『かつてを持たなかったものへ』
新城雅が風呂上がりからそのまま部屋に戻ると、扇風機の前にカナが転がっていた。
週末に岩谷カナの暮らす山小屋へと遊びに来て、雅がそのまま泊っていくのはいつの間にか毎週の出来事になっていた。
夏を迎えた山は、夜になると誰の耳も痛くなるほどに虫の鳴き声に包まれる。
先に風呂に浸かったカナの肌は、冷めきることなく紅潮している。
「あ、おかえるぃー」
「ただいま」
カナが起き上がりながら、へらーっと緩く笑う。そのカナの髪がまだ濡れているのを見て、雅がバスタオル片手に動く。後ろに回り、カナの髪を拭き始めた。
「あらあらすいません」
髪を拭かれたままのカナがほけーっと口を開けながら、雅を見上げる。雅はその視線を受けて、やや目もとを曇らせる。口も苦いものを受けたように曲がっていた。
「傷、気になるかな?」
雅が自身の額をなぞる。額には流れ星を描くような、斜線の傷跡があった。傷は大きく、髪で隠しきれないほどで否応にも人目を引く。しかしカナが見ているのはそうした点ではなく、もっと広いものだった。
「あ、いえめちゃくちゃ美人だなーって思ってただけですはい」
カナの目はぼやーっと、全体を捉えていた。目の焦点を合わすことなく眺めた雅は、金色の優しい綿毛のようにさえ映り、カナはメルヒェーンと思う。
恐らく本人にもどんな感想か分かっていない。
雅は安堵したように息を吐きながら、いつものように少し笑う。
「そう? ありがとう」
「おほほ、言われなれてるかんじー」
「顔も知らない親から貰ったのは見た目くらいだけど、今初めて感謝した気がするよ」
「あー……」
親を一切想像できないってどんな気分なのだろうと、カナは少し考えて。
分からないので、何も言わないでおくことにした。
それよりも、とまた雅を見上げる。見る度に、美人だなぁとカナは感心する。
カナにとって雅は、吐息を交える美術品のような感動さえあった。
「あの、ほんとにあたしのこと……あのねのねですか?」
「さぁーどうかなー」
「いえちゃんと言います……好きですか? あたし」
カナが立てた膝に手を置きながら尋ねる。雅は不思議がる様子もなく答える。
「大好きだけど?」
「おほ、おほ」
カナが照れたように咳き込む。雅は拭き終えたバスタオルをカナの頭にかけたまま、その顔を覗く。
「どうかした?」
「こんなレベル高いびゅーちほと釣り合い取れているかなと日々懊悩とするわたくし」
「きみはもっと自信を持っていいよ」
「いやその辺は全然自信ないっちゅーかですね……ほら、あたし我ながら貧相な感じじゃないですか、どこもかしこも。こことかね!」
ばんばんと胸を叩いて呻く。雅はさらりと爽やかに肯定する。
「気にしなくていいよ。私実はロリコンなんだ」
「じゃあなんの問題もないですね!」
がっはははとカナが勢いだけで笑う。
「じゃーあれですねー、これからあたしがドッカンサイズになったら困っちゃうなー!」
「えっ、うん」
「無理ですねー! はいー!」
カナの上半身がぐねぐね激しく、左右に暴れる。それを「うるさい」と廊下を通りかかった師匠が一言残して通り過ぎていく。「あぃー」とカナが首を引っ込めながら返事をするも当然、届いていない。
「ま、まー冗談はさておいてですね」
「いやきみの薄い胸が本当に好きだよ」
「……ま、ままー」
「カナちゃんは気づいてないけど、私は隙あらばその胸元を見て触りたいと思ってる」
「あべあべおぼべ」
「ちなみにカナちゃんがお話の最中も私の胸をちょこちょこ見ているのも知っている」
「ほ、ほぎーほぎー」
もはや人語を忘れたように、耳の赤いカナが奇声と共に身をよじる。
一方の雅は、そんなカナを楽しげに、満足げに眺めて。
「ほら、釣り合いがちゃんと取れていると思わないかい?」
「な、な、なる、ほどー……ほどー?」
カナの頭が左右に景気よく曲がっては戻り、やがて納得してしまう。
深く考えると頭が爆発するであろうとカナは判断したのだった。
「あともいっこ気になってるんですのね」
「はいどうぞ」
雅が促すと、カナは体育座りの姿勢になりながら、もごもごと口を動かす。
「今まで、何人くらいとお付き合いしてきたんですか?」
「カナちゃん?」
「いやべつに、ぜんぜん、気になりませんけど……」
言い訳をもぞもぞ続けるカナに、一拍置いて、あはっ、と雅が心底嬉しそうに弾んだ声を上げた。
「嬉しいな。嫉妬してくれるんだ、きみが」
「し、してませーぬ」
カナが頭を振って反論する。「ただー……」と、唇が細かく動く。
「ただ?」
「ただそのー……たとえば、ほら、ちっすしたことありますけど、その時にあたしが感じたものを他の誰かも知ってて、その他の誰かもそういう気持ちを知っているんだ、とか……しんじょー、みやちゃん、みやび? みや……みやび、さんの方もその時は相手のことがちょーすきって見えてたんだなぁって想像して、気持ちがそっちに重なってたんだって思うと、なんか……なんかじゃないですか」
たどたどしく言葉を繋いで、「なに話してんだ……」と自嘲をこぼして。
「あれなんか気持ち悪いなあたし……」
こんな人間だっただろうか、とカナが自分に疑問を抱く。
いつもただ情けなく笑っているやつ。そんな自己評価と違う、確かな引っかかり。
心がそこで削れて、ガリガリ音を立てながらも、踏みとどまろうとしている。
その変化に戸惑い、カナは背中にいくつもの汗を浮かべていた。
「ほー」
「ほ?」
「ほっほぅ」
雅にしては珍しい、砕けた口調にカナが戸惑う。
「な、なんでしか」
「いやね……愛されるっていうのは存外、気持ちのいいものだなって」
「愛とな!」
カナにとっては大仰すぎる単語が放り込まれて、飛び跳ねる。
愛。愛ってなんだ、とカナが己に問う。
ぼへ、と二秒後には煙を吐いていた。
「今の質問だけど、正直に話した方がいい?」
「ど、どうぞ」
カナが珍しく背筋を伸ばす。せり上がってくる頭を避けながら、雅は言った。
「私はね、ずっと人間が嫌いだった」
「……はぁ」
カナが曖昧に相槌を打つ。待つ。待つ。何もないので、あれ、と首を傾げる。
「今のが答えなんだけど」
「て、哲学的ですな」
「もう少し簡単な方がいいかい?」
「レベルを三段階は下げていただければ……」
三段で大丈夫だろうかと、カナは直後に不安に駆られた。
「じゃ、小難しい理由はやめて」
「はいっす」
「経緯を言ってしまえば学校に通ってきたわけでもないから、同年代と出会う機会もなくてね……更に言うと、近づいてくる人間は片っ端から兄さんが投げちゃっていたんだ」
「そ、それはそれは」
カナが出会った雅の兄は正に優男といった風貌だったので、投げ飛ばすイメージが湧かない。
「キスしたのもきみが初めてなんだよ。だからあの時は少し緊張していた」
「そ、そーですか」
カナがその時の様子を思い出そうとして、けれど頭が真っ白になっていてなにも記憶に残っていないことを理解して諦めて、それから。
「そっかぁ」
自然と頬をほころばせていた。
自分で気づかないほどに緩み、ぎこちなさもなく笑って。
本人ではなく、雅だけがその表情を知っていた。
「あ、じゃー、おにーさんが生きてたら、あたしもそいやーって放り投げられたのか……」
かもね、と雅は目を伏せながらも笑う。
「兄はもういない。だからこれからは自分で、守りたいものを守るよ」
雅がカナを、覆いかぶさるように抱きしめる。
カナは前へと流れる雅の匂いや体温に顔を埋めるような感覚を覚えながら、じっと、ただ暖かいものを見守るのだった。
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