴を履きながら、小倉がわたしに聞いてくる。
「ねぇ、なんでこの話を私にしたわけ?」
「んむ?」
「ていうか、他に誰か話した?」
「いやぁ他には別に」
親に話してもなんだし、不必要に広めても自分の首絞めそうだし、色んな意味で。
二人で歩き出したところで、小倉が話を続ける。
「他に乗ってきそうな友達いるじゃん。男子でも女子でも」
「でも小倉が一番仲いいし」
休日でもけっこー一緒に遊んだりするし。
それくらいの理由しかなかったのだけど、時間を止めてないのに、小倉の足が出遅れた。
後方の小倉を振り返って、む、となる。
「え、そう思ってたのわたしだけ? 早とちり?」
小倉は目を細めて、なんでか下唇をちょっと尖らせて。
足早に、わたしを抜き去っていく。
「多分、合ってる」
「多分ってなんや」
「多分だからだよ」
歩幅広めの小倉が校舎に戻って行ってしまう。
靴を履き替えた後、時を止めて、がんばって追い抜く。小倉からしたら急に目の前にわたしが生えてきたようなものなので、ぎょっとしているのが見て分かった。ふふふ。時間止めるの楽しい。
でも小倉はそれ以上反応しないで、「ばか」とわたしの頭を軽く叩いて階段を上っていく。
「なんやなんや」
階段を上る小倉を階段下に戻してみようかと一瞬考えた。
でも五秒でわたしの腕力でと検討した結果、無理と判断して大人しく階段を上る。
時間が足りない、と毎日暇だったのに最近痛感してばかりだ。
放課後、みんなと教室を出る前に小倉に声をかける。
「じゃー小倉、明日勝負だからね」
「はいはい」
なんの勝負と周りに聞かれたけど、適当に笑ってごまかした。
小倉は生玉ねぎを前にしたときくらいの難しそうな顔で部活に向かった。
で、その日の夜。
「おいどんなの考えてる?」
『あんたね』
「気になって寝られないのだ」
十一時くらいで小倉が寝るわけないと知っていたので、確認もしないでかけたらやっぱり起きている声だった。
「健康的な明日のために寝かせてくれ」
『べつに……あんまり考えてなかった』
「えー。じゃあ勉強とかしてたの? えらいじゃないか」
『……それよりさ、昼休みのことなんだけど』
「昼休み? 昼休みのどれ?」
『あんたも、下着撮って送って』
「は?」
アンタモシタギトッテオクッテ。
ぱんつ撮る、わたしあなた。
変換がとても難しかった。
『だからあんたも下着撮って送るの。それで許す』
「え、まだ許されてなかったの?」
『一生許すわけがないんですけど』
小倉の言い分はしごくもっともだった。こういうのは、許されるものじゃあ、ないよね。
それくらい、悪いことはしたのだ。
いやでもなぁと思いつつも、仕方ないのでベッドの上に下着を置いてカシャッとした。やや恥ずかしい。
すぐに送る。
「送ったよー」
『なにこれ』
「小倉ご所望の下着じゃないか」
『ばか。あんたの今履いてるやつを撮るの』
たわけ、とできた壺を割る陶芸家みたいな感覚で一蹴された。
「履いてるやつって……履いてるやつ?」
下を見る。短パンの下がどうなっているか想像して、自分のものなのに頬が熱くなる。
「え、もしかして小倉って変態?」
『黙れ』
「もういいよこの話って言ってなかった?」
『うっさい』
「許されなくてもいい気がしてきた」
『やっぱり、本当は悪いと思ってなかったんだ』
「思ってるけど……けど、でもねぇ、ねぇ?」
『あ、時間止めながら撮ってね』
「なんで!?」
『なんとなく』
そんな差なんて、小倉には分かるはずもないのに。
「ほ……本当に欲しいの? そんなの」
『欲しいとかじゃないから』
若干早口だった。
『たださ……』
「ただ」
『早くして』
悪いのはわたしであるという前提がある以上、どうあっても負けだった。
今履いているのは家用というか、履き心地優先というか……なので、少し高い方に履き替えるか悩んで、迷って、どうせならと履くことにした。
どうせならってなんだ。
なんで深夜に下着を履き替えないといけないんだ。とぶつぶつ言いながらもどの下着にするか、なぜか真剣に考慮してしまう。小倉に見せるやつ……見せるやつ? と頭が馬鹿になりそうな悩みに身を焦がすようだった。
悩み抜いた下着に足を通すとき、俯いた頭がそのまま完熟しすぎて転がり落ちるのではと心配になった。履いて、ああだこうだと何度も確認して、指を震わせながら携帯電話のカメラを操作する。こんな自撮り、初めてだ。初めてに決まっている。
頬が痒すぎて、ずっと掻いていたい。
どうせ分かるわけもないのに、律義に時を止める。
でも、わたしは止まらない。
どれだけ恥ずかしくても、目を瞑っても、わたし自身の時だけは止められない。
耳のこそばゆさ、増し続ける鼓動、置き場がなくて揺れ続ける膝。
そんな当たり前がもしかしたら、この能力の一番の問題かもしれなかった。
「かしゃっじゃないよもう……」
送信。
なにやってんだ、わたし。
目を瞑ったままじゃないと、耐えられないものに襲われ続ける。
『……………………………』
「なんだよぉ、なんだよぅ」
なんか言え、いや言うな、言え、と気持ちに突き刺さった旗がぱたぱた忙しい。
小倉は息を呑んでいるように思えた。こっちはその沈黙に耐えがたい。
『こういうの履いてるんだ』
「おいもう消しなさい」
『え?』
「え、じゃない。小倉のやつもすぐ消したんだから」
『ああうんそうね……』
歯切れがめちゃくちゃ悪い。じーっと、五秒数えて待つ。
「消したな?」
『消した消した』
「ほんとかよ! 見せなさい!」
『どうやって?』
「今から小倉の家に確認しに行く!」
『私んち知ってるの?』
「知らん!」
町をふらふらすることはあってもお互いの家に行ったことはない。
『教えないけど』
「じゃあ、そうだ明日時間止めて電話覗いちゃう」
『じゃあ明日は学校行かない』
「こ、来いよぉ。遊ぼうぜぇ」
『……これさぁ』
「ど、どれさぁ」
『えっちだね、思ったより』
えっち、って小倉の口から聞くと血液の温度が露骨に上昇するのを感じた。
人差し指の付け根がじくじく痛むように反応して、頬と耳の区別がつかないくらいどっちも等しく熱くなる。はぇ、あぇ、と舌が迷子になる。しばらく目の前が認識できなかった。どこも見ていないのに目を開いたままで、解消する方法が分からなかった。
ようやくそうしたバラバラな感覚が復旧して、慌ててつんのめるように言う。
「やっぱり消してないじゃん!」
『ねぇ』
「な、なに」
『ばかみたい』
「お……」
小倉の笑い声が電話越しに伝わってくる。身体の揺すりまで見えるようだった。
本当に楽しそうだから、こっちはつい言葉を失う。
『ばかだね』
「お、小倉も……ばかだ」
悪口にもなってない平坦な調子になってしまった。
小倉はそれさえ楽しむように、まだ笑っていた。
『しっかり消したよ。じゃあ寝る』
「ほんとか?」
『寝る』
「お、おやすみ」
小倉は満足そうに電話を切った。くそぅ、なんで電話しちゃったんだ。
後悔しながら、でも余韻として残ったのは小倉の気持ちのいい笑い声だった。
涼やかで、居心地の良ささえ覚える。
なるほどこれが清涼感。
「はぁー……」
人気あるわけだな、と思った。
でもそういう話のために電話したわけじゃないのだが。
結局、ちゃんと消したのか気になってなかなか寝られなかった。
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