『アイで空が落ちてくる 後半』【再掲載】

 ※この作品は「入間の間」に過去掲載された小説の再掲載になります。

(初出:「電撃文庫MAGAZINE Vol.18」2011年2月10日)



 それからは本格的に、リンゴさんとの手紙のやり取りが始まった。ぼくの大して面白みのない、食料を得る為の大冒険は省略するとして、そのやり取りの内容を語ることにする。

 全部書くと膨大すぎるから、ある程度、纏めた上で。

『へぇぇ、津波が。空を覆うほどとか、怖いね、私の住んでいる場所も海が近いから。そういうのちょっと分かるな。台風のときとか、よく机の下に隠れるよ。効果あると思う?』

『ないと思います』

『あらら。そうそう、まだ言ってなかったけど私は、パラレルワールドを研究しているの。本当はもっと色々と取り扱っているけど、本命はそれかな。だから他の人より期待がもてる、かも。でも私よりこの猫、ヤマト(黒猫だからこう名づけてみたの。いい?)の方が重要なのよね、きっと。この猫のどこにそんな奇跡が隠されているのかしら。ウルトラマンのスペシウムぶくろみたいに、並行世界ぶくろとか中に備えていたりして。……解剖しちゃうかっ』

『やめてください』

『冗談、冗談! でもね、シロ君には悪い気もするけど私、ワクワクしてるの。ヤマトとシロ君の存在を世の中に公表したら、とても信じてくれないと思う。けど、大騒ぎになるのも事実だわ。宇宙旅行より途方もない可能性が、こうして現実にあるんだもの。素直に感動してる』

『ぼくにはピンとこないけど、リンゴさんがよろこぶならうれしいです』

『ヤマトを観察していけば、私の研究は格段に進むわ。そうなれば近い将来、シロ君の住む地球へ行くことができるかも知れない。ヤマトの行き来の方法さえ解き明かせば、シロ君をこちらへご招待することもできる。そうなれば感動のご対面なんてものじゃないわね、泣くわ』

『ぼくも動いているネコが見たいです。それと、動いているリンゴさんが見てみたいです』

 手紙にそう書いたら次のとき、小さな写真が手紙の最後に貼りつけてあった。

『動いていないリンゴさんの写真を貼っておきました(笑)。それと動いていないけど、目を開いている猫の写真も。きみの写真はちょっと難しそうね、でもいつかきっと会いに行くから』

 リンゴさんはぼくの期待通りに美人だった。はにかんで、控えめに手を上げている。寝癖なのかわざとなのか、髪の毛の一部がピンと立っていた。私服らしく、半袖のシャツでほっそりした二の腕が綺麗だ。写真は自室らしく、映っている窓の向こう側に入道雲と淡い緑色の浜辺が見える。光の加減で色が変みたいだ。そして、その光を浴びている黒猫はしっかりと目を開けて、リンゴさんの側で大人しく座りこんでいる。本当に生きているんだ、と猫を見下ろす。

 目を閉じているこの猫が、向こう側で生き返る。いや、或いはこっちに来ると死ぬ? この猫は本来、どちらに住んでいたのだろう。リンゴさんのいるよく似た世界にもう一匹、この猫がいるのだろうか。それに、ぼくも。向こうに、ぼくはいるのかな。どんなぼくなんだろう。

 でも、あっちの世界とは言うけどあんまりこっちと変わらないんだな。火星みたいに別の星ってことではなくて、外国の人とやりとりをしている距離感だ。少しだけ身近であって嬉しい。

「ん? ……んー」

 写真をじぃっと眺めながら、首を傾げる。

 なんだか、リンゴさんに見覚えがある気がしたのだ。スカッと、写真が高速で頭の中を横切る感じ。一瞬だけその写真を見ることができるのだけれど、本当に時間が短くてなにも分からない。焦れったくて、でもなんとなく覚えがあって、苦悩してしまう。記憶の写真はぼくを嘲笑うように、ひらひらと宙を舞う。けれど決して長々と、ぼくの方に画像を向けはしない。

 もしかするとこっちの世界にいるリンゴさんと会ったのかな。そう考えて、思い出すのを諦めた。どちらにせよ、こっちにいる限りは生きていないだろう。残念で、少し泣きそうだけど。



『ふと思ったんだけど自動車を使えば、浅い水溜まりなら越えられるんじゃない?』

「おぉ」

 ある日、リンゴさんの発想に恐れ入った。そうかそうか、自動車を使えばいいのか。ぼくは感動した後、乗れるかなとすぐ不安になった。自動車は勿論、運転なんかしたことない。それどころか自転車も未だに乗れない。こんなぼくが自動車のハンドルを握っていいものか。

 それに越えた先に別の町があっても、そこに人がいるとは限らない。こんなに荒れ果て、無人となった町でも生まれ育った場所だから、離れることに不安がある。ぼくは相変わらず、リンゴさんと文通を始めてから三週間以上経っているけど、まだ本屋周辺で生活していた。

 本屋のまわりにはヤキトリ屋、オムレツ屋、回転寿司屋……と、食べ物屋がいっぱいある。寿司屋に冷凍してあった魚は冷凍庫が津波で壊れてほとんど腐っていたけど、うどんや唐揚げは無事そうなので、温めずに食べた。唐揚げは石のように硬かったけれど、久しぶりの肉は本当に美味しかった。これからは、空を飛ぶ鳥を見かける度にこの味を思い出しそうだ。

 それはともかく、別の町に行くかどうかである。ちょっと覗いてみるぐらいの気持ちで一度、ドライブに出かけるほど気楽ではいられない。心配性というか、恐がりというか。もし誰かいたとしても、リンゴさんみたいにぼくを歓迎してくれるとは限らないのだ。食い扶持が減るとか考えて、或いはぼくを食べるつもりで襲ってきたらたまったものじゃない。死ぬのは嫌だ。

 ということで、リンゴさんに相談してみることにした。やっぱり頼れるのは大人だ。

『うーん……難しいなぁ、迂闊なこと言えないし。正直言うと、シロ君とヤマトが危険になるというか、とても悪い想像だけど手紙を書ける状況じゃなくなったら、私は困っちゃうなぁ。感じ悪いかも知れないけれど、研究という点も含めてね。きみを助けられなくなるもの。だから危ないから止めといた方がいいかも。でも食べるものがなくなったら、そういうことも考えないとダメかな』

「そうだねぇ」

 深々と頷く。ということで向こう側へ行くことはあっさり諦めた。ぼくは変わらず、崩壊した本屋の中で寝転び、リンゴさんとの手紙のやり取りに毎日を終始させることにした。まだ食べ物の貯えはある。それにこの本屋という場所には、時間を潰すためにとてもいいものがある。

 ありきたりかも知れないけど、マンガだ。海水に濡れてふやけていたり、無事でも巻数がバラバラだったりして思うように続巻を追うことはできないけれど、ぼぅっと寝転んでいるよりはマシだ。主に起きている間、つまり夜に読むことになるので懐中電灯は欠かせない。懐中電灯は本屋の非常灯が輝いている場所の側に保管されていた。振って充電して使うやつだから、電池切れの心配はまだ遠い話になる、と思う。それまでずっと、ここにいるかは怪しいけど。

 それはさておき、手紙の返事を書かなければいけない。腕を組み、引くことを知らない寒気と悪寒に身体を震わせながら、頭を捻る。その頭は生温い水が中に溜まっているように、不快に熱く、そして重い。外での生活が続いているからか、体調を崩し気味になってきている。

 熱があるのかも知れない。風邪薬の類をどこで手に入れてこよう、と手紙の返事を考えているのに他のことまで検討し始めてしまう。そうなるとどの悩みも中途半端になって、なんの結論も出なくなるのだ。学校のテストで三択問題があって、答えに窮した結果、空欄で提出してしまう。それがぼくの性格だった。当たるかも知れないから、という理由で空欄を埋められないのだ。それで外れたとき、ガッカリするし。当たっても、実力じゃないから嬉しくないし。

「ああ、ダメだ」

 ばたん、と背中から倒れる。小説の字がへろへろと波打つぐらいに目眩がして、とても字を書けそうになかった。正確にはリンゴさんが理解してくれるような字を書けそうもない。早めに熱を引かせて、体調を整えないといけない。でも、そんなこと、どうやればいいんだ。

 火をつけて暖まることを考える。ぼく一人でそんなことしたら火事になるだろう、間違いなく。下手をすればぼくまで燃えそうだ。町が燃えても怒る人はいないだろうけど、しかしだからと気楽に放火できるほどの度胸もない。結局、ぼくは布で身体を蓑虫のように巻いて、背を丸める。貝のように身を固くして、昼間は眠っていけないというルールを破って目を瞑った。

 目を閉じると、ぼくが自動車に乗っているという映像が浮かぶ。ぼくは辿々しくも自動車のハンドルを握って、海水の溜まった道路を真っ直ぐ走り抜けようとする。高速で回るタイヤがバシャバシャ、水溜まりの抵抗に遭いながらも前へ、前へとぼくを進ませていく。

 そして道路を渡りきった先で目を白黒させながらも、自動車を停車させて隣の町に到着する。車から降りてみれば、そこにはなにがあるのか。ぼくの想像力は、そこまで描写しなかった。

 そうしてぼくは眠る。猫を腕の中に抱いて、死んだように力を抜く。



 目を覚ますと夕方近くになっていて、太陽が焼けこげていた。とても濃い橙色と、輪郭の黒色が混じり合っている。空は紫色と、火の鳥が広げた翼のようなオレンジ色が共存して、その境界線まではっきりと浮かぶようだった。夕焼けの終わりと夜の訪れを眺めて、目を擦る。

 体調は普通に最悪のままだった。「あ、あ、あー」喉もがらがらになって、症状が悪化している。去年、小学校のマラソン大会に出たくなくて風邪を引こうと努力したことを思い出す。体力のない子供にとって、マラソンはただの苦痛でしかなかった。今は、少しは体力がついただろうか。元から細くて、今は一層衰えた右腕を一瞥する。そこで、猫がいなくなっていることに気づいた。今回は尾っぽに手紙をつけていないまま、リンゴさんの元へ行ってしまった。

 ああ、勿体ないと後悔する。頭痛を抑えるように頭に手を添えて、俯く。ぼくの生きる意味になりつつある手紙のやり取りを損ねるなんて、生きていないのと同じだ。寝ている間、ぼくは死んでいたのだ。それは僕とリンゴさんの間を行き来する猫に近いのかも知れない。ひょっとしたら猫は起きている間はリンゴさんの元にいて、眠ると、ぼくのところへお邪魔しにくるんじゃないだろうか。 そんなことを想像しながら、また気怠い身体を横に倒す。座っていられない。額と目を手で覆って、うーとか、あーとか呻いてなにかを待った。猫の帰りとか、風邪の治りとか。ジッとしていれば大半のことが解決するんじゃないかと期待して、待ち続けた。

 猫がぼくのもとを何時に離れたかは定かじゃないけれど、帰ってくるまでにそう時間はかからなかった。夜も更けて、なにを食べても口の中が酸っぱく、かつ苦いことにしかめ面していたときだ。ぼくの手元にふっと、衝撃や前振りなく猫が現れた。相変わらず、唐突に。

 尾っぽには前回同様、リンゴさんの手紙つきだったので、安心する半面、なにを書いたのだろうと目を通してみる。字はまだぐにゃぐにゃと曲がって見えるので、目に力を入れた。

『どうしたの、手紙書くのが面倒になった? なんてね、だいじょうぶ? 辛かったら別に毎回、手紙書く必要ないからね。でも三回に一回ぐらいは欲しいぜ! ……あれかな、やっぱりそんな場所にいるとモチベーション維持が難しい? それとも調子悪くなった? きみの辛さとか、そういうものを理解することはできないけれど、グチはいくらでも聞くからね。不満とかは人にぶつけると、かなり楽になるよっ。相手が許してくれるなら、それもいいのさ』

 読み終えて、頭が酸欠みたいにクラクラした。熱の高ぶりが酷すぎて、目から血が流れているみたいに、粘膜が湿っている。リンゴさんの気遣いが嬉しくて、ぼくはまだ生きられる。

 そう思いこむことにした。不満は全部、腹ぺこなのだから呑みこんでしまえ。

 ふんぬらば、と。

 風邪薬を探しに、感覚のない身体を引きずって無人の町へと繰り出した。



 リンゴさんとの手紙のやり取りが始まって二ヶ月近く経った頃、食糧が尽きた。食べきれなかったものは腐り、鼻の穴が潰れるような腐臭を放つようになっていた。町全体に、その濁った茶色を掻き混ぜているような粘ついた臭いが浸透し始めている。どこへ行っても、だ。

 町が本格的に腐り始めたのだ、とぼくは感じる。小学校の理科で習ったけど、人の中には無数の微生物がいて、それがぼくたちを手助けしているらしい。町が巨大な生き物だとすれば、そこに住むぼくたちは微生物のようなものだったのだ。いなくなれば、維持できなくなる。

 暦の上では一ヶ月もすれば春だけど、暖かくなるにつれてこの臭いは増していくだろう。熟しすぎた果実がぼとぼと、空から降り注ぎ続けているような世界に包まれるぼくは、さながらその果汁を吸う虫の気分だった。腐った汁の中でヌルヌルとうごめくぼくは、醜悪だ。

「春になったら」

 過ごしやすくはなる。けれど臭いがどこまでもまとわりつくようになって、乾いた冬の中で身を震わせるよりも不快指数が高まるかも知れない。駐車場に転がっている自動車の上に体育座りしながら、晴天を見上げる。日向に憧れる猫のように日の下で、ジッと焼かれ続ける。

『研究を進展させるために、ヤマトを使って本格的に実験してみたいの。この実験各種がうまくいくなら、きみの場所へ行く方法が分かるかも知れない。でもやっぱりきみの許可がいるかなと思って。危ないこととか痛いことはしないと保証するけど、いいかな?』

 数時間前に来た手紙には、リンゴさんからのそんなお願いが書かれていた。ぼくはそれを手の中に握りながら、返事の内容を考える。実験。次に進もうとする。するとなにか、欠けるのではないかという心配がある。二年生から三年生へ進級したとき、クラス替えが行われて仲のいい友達が別の教室へ行ってしまったように。進むことだけが、最良とは限らない。

 でも反対する意味はなかった。ぼくはこのままずっと、何年もここで手紙のやり取りだけ続けて、飢餓感に苛まれながら生きることはできないと確信する。そしてぼくには、現状を打開することなどできない。できるのは閉鎖的な現実の外側にいるリンゴさんと、そこへ行くことのできる猫だけだ。ぼくもそちら側へ行きたいと願い、しかしそれは叶わない。住所とか、後は傾度とか緯度も前に質問されたけど、まともに答えきれなかった自分は実に無力だ。

 叶えるためには、リンゴさんと猫の実験にすべてを託すしかない。なるほど、ぼくに選択はなかった。

 でも、選択できないからこそ、疑問がぐるぐる巡ることを止めることもできない。

『ぼくはどうしてここにいると思いますか?』

 脈絡を無視して、そんな質問を送り返してみる。ぼくは今、一番それが知りたかったから。

 なんでぼくなんだろう、と。

 そしてその手紙を送り届けたことが機になったように、猫は帰ってこなくなった。



 最初の頃は気が気じゃなかった。もう一度、空から海が落ちてくることに比肩するほどの驚愕を味わい、のたうち回った。誰にも触られていないのに身体が痛くなるなんて初めてだ。超能力で遠くから苛められているように内臓が痛み、身体をくの字に折っていなければ立つこともできなかった。見えない銃でぼかすか、いい的にされたぼくが撃ち抜かれる。そして倒れた。

 三日以上、猫が帰ってこなかったことで本格的に焦りだしたぼくは来た道を逆走していった。道路の途中に猫が転がっているかも知れない、戻ってくる場所を間違えたのかも知れない。猫というより心の平穏を探し求めて、俯きながら歩き続けた。頭と耳の裏はカッカと熱を帯びて、外の寒さに気づくことがない。同時に降り注ぐ光にも無頓着だった。ぐんぐんぐんと、戻る。

 引き返している途中で太陽が沈み、また空へと昇り、合間にぼくは倒れる。眠気だけでなく、空腹が幾度も襲いかかってきた。気が動転して、残った携帯食料の類はすべて本屋に置き去りとなっていた。中途半端に破った小説とペンもない。猫もない。あるのはぼくだけだった。

 なにかの冗談だろう、と半笑いで否定する。急に現れて、急に失われる。その繰り返しだったのに、いきなり失いっぱなしなんて。死んだ猫とリンゴさんの手紙が、ぼくを生きる意味になっていたのに。中途半端に餌づけされて、唐突にその餌を打ち切られてしまったようなものだ。ぼくの渇望は吐き気となり、げぇげぇ、固形物の少ない水のような吐瀉物をまき散らす。

 指のささくれみたいに迫り上がり、破損している道路に汚いものが降りかかる。けれど咎める人はどこにもいなくて、道路に寝転ぶぼくは自動車に轢かれることもなく、潮と腐った果実の臭いが肌を湿っぽく包む。死んだ猫の暖かさがぼくの記憶からぺりぺり、剥がれ落ちる。

 なんでぼくが、こんなところにいるんだ。

 せめてその答えだけ届けて欲しかった。



 二週間が経って、遂に猫の帰還を諦めた。

 自分の家の前まで辿り着いたことで、なにかが失われたのだ。

 本屋へ戻る気にもなれなくて、荷物一つないぼくはふらふら、適当に道を行く。

 行くアテもなくさまよう日がまた始まるのだ。喪失感は特になかった。きっと数日が過ぎたあたりに、それがドッと押し寄せてくる。心は光速で、感情は音速なのだ。

 ひたひた迫り来るそれから少しでも逃れようと、大またで進む。津波が訪れた直後より崩壊の進んだ、町でもっともビルの多い場所はシャッター街だった。昔は盛り上がって、賑やかだったらしいけれど近年は人通りも途絶えつつあった。今や、町のどこに行ってもぼくだけだ。

 のた、のった、と一歩ごとに重心を傾けて妙な溜めを作らないと、足が動かないようになっていた。足の裏の皮膚が割れてさらけ出された赤い肉は茶色になり、変色した爪の先端は潰れて、自動車のフロントガラスにヒビでも入っているようだった。微細に白い線が走り、今にも砕けてしまいそうだ。猫探しのとき、身体が限界なのに無理して歩いた結果がこれだ。

 新調したはずの服は、いつの間にかまた、様々な生地を織り込んだボロ布になっていた。砂漠を旅する人の外套みたいな形になっている、出来は雲泥の差だけど。人の家から発見して巻いているマフラーだけが多分、浮いているように綺麗だろう。ぼくとボロ布は背景である。

 鼻を啜る、と思う。肩が少し上がったからできている、と思う。風にさらされすぎた顔は感覚が麻痺して、鼻水が垂れていることにも気づけない。手で覆うように触れても、なにかごわごわしたものがあるなと感じるだけでその熱がまるで伝わらない。凍傷に近いのかな。

 今なら腐臭を吸いこんでも理解できないので、早く春が訪れないかという気になる。季節が巡って暖かくなれば、冬眠している動物がひょっこり、地上に顔を出してくるかも知れない。今ならそれがクマでも、擦り寄っていくことだろう。どうせこの身体では逃げられないし。

 途中、ドミノのように道路に横倒しになったビルが、ぼくの道中を塞ぐ。周囲を見渡し、まだ辛うじて立っているビル群の隙間に通れそうな道を見つける。そちらへ向かう。迂回ではない。目的地なんかないのだから、見かけた場所へただ行くだけだ。この近辺は津波の被害が比較的少なくて、足を水溜まりに突っ込まなくて済むのが助かる。ビルは大半倒れているけど。

 密接して建てられていて、それぞれが支え合うようになっているビル同士の隙間をずりずり、壁に額をくっつけながらすり抜けて、どこかへ近づく。そして、どこかから遠ざかる。

 ……こうして。

 誰もいない町を一人歩いていると、時々ながら思う。

 ぼくが生きているのは、なにかの罰なのではないだろうかと。

 気づかないところでぼくは大罪を犯し、そして、それを償うために今、こうして独りぼっちで生き長らえているのではないかと。後ろ向きに、そんなことを考える。そして俯く。

 肯定も否定も内から溢れることはなく、淡々と、歩き続ける。

 ビルの隙間から覗く光景が多少なりとも、光に包まれていることに引き寄せられて。

 その先にきっと、ぼくの新しい人生を保証する素敵な「また海だ……」即座に肩を落とした。

 ビルを抜けた先には広い道路があって、以前に別の場所で見た風景でも再現するように、中間付近が水没していた。くぼみに大きな水溜まりができているように、海水が流れている。

 ビルから離れてよたよた、折れた足でもかばうようにぎこちなく歩いて水溜まりの前に立つ。感覚がないことがコレ幸いと足を突っ込んでみると、スネの部分まで海水に呑みこまれた。足を上げる。錆びたロボットの関節が鳴るように、ぼくの足もぎぎぎ、とうるさい。しかも足を上げたら、「わっ、っと、と」後ろに倒れた。背中と道路の間に鈍い音が生まれて、目が回る。

 肺が潰れたように空気が内側から溢れ、巻いた舌がそれをせき止めようとしてしまう。だから余計に苦しくなって、呼吸困難となり、終いには涙まで流れる。その涙の影響か、顔面の皮膚が少しよみがえる。涙の流れを感じて、頬はふやけ、切りつけらるような寒さが鼻を裂く。

 鼻を啜ると、毛細血管がぶちぶちと切れたように血が滲んだ。喉の方まで広がるその

 鉄分臭い味は、空腹が続いている人間にとってはなかなか、『味』のあるものだった。

 道路に倒れたまま、呼吸を整えて、目を見開く。悠々と流れる、なにも変わらない雲の色が羨ましい。地球はなにも変わっていないのだ、ただ人類がいなくなっただけで。雲はどこにでも行ける。そしてどこへ行ってしまうのだろう。死んだ人間は、どこへ行くのか。

「………………………………………」

 ぼくは身体を起こし、手足が動くことを確認して、歩く。行き先はもの凄く身近に、横転していない自動車。ひっくり返った自動車を元に戻すような力はぼくにない。青い乗用車の運転席の扉に手をかけて、よろめきながら開こうとする。けれどロックされていてビクともしない。

「そりゃ、そうか」

 道路に置き去りということは、運転中に津波に襲われたのだから。左右に首を振って、手頃なコンクリート片を発見する。道路の砕けたやつだけど、これならぼくにも持てそうだ。両手で拾い上げて、自動車の窓ガラスに叩きつけた。一回ではヒビが入ったぐらいで壊れない。もう一回、よろめきながらも倒れこむように、全身でぶっ叩く。ばっしぃーん、と割れた。中耳炎の治療で耳に穴を開けたときの、爆発するような音に似ていると思った。ガラスの残りを排除して、窓から運転席へ乗りこむ。中に人はいなかった、どうしてだろう。車はあるのに。

 細々とした、雪のようなガラス片がシートに散らばっていたけど構わず座り、えぇとどうするんだ? 父親たちが運転していた姿を思い出す。確か、鍵を回すんだったかな。ハンドルの側を探して、刺しっぱなしの鍵を発見する。助かった。

 鍵を回すと、途端に車が息を吹き返した。「うわっ、わぃっ!」久方ぶりに、生き物のように動くものに触れた所為で嬉しい悲鳴を上げてしまう。しかも車はなにもしていないのにゆるゆる、前へ進み出している。「え、あれ? えっと、どう」水溜まりの方へと入水自殺みたいに直進していく自動車に慌てふためき、どうすればいいんだろうと悩む余裕もない。しゃにむに、父親が車に乗っていたときのように、足もとのペダルのようなものを強く踏み込む。

「ぎゃぁ!」

 急加速した。思わず、みっともないほどの悲鳴を上げてシートに背中を押しつける。ハンドルも握っていない車はぐんぐん速度を上げて、水溜まりに飛びこんでいく。がりごり、水以外に道路のなにかが引っかかるような激しい音がして気が気じゃなかった。昔に行った千葉の遊園地のアトラクションよりずっと恐ろしい。ぐぃぃぃ、と恐怖が喉まで迫り上がる。

 足を外せばいい、という単純なことに気づきながらもそれが実行できない。頭で理解しても、身体が混乱しているのだ。指示は行き届かず、ぼくの足は置物のようにペダルの上から離れない。水溜まりを根こそぎ吹っ飛ばすように、激しい水飛沫をあげて車は暴走していく。

 その様子を、頬を引きつらせながらも眺めていると時間の進行がいやに、ゆっくりに感じられる。これは死ぬ前兆じゃないのか、と恐ろしい想像に行き着き、そもそもこんなに色々と考えている時間があるのはおかしいじゃないか、と疑問を持ち、最後は諦めた。

 どうせ足は動きそうにないのだから、いっそのこと、別のことを考えてしまおう。どうしてそんな結論に至ってしまうのかはなはだ疑問だけれど、ぼくの頭は、本当に別のことに思いを馳せだしてしまう。自分が数秒、或いは数十秒後、どうなってしまうかをまるっきり、無視で。

 なぜぼくは、こんな自動車に乗って別の町へ行こうとしているのだろう。

 大して深い考えがあったわけでもなく、ただ、道を戻るのが嫌だったから。届かない手紙を待ち続けて留まっていることができなかったように、ぼくは、前進することを選びたかった。

 進まないと、地球の回転に取り残されてしまうような気がして。地球儀に玉乗りして、ぼくは必死にバランスを保ちながら前へ進もうとする。今だって、なんだかちょっと速すぎるけれど前へ、ぼくなりの前進を続けている。そうしないと後ろから迫るものが、ぼくを殺すような幻想に囚われている。ぼくはなにに追いつかれまいと、こんなに必死なんだろう。

「う、あ、ああ、お、ちょ、」

 言葉はちぎれたように乱れて、車は道路を駆け抜ける。そして水溜まりの一番深い場所にどぷんと、沼に足を取られたように一際沈む。ぼくは車を停めるチャンスだ、と感じながらもその意志に反して、ペダルを更に強く踏みつける。乗り越えろ、とばかりに。

 シートに押しつけていた身体が、次第に前屈みに変わる。ぼくまで加速しているように、強く、顎を突き出す。フロントガラスの向こうに映る、無人であろう町並みを睨みつけて、奥歯を噛みしめる。自動車の前輪がごぶごぶ妙な音を立てて、泡を噴かす。後ろのタイヤはぐるんぐるん、空転でもするようにマヌケな音を立てながらも応援なのか、回り続けている。

 行け、とぼくの口が動く。喉に痰のようなものが絡んでいて、それは確かな声にならない。けれど、その言葉が浸透したように、車は変化に身を委ねる。水飛沫を派手にあげて、水溜まりの深い場所から抜け出していく。飛行機の滑走路で加速しきって、そのまま飛ぶようだった。

 がっだんがっだん、上下に異様なほど揺れながら水溜まりを越えて、ぼくは遂に道路の向こう側へ走り出す。そこでいい加減、止まらないと死ぬなぁと頭が訴えてきた。遅いよ。

 どうしても右足が動かなかったので、ぼくは残っている左足で、隣にあったもう一つのペダルを思いっきり踏みつけた。アクセルの隣はブレーキだろう、多分。

 その反動からかさっきまでまるで動かなかった右足は跳ね上がり、同時に車に異変が起きる。がっこん、と前輪がなにかに引っかかるように急停止して、自動車が傾いた。ヘッドスライディングでもするように、前屈みになったのだ。そして浮き上がった車体はごってんと回転して、天井を道路に叩きつける。反転したそのまま車は滑っていき、明後日の方向へ回転して、ギャリギャリギャリと道路を削った。裏返った世界が数十キロの速度で、目の前を吹っ飛んでいく様は恐怖さえも通り越して、タイムマシンに乗っているようだった。でろりあーん。

 外の状況がまったく分からないのだけれど、数秒後、凄まじい衝撃が車内を襲った。また津波に呑まれたんじゃないかと背筋を冷やすほどだった。ぼくも車内で跳ね回り、全身を幾度も打ちつけて、痛いなんてものじゃなかった。記憶と首が二回は飛んだ気がした。勿論、気絶。


 気絶から目覚めたとき、車はやはりまだ裏返っていた。それに道路が焦げ臭い。車の暴走で削れたせいかも知れない。むち打ちみたいに痛む首の裏にひぃこらとしかめ面になりながら、ガラスを割った窓の部分よりスルスルと抜け出る。気絶だけで済んで、死んでなくてよかった。

 道路に出るとまず息が酷く乱れて、思わず喉元を押さえる。額の先に針でも刺さっているようにデコが痛んで、前髪の付け根が引っ張られるような感覚に苛まれる。冷たく硬い道路に膝を突いて、しばらく立てなかった。三半規管がおかしいのか目の前が、酷く、ゆらゆらする。

 だけど、不快じゃなかった。波に揺られているようで、むしろ気分がいい。

 立ち上がって、右によろけながら、あー、あーと呻く。

 隣町に着いても、勿論だけどなにも変わらなかった。

 そこにリンゴさんはいないし、猫だって新しく現れない。ぼくは独りぼっちで、町は腐った臭いの蔓延する終末の場所だ。それでも、ぼくは辿り着いた。町が津波によって崩壊する以前、一度も行けなかった場所に、ぼくは今こうして、一人で立っている。少しだけ、強くなって。

 本当に徐々に、ぼくはこの世界に適応していく。

 こんな環境下でも、人は適応する。

 前へ進むことができるように。

 色々と失って、得て、最後にやっぱり失って、一人でも。

 これからも、ここで生きていく。

 そう、決めた矢先だった。

「……お、ぅ?」

 重力のない、『世界の隙間』から抜け出してきたように。

 すとん、とかそんな軽い音さえもなく。

 フッと。

 ぼくの側に、それが現れる。その一瞬で出現する、質量を感じさせない登場。

 それを、それを、ぼくはなにより心待ちにしていたのだから。

 知っているに、決まっている。

 まだ見覚えなんてものじゃないほど記憶している黒い猫と、リンゴさんの手紙だった。



『返事が遅れてごめん! 覚えてる、リンゴです。ヤマトも元気でした! シロ君は元気? いや違ってもこれから元気にするから! 聞いて、実はね、実験に成功したの! ヤマトを任意に、そちらへ送ることに成功したのよ! 多分! この手紙をきみが読んでいるなら!』

「……読んで、ます。届いて、ます!」

 叫ぶ。ガラガラ声で、涙が流れそうになりながら。全身の痛みは気化でもしたように、どこかへふわふわ抜けていく。あるじゃないか。隣の町へ行って、なにかが、あったじゃないか。

『きみとの手紙、ヤマトがこちらへ来ること以前から、私たちは研究を続けていたの。そこにきみがやってきて、一気に実験が進歩した。その結果、遂に! 私たちは人間を送ることに成功しようとしているの! この黒猫、ヤマトを私たちの力で送って、そこから帰ってきた暁には! シロ君、きみを迎えにいきます! だからきみからの返事、待っているよ!』

 何度も何度も、読み返す。嘘とか、冗談とか、そういう言葉はどこにもなかった。へんじ、へんじ、と喜びが爆発寸前で他の感情がおろそかになったように虚ろに呟き、紙を探す。全部、本屋に置いていってしまったからそんなもの、あるわけない。どうするどうする、と焦って。

 あ、そうだと思いつく。別にだ、なにもする必要はない。猫の尾になにもなければそれが、手紙を読んだ、ということの証明になると思った。だからこの黒猫が後は、リンゴさんのもとへ帰るだけだ。それで、ぼくたちはきっと、出会える。

 出会える!

『そうそう、念のために説明しておくけど、シロ君と私の地球には多少の時間のズレがあるみたい。どっちが遅いのか速いのか分からないけど、でも大丈夫。だってこの手紙をきみが読んでいるということは、そのズレを含めて調整出来ているってことだから。誤差は失敗しなければない、はず! とにかく、きみを一人にしない約束を守るから、だいじょうぶ! あ、それと私はリンゴさんだけに、赤い服を着ていくから! 分かりやすくていいね!』

 そこでリンゴさんの手紙は終わっていた。あと、最後にハートマークがくっついていた。ぼくは存分に照れて、高揚しきった肌がチリチリと、焦げたようにこそばゆくなる。じたばた、道路で足踏みを繰り返して活きのいい鶏みたいだった。

 落ち着くまで、何十分と足踏みして、二の腕をなで続けた。

 興奮して地に足が着かない気分だからか、手紙の後半のことはあまり理解できなかったというか読み込まなかったけれど、リンゴさんがだいじょうぶと書いているのなら、きっと心配ないだろう。ぼくは見晴らしのいい、道路の中央に体育座りして、そのときを待つ。首は自然と左右に傾き、喜びを示す人形か玩具のように、リズムよく振り続ける。

 なんでこんなことになったのだろう、という思いはある。けれどそれ以上に、生きてきてよかった、と今のぼくは感じている。こんな場所にいることへの理不尽さより上回る、多量の想いがぼくに前を向かせる。そう、前へ行けばいい。道が分からないなら、真っ直ぐ進むしかない。そもそも人はどうあがいても、自分にとっての直進しか行く先がないのだから。

 世界は行く先のすべてが荒涼として、海水に浸食されている。飛行機でも通っているように、ぼぉぼぉと吹く風は未だ冷たく、家を持たないぼくに優しくない。地球は前触れなく滅びて、ぼくだけの星となった。そして今、ぼくさえもこの星から旅立とうとしている。

 リンゴさんのことを想う。リンゴさんの送ってくれた写真は今までずっと静止していた。けれど、この瞬間の想像においてはリンゴさんが活き活きと、頭の中で動き回っている。リンゴさんの活発なイメージは手紙の文字から受け取ったものだけれど、きっと間違いないだろう。

 猫のことを想う。ぼくとはきっと、初対面になることだろう。それとも彼、もしかしたら彼女は、ぼくのことを知っているのかな。どんな仕草で、どんな癖があって、どんな食べ物が好きなのか。これから学んでいく中でただ一つ、猫はきっと暖かいのだろうと、それだけは既に知っていた。ぼくと猫は向こうで、どれほど珍奇に扱われようとも仲良くありたい。

 顎を上げて、空を見る。この青さはリンゴさんの地球でも一緒だと嬉しい。空の移り変わりがずっと、ぼくの一日の時計だった。津波が、海が降ってきた空。次に空の向こうからやってくるのは、大きな希望。空がぼくのもとへと落ちてきて、そして、別世界を生み出す。

 アイで空が落ちてくる。

 そんな、ぼくが生まれるよりずっと昔の歌の一節が頭をよぎって、大いに照れた。

 そして黒猫が、ぼくの目の前からフッと消える。

 いよいよだ。

 隣町よりずっと先、遙か遠く、宇宙の彼方から。もうじき、迎えが来る。

 そのお迎えは光よりも速く、時を越えて、ぼくを未知の居場所へ導くだろう。

 世界は一瞬で変化するのだろうか? そのとき、ぼくはどうなるのだろうか?

 でも、どんなことがあっても、ぼくは変わらないでいられる自信がある。

 ぼくだけの星の歩き方を見つけた今なら、どんな場所に行っても怖くない。



 ああ、楽しみだなぁ。

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