『アイで空が落ちてくる 前半』【再掲載】
※この作品は「入間の間」に過去掲載された小説の再掲載になります。
(初出:「電撃文庫MAGAZINE Vol.18」2011年2月10日)
色々な持ち方を試したけれど、抱きかかえるのが一番落ち着いた。なんの話かというと、死体の猫を持つことについてだ。長めの尻尾を持つのも悪くないけれど、そのまま歩いているとぶらぶら揺れる猫の胴体が気になって仕方がない。それにちぎれてしまいそうだった。
ぼくが発見してから数日は経っているのに、死体の猫は未だに暖かい。肌が擦り切れるような寒さの中を歩くとき、その暖かさは貴重だった。ぼくが身体に巻くボロ布よりずっと、寒気を和らいでくれる。真っ黒な猫で、目の色は分からない。死んでいるので当たり前だけど、瞼をずっと下ろしているからだ。こじ開けるほど興味もないので、そのままにしてある。
ぼくと猫が行く道は、ほとんどが海に囲まれていた。海水はまだ引いていく気配がなくて、胃液に満ちた胃の中が、こんな風に浸食されているのではないだろうかと思ってしまう。決して、水上都市とかそんなおしゃれな雰囲気は微塵もない。様々なものが溶けるように崩れて、ずんずん壊れる音を立てて、騒々しい。泥の混じった海水は色も臭いも不快だった。
こんな瓦解した町でもまだ、無事な方なんだと思う。ぼくの住む町は周辺より少しだけ、標高が高いのだと社会の授業で習ったことがある。だから所々、歩ける道が残っているのだ。
押し寄せた波に呑まれて水没しかかっている家の屋根を伝うことも考えたけれど、足を踏み外したり屋根が壊れたりして、落ちたときに助かりそうにないので諦めた。ぼくは泳げないのだ。半壊した道路の上はアスファルトの破片が多くて、裸足のぼくには歩きづらい。仕方ないので剥き出しの、海水に蝕まれてふやけた土の上を歩くしかなかった。
目下のところ、食料の他には靴と服が欲しいのだけれど大半の家の入り口は水に浸り、カナヅチのぼくでは入り込めそうにないので、素通りするしかない。非常に残念だけれど。いや靴と服よりやっぱりなにより、食べ物に手が届かないのが悔しい。本当に、お腹が空いた。
歩き慣れたはずの通学路から逸脱した道に入って、既に数日が経過していた。町の外へ出たことがないぼくは、自分がどの方角を歩いているかも把握できていない。どこを歩いても地面、植物、建物は海水に浸されて、深く沈んでいる。辛うじて水の引いた場所は一本の線のようで、ぼくはそこを導かれるように進むだけだ。一人きりで。死体の猫を抱きかかえて。
こんなことになった理由は、ぼくにも分からない。
正直、なにも知らないのだけれど世界のどこかで、なにかが起きたらしい。ぼくはそのとき丁度、二階にある自分の部屋から外の景色を眺めていたから『その』様子を逐一、眺めることができた。空から海が降ってくるように、大量の海水が降り注いで町を包んだ。本当に、一体どこからやってきたんだろうと不思議に感じる量で、夜が訪れたように、空が真っ暗になったことを覚えている。音はなかった。聞こえる前に、ぼくは気絶してしまっていたみたいだ。
ただ最後に見た光景は正しく、空が落ちてくるようだった。
そして、ぼくたちの町は崩壊した。海のない県であるはずのここまで波が届いたのだから、恐らくぼくたちの国でこの被害を被っていない場所はないのだろう。多分。雨を数億倍凄くしたら、あんな風に空から海水が降ってくるんだろうなぁ、と今でも空を見上げて震えがくる。
大半の死体は波に呑まれたのか、海の彼方へと消えてしまった。ぼくの両親もだ。お陰で町の匂いに死臭はなく、慣れない潮臭さだけが鼻をくすぐる。冬の海に包まれていると、鼻水に包まれているようで不快だった。突如として生まれた地元の海もありがたくない。ぼくは夏の海を目指すように、冬の海の傍らを歩き続ける。明確な目的はなにもない。どこへいけばいいかも分からない。けれどいくら待っても助けは来そうにないので、仕方なく、どこかを目指す。
なぜ、他の生物が根こそぎ死んでいった中でぼくだけが生き残ったのだろうか。とんでもない幸運がぼくにはあって、スーパーのくじ引きでは百円のお買い物券、実質ハズレしか引けないにも拘わらず、ここぞとばかりにそれが発揮されてしまったのかも知れない。良い迷惑だ。
いてっ、と針を踏んだような痛みを覚えて右足を上げる。足の裏を確かめると、歩きづめで硬化した皮膚がベキベキと剥がれ出してしまっていた。両親がよく、このようにひび割れた踵を削っていたことを思い出す。生憎とぼくにはヤスリのようなものなどない。この状態で放置するしかない。やはり靴が欲しい。それとマトモな服も、そろそろ必要だ。
崩壊した家から脱出する際に、着ていた服はそこかしこの尖った場所に引っかかって破れてしまった。ぼくの部屋は二階で、母が服をしまっていた場所は一階だ。そしてその一階は津波で完膚無きまでに水没し、崩れてしまっていたからどうしようもなかった。
破れた服の上からカーテンやらボロ布やらを巻いて暖を取ってきたけれど、それらもボロボロとなって変な形に融合してしまい、今となってはカラフルな布に身を纏う少年となっている。非常に悪趣味だ。国旗かなにかを身体に巻いているようで、ぼくの趣味に合わない。
それに、薄汚れた肌と対照的に賑やかな色合いは、見ていると辛いものがある。
布を肩にかけ直したところで、強い風が吹く。海水に乗じたように冷え冷えとした冬風に晒されて、上半身が身震いする。そのぼくの動きに合わせて震える死体の猫を抱き直して、暖かさと毛並みの柔らかさに救われる。小学校の飼育小屋で抱いたチャボやウサギからは大して熱を感じなかったのに、死んでいる猫からは不思議なほどの体温を受け取っていた。
猫から血は流れていない。最初に見つけたときから、血液の流出はなかった。外傷もなく、まるで眠っているように目を閉じきっている。けれど、死んでいるのは間違いない。猫からは一切の鼓動が感じられず、精彩は皆無だ。なにより、触れればその死が形なく、しかしぼくを侵食するようにじわじわ伝わってくる。生き物を抱いている感触と、なにかが致命的に異なるのだ。ぼくは猫の死を確信している。けれど、その死んだ猫を何日も運び続けている。
ぼくがこの死体の猫を持ち運んでいる理由は、なにも暖かいからということだけではない。
なによりの理由は、面白いからだ。この猫は本当に時々、奇跡を引き起こす。
それがなにを意味するのか、目の錯覚なのかは判断がつかない。けれど確かにその現象はぼくの前で生まれ、猫を消してしまう。そう、この猫は時々、『消える』。前触れなく、消失する。
最初に起きたのは、猫を拾ってから二日後。今から三日前のことだった。
初めはぼくの意識が朦朧となって、途中の道に猫を落っことしたのかと考えた。だけど振り返ってもあるのは海に呑みこまれそうなか細い道だけで、死体の猫は転がっていない。ぼくは次に、今まで抱きかかえていたと思っていた猫が幻なのかと疑った。でも猫の毛が手の中にあることから、それは否定されて。では、なにがどうなっているんだろうと首を捻った。
猫の暖かさを唐突に失ったぼくは急に心細くなって、なんとも滑稽だけれど死体にすぎない猫に依存しつつあったのだ。途端にぼくの膝はがくがくと震えて、立ち続けることができなくなった。流行りの風邪にでもかかったように悪寒がし始めて、その場でぶるぶると肩を抱いて、震える。膝が伸ばせないので両足を引きずりながら、辛うじて水没から逃れている、ガレージの屋根にのぼって休みを取ることにした。日向ぼっこする猫のように丸まって、屋根の上で眠る。目を閉じている間、ぼくは一体なにをやっているんだろうと疑問が湧いてきた。今まで歩いてきた最中、何度も考えかけて忘れていた問いかけが噴出してきたのだ。世界はどうなっているのだろう、なにがあったのだろう。生き残っている人はいるのだろうか、と。
仮に生きている人と会っても、ぼくはどんな話をすればいいのか分からない。そんな心配が最初に浮かぶ。次に、朗らかな会話などこの状況では無理そうだという心配。それならぼくは、どれ程の酷い言葉を浴びせられたりするだろう、という怯えが生まれる。とにかく、人と触れ合うことが苦手だった。小学校でもあまり、誰かと積極的に話す方じゃないし。
それに町がこんなことになってしまっては、どんな大人に出会えたとしても、どうにもならないだろうと思う。だから人に会うことには期待しない。ではなぜ、ぼくは歩き続けているのか。希望はどの方角へ歩き出そうと見当たらないのに、どこへ行きたいのか。なにも、答えはない。答えを強く、強く発しているのはお腹だけだった。きりきりと痛い。泣いているように。
そうして様々な心配と空腹を抱えながら夜を明かすと、猫が道路に転がっていた。黒く、地面に無造作に置かれているとゴミ袋を切り裂いただけのようにも見える。ぼくが歩いてきた道の途中に、相変わらず死んではいたけど横たわっていた。ぼくは前のめりに駆けてその猫を拾い上げる。猫は別段、変化がなかった。……いや、少し血色がよくなっているかも知れない。死んでいるはずなのに、消える前より毛並みが整っている気もする。どういうことだろう。
ひょっとして、死んだ後に蘇りだしているのか。そんな不思議な復活を思い描きながら、身動きも、鼓動も伴わない猫をまた抱きかかえる。ぼくのお腹は頭と大差ないほど空っぽで、またそろそろ、入り込める家を探さなければいけなかったのだけれど、猫を抱えていると不思議に、明日への心配はうやむやになるのだった。遠い将来への不安を拭い去るほどではないけれど、ぼくが再び、道を歩き出す分にはそれで事足りた。暖かい猫を抱き、前へ進む。
それから猫は不定期に消えるようになった。三日の間に三度か四度、もしぼくが寝ている間に消えることと現れることを繰り返していたのならもっとになるけれど、とにかく蒸発したようにいなくなる。そして何時間か経つと、消えた場所に戻ってくるのだった。信号の点滅のような前振りがなくて、本当に突発的だから手もとからフッといなくなると、いつも驚く。
ぼくは猫が目の前から消える度、その場に留まって現れるのを待った。先を急ぐほどの目的もない。他に生き物の姿をほとんど、というかまったく見ることもなくて、猫だけがぼくと共に生きている存在、とかそんな風に思いこんでいる部分もあった。ま、実際は猫の方は死んでいるんだけど。しかし死んでいるのに、どこへ行ってしまうのだろう。天国かな?
猫のことを想うのは、自分以外のことを考える良い機会になる。両親のことさえあまり頭に浮かばない薄情なぼくだけれど、猫には気を遣うことができる。その不思議さが、ぼくの関心を惹きつけるのかも知れない。実際、何度消えても謎はなにも解けなかった。
風が冷たく、ひゅぅひゅぅと指や布の間を抜けていくだけの毎日。動くものがなく、歩いている感覚も足の裏から失われてしまって、毎日を過ごしている実感がない。そんな中、ぼくの頭や心臓を強く叩いてくれる、『消える猫』という謎は一日の中で小さな明かりとなる。
ぼくは猫のことを考える中で、正しく時間を過ごせるようになる。そんな気がするのだ。
猫は最初に見つけたときから、どこか不可思議な印象があった。横たわる猫の周辺には、あまり見覚えのない材質の破片や壊れた機械のようなものが転がっていたのだ。あれはなんだったのだろう。テレビの中身も見たことがないぼくには、それがなにか区別つかなかった。それとボロボロの赤い服と細長い肉塊も側に横たわっていて、鳥に突かれた跡があった。さすがにそっちは運んで来られなかったので放置してある。鳥のように貪欲に、食べる気にはなれなかった。
そうして、猫が五回か、六回目に消えて、戻ってきたとき。
初めて消えてから三日後、つまり今日のことなんだけど。
今回だけは、毛並みや血色といった気のせいですまない場所に、変化があった。
「……あれ?」
猫が再び現れたとき、尾っぽには見慣れない白い紙が結ばれていた。
黒猫と対照的で、いやにめだつ白色の手紙が、ぼくたちの交流の『始まり』だった。
『まさかとは思うけれど、そちらに誰かいますか? もしこの手紙を読める方がいるのなら、なにか、返事をください。猫の尾に同じく、手紙をくっつけてくださると助かります』
手書きの丸っこい文字は、同級生の女の子が書いたみたいだった。日本語で書かれたその文章の下にはいくつか、別の国の言葉がくっついている。読めないけれどきっと、同じ内容を色々な言葉で書いてあるのだと思う。最後まで目を通して、自分の目の縁が乾きだしたことに気づく。それほど、まばたきも忘れて手紙に見入っていたらしい。目を指で派手に擦り、痛みを紛らわす。それから掴む指先で皺になった部分を大事に直して、その手紙を丁寧に折り畳んだ。
うわぁ、と感嘆するような声が口から漏れる。掠れた声で、何日ほど誰とも喋っていないか思い出させてくる。脳の奥が、焼けた石でも投げこまれたように熱くなる。ちりちり、指先や背筋が痒い。赤外線サウナの中にいるみたいに体温は高まり、カッカッカ、と目が燃える。
ぽろぽろとこぼれるものは涙よりずっと、固形物に近い。
この猫は瞬間移動でもしているのかな。死んで動かない猫は、一歩も動けそうにないのに。
ぼくは早速、返事を書こうと思った。紙が手頃にないから、貰った手紙の裏面に返事を書けばいいと考えて、しかし窮する。ペンがない。学校じゃないんだから、筆記用具なんか側に転がっているわけがない。近場の家を探して色々と盗んでくるべきだったのだろうけど、そのときのぼくは興奮して、一刻も早く返事を書かないと、と気が急いて仕方なかった。
だからその場に、そしてどこにでも溢れている海水混じりの泥を人差し指に塗りたくり、それをペン代わりとすることにした。上手く書けるか自信がなかったので、ぼくの纏っているボロ布の端に試し書きしてみる。習字の容量で書くと、その焦げ茶色の文字はどうしても一つ一つが大きくなってしまう。小さくすると字がくっついて混沌となり、『あ』も『お』も■みたいになってしまう。ちゃんと伝えようとすると、たくさんのことは伝えられない。
文面をどうしよう、とその場に座りこんだまま悩む。手紙なんて一度も書いたことがない。携帯電話だってまだ持っていないのだから。読書感想文とか、国語のテストの心情を読み取りなさいとか、自分の気持ちを伝えることは苦手だった。だから、気持ちなんか考えなくてもいいだろう。伝えるべきことだけ簡素に、ずりずりと色を塗るように紙に書きつける。
『いますだれか。ぼくがここにいます。あなたはだれですか?』
その泥を風に晒して、乾くのを待つ。待つ間、町のどこかでまた、家が崩れる音が響いた。
乾きすぎるとパラパラ、欠片となって飛んでいってしまいそうなので程々を見計らって猫の尾に結ぶことにする。猫は暴れたりするはずもないので、結ぶのは簡単だった。きつく結びすぎないように、と気を遣うのは変かも知れないけれど自然、緩い結び方に留めた。それが終わってから猫を抱きかかえて、ぼくはまた歩き出した。
今日は昨日よりずっと、胸を張って。顎を上げて前へ進むことができる。なくしていた足の裏の感覚も、親指の先から段々と血が通っていくように思い出す。地面は風に晒されて硬く、けれど踏みしめるとぐちゅぐちゅ、奥の柔らかい泥の感触を堪能することができる。カチカチになったぼくの足の皮も、奥はきっと柔らかいのだろう。その柔らかさを守るために、ぼくの皮膚は硬くなる。適応していくのだ、この町に。この毎日に。もう戻れないから。
「あ」と振り返る。手紙の返事が届くまで、同じ場所にいた方がよかっただろうか。ラジオの電波をよりよく受信できる位置があるように、猫の瞬間移動も飛んだ場所で行き先が決まっているのかも知れないし。立ち止まって少し迷う。風が吹いて鼻の下が寒い。進むことにした。
腕の中の猫が、早くどこかへ飛んでいかないかと胸が躍る。同じ人のもとに飛んでいくかは分からないけれど、手紙を送るというアイデアはとてもすばらしい。世界のどこに生きている人がいるか分からないけど、だれかがいることはこれで分かる。その人に会えるとは期待しないけれど、歩く意味が曖昧でも生まれることが嬉しかった。けれど、すぐに歩けなくなった。
二時間ほど進んだ先では歪んだ道路の中央が完全に水没して、海に囲まれた島のようになってしまっていた。足を突っ込んでその氷水めいた低温にひょぉぉぉと声が漏れる。深さを確かめたけれど、三歩進んだら膝が沈んだ。悲鳴のオクターブが一個跳ね上がる。そのまま進むことも、引くこともできずにいると足の硬い皮膚が剥がれて、冷水が奥まで染みるようだった。
それから、猫に結んである手紙が濡れることに気づき、恐れて、慌てて引き返した。
大きな、どうしようもない水溜まりと潮の匂いを前にしながら座りこむ。道路の中央であぐらをかいて、猫の背中を撫でる。水に浸っていた足は普段よりずっと青白く、不健康に脱色していた。びくんびくん、と太ももの筋肉が跳ねている。つるのかも知れない、とこれまでの経験から判断して、足を伸ばした。かじかむ指先の感覚が不透明なまま、太ももを揉む。
生き物の背ビレみたいに、風によって揺れる水面を眺めながらどうしようと考え込む。道路を迂回しようにも、水溜まりはぼくの見渡せる範囲すべてを呑みこんでいた。孤島に漂流してしまった気分とでもいうか。遠く、霞むほど距離のある道路の果てに目を細め、息を吐く。
道路をひたすら歩いていけば、余所の町に行けると考えていたけど無謀だったかな。泥とヘドロみたいな黒いものが固まりすぎて、指紋も見えなくなった足の親指の裏側。ごしごし、両足を擦り合わせて汚れを落とす。まるで動物みたいだ、と思い、動物だったなと思い直す。
一方、静かに死に続ける猫は綺麗そのものだった。誰かに手入れでもして貰っているように毛並みは整い、寝顔も乱れていない。暖かさもまったく失われることなく、時間が止まっているみたいだった。死体を触っていても不快じゃないのは、その清潔さからなんだろうと思う。
「あ」
まばたきをしている間に猫が消えた。目を擦る。重い瞼を引っ張ってぱちんと鳴らしてから、手元を確かめる。やっぱりいない。いったんだ、また。どこかに。お尻が少し浮き上がるほど興奮して、グッと握りこぶしを作る。すると途端、無理に身体を持ち上げたせいで両足の太ももがびくびく、つってしまった。道路に受け身も取れないまま倒れて、悶え転がる。
今のところ、足の裏はつっても慣れた。ぐにぐにと土踏まずの部分が変形しそうになるけど、思い切り地面を踏めば大体直る。でも他の部分はまだダメで、もの凄く痛い。両足同時ともなると涙まで出てきそうになる。いつかこの痛みにも慣れてくれるのだろうか。慣れるほど、生きていられるだろうか。足が痛む間、ずっと暗い考えが沸騰してぼこぼこ、泡を立てていた。
痛みが引く頃には転がりすぎて、身体が擦り傷だらけになっていた。と言っても既に、どれがいつできた傷か分からないほど、肌にはミミズ腫れのような線が走っている。どれも大体痛い。これだけ多いと寝るときに困る。寝返りを打つと痛くて目が覚めてしまうのだ。
あたりを見渡す。通れそうな道はないけれど、側には車が何台か、横倒しになっていた。他のは流されて、海に沈んでしまったのだろう。道路の崩壊にタイヤが巻きこまれて、斜め上を向いている白い車に近づく。比較的、外見も綺麗だった。窓から中を覗くと、人は乗っていなかった。助手席側の窓がはでに割れているから、運転手さんがぶち破って流されていったのかも知れない。いないならいいか、と遠慮なくボンネットに足をかけてのぼった。表面を一応、手で軽く撫でて土を払ってから、寝転がる。ここで猫の帰りを待とうと思った。
「お、お、お」身体がボンネットの上を滑って、フロントガラスにぶつかる。ごつん、と背中のとんがった部分とガラスが衝突して音を立てた。不意打ちだったから少し痛い。
背中を撫でながら丸まって、日向の猫に憧れるように眠る。冬の海の側だから、日が差していても身体の芯が凍えるほど寒い。ガタガタと震えて、腕の内側に残る猫の温もりを身体に擦りつける。擦り傷に、その暖かみは逆効果だった。じんわりと熱を帯びて、痛みが活性化する。
顔を少し上げると、空を行く鳥の群れが、遠くのビルへ向けて飛んでいく。陽炎のように霞む、倒壊したビル。上半分はスライスされたように吹っ飛んで、中が剥き出しだった。ちぎれた巨人の足が、地面に突き刺さっているようにも見える。道路の向こうはぼくの住む町より都会だけれど、だからこそ傷跡が深かった。物は溢れているみたいで、少し羨ましいけれど。
鳥を見えなくなるまで追ってから、目を閉じる。夜に寝ていると凍死するんじゃないかと心配なので、日の照っている内に休んでおく習慣がついた。ショールのように羽織っている布の端をギュッと握りしめて、硬く、車の一部になった気分で眠る。ワクワクする心を押さえつけて、深く、埋没するように。生きなければ猫も手紙も、受け取れない。
「………………………………………んぁ」
どれくらい、目を閉じていただろうか。気づけば猫が、道路に伏していた。ぼくは車から、突かれた木の上の蛇みたいに慌てて飛び降りる。地面で膝を打ちながらも猫のもとに駆け寄る。猫が無事に死んでいることを確かめてから、尾っぽに結ばれている手紙を注視する。前回のやつと手紙の色が変わっていた。淡い水色になっている。むさぼるように、その手紙を外した。
『お返事ありがとう! 泥で字を書くのはそちらでの常識なの? それに字からして、あなたは子供かしら? 日本語なのは大変ありがたいです、英語とか埃被った辞書ひっくり返して書いたのよ……。本当はもっと色々聞きたいのだけれど、私自身興奮していて混乱してしまっているの。とにかく伝えたいのは、そちらからの返事をいつでも待っていますということ。申し遅れたけれど、私は林檎と言います。あ、リンゴって読むのよ。果物と一緒ね』
一字一句、最後まで目を通してから、うんと頷く。
「……ペン、どこかから取ってこよう」
カチカチになって、うまく動かせない頬を必死に緩めながら、次の目的を決めた。
道を引き返すことにも目的があるなら、二度手間じゃない。
『こっちこそ、お返事うれしいです。ぼくはシロって言います。漢字で書くと白なんだけど、カタカナの方が好きです。リンゴさんの言うとおり、ぼくはまだ小学四年生です。だから手紙になにを書けばいいのかよく分からないけど、ぼくもリンゴさんの返事をとても楽しみにしています。それで、さっそく一つだけ聞きたいのですが、リンゴさんは一人ですか? ほかに生きている人はいますか? ぼくは一人で、いろいろとこまっています』
たとえばまだ使えるペンを入手することとか。ぐしゃぐしゃになっていない紙を見つけることとか。ついでに辞書もあるといいかなと考えたけど、あんまり時間をかけすぎると猫がまたリンゴさんのもとへ飛んでしまうんじゃないかと心配で、調べる余裕はないかも知れない。
途中まで道を引き返して、適当に別の道を歩いているときに本屋を見つけたのは幸運だった。冬だからかあっという間に日は暮れて、建物の中を探れるか心配だったけれど他に行くアテもない。中へ入る前に駐車場で横倒しになって半分、泥水に浸かっている自販機からジュースを何本か取り出しておいた。それを取り出し口の側に置いておく。後で回収しよう。
他の人が同じように漁った形跡はない。今まで歩いてきた道にあった家屋も、人の手で荒らされた形跡はなかった。本当にぼく以外、誰もこの町には生きていないのだろうか。リンゴさんはどの町にいるのだろう、とどこかへと繋がっているはずの空を見上げて想像してみた。
空は暗いけれど、落ちてくるほど濃厚に、真っ暗じゃない。
黄土色の壁の大半が崩れた本屋に入る。二階と一階の境目が失われて、上から潰したケーキみたいに混ざっていた。この本屋には何回か、両親と来た覚えがある。確か二階が漫画本と文房具のコーナーだった。その二階が落下してきた部分へ、ばしゃり、ばしゃりと足もとに溜まっている海水を掻き分けて進む。猫とリンゴさんの手紙を濡らさないように、掲げながら。
真っ暗の中、手探りで物を探すのは困難だった。目が慣れるまで、その場に留まってジッと待つ。次第に目が夜と物を区別するようになっていく。その様は、眼球が新しく作られていくようだった。目が慣れてきたことを確かめて、また水を掻き分けてショーケースらしき物体の残骸へと進んだ。ガラスの破片が水の底に沈んでいたのか、足の裏が一度だけ強く痛んだ。
「お」
言葉を忘れてきているのか、声から出るのはそんな短い吐息ばかりだ。
ショーケースが落下の衝撃で叩き割れて、中に転がっているのは万年筆、というやつだった。シャープペンとボールペンぐらいしか使ったことがないぼくにとって、万年筆は大人のアイテムという印象しかない。恐る恐る、一本手に取ってみる。ボールペンより、少し重い。
返事はリンゴさんの手紙の裏に書こうかと思っていたけど、それだとこの手紙がぼくの手元に残らないから、少し不満だった。受け取った手紙が一通も自分のところに残らないなんて、なんだか寂しい。だから紙の束、ルーズリーフでもないかと次に探す。けれど海水がこれだけ充満していると、棚に収まっている本類とは違って、無事なものはないのかも知れない。
「……あ」
そんなことを考えて、ピンと来た。なにもルーズリーフじゃなくてもいいのだ。ぼくは方向転換して、将棋倒しみたいに別の棚を巻きこみながらも、中身が無事である本棚を目指す。そうして、棚の中で傾いている文庫本を手に取る。丁度良い具合に、その本はページの下がやたら真っ白だった。改行が多い上に、大して文章を書いていないからだ、助かった。別の本を取って確かめると、どの本も結構な度合いで白色がめだつ。このへんの……カミナリ文庫? はそんなのばっかりなのかも知れない。今のぼくとしては、そっちの方が都合いいのだけれど。
えい、と適当なページを一枚破る。本を破るというのは、いけないことに手を染めているみたいでぞくぞくする。人の家へ忍びこむより、ずっと背筋が震えた。そうして破ったページをノート代わりにして、重い万年筆で書いたのが、最初のつたない文面というわけだ。
書き終えてから猫の尾っぽに結びつける。この動かない猫が、またリンゴさんの元へと飛んでいくことを期待して。毎回、同じ人に届くと嬉しい。たくさんの人に届くのも、楽しそうだけど。結び終えてから、猫を掲げて店の入り口に戻る。勿論、何冊かの文庫本と万年筆は持ってだ。リンゴさんと手紙のやり取りをするのなら、ここに住み着くのもいいかも知れない。
それから少しうろついているとレジの脇の無事だったボックスに、外国で売っていそうなチョコ菓子とゼリービーンズがあったので歓喜した。なんでこんなもの売っているのだろう、とたまに不思議に思っていたこれに助けられる日が来るとは。甘い物に飢えていたこともあって、いかにもカロリーと糖分が高そうなチョコ菓子をむさぼり食べる。もの凄く、それこそ歯が溶けるように甘かった。噛みしめる度、栄養に喜んでいるのか脳が痛い。ぐわんぐわん、耳鳴りまでする。にちゃにちゃと奥歯に絡みつくチョコの食感によって、物を食べている実感が湧く。
このチョコ菓子とゼリービーンズがなくなるまでは、本屋にいようと決める。後は寝る場所さえ確保できればいうことない、と海水に浸かっていないカウンターの上に座りながら天井を見上げる。今にも二階が更に滑ってきて、天井がぼくを押し潰しても不思議じゃないのだ。
ぼくが敢えて寒空の下を選び、屋内で眠らない理由は、それに尽きる。チョコ菓子の封を四つほど開けたところで飲み物が恋しくなり、自販機にジュースを取りに行くことにした。缶ジュースも貴重な栄養源だ。たくさん水分を取れば、気分は悪くなるけれどお腹は膨れる。
こうなってくるとコンビニのお弁当類を狙いたいところだけど、駐車場が水没して近づけなかったり、建物がぺしゃんこになっていたりすることもあって、中々思い通りにはいかない。それにもう腐っているよなぁ、とも思い直す。親戚のおじさんが話していたけど、弁当を冷蔵庫に入れて四日ぐらい経った後に食べたら腐っていたそうだから。
猫と返信用の道具一式をカウンターに置いて、外へ出る。気温は本屋の中と変わらない。砕けた自動扉の破片を踏みしめながら、自販機のジュースを取り、戻る。「あ」猫が消えていた。
カウンターの奥や、滑り落ちて海水の中へ落下したんじゃないかと探したけれど見つからなかった。大丈夫だろう、と胸を撫で下ろす。後はリンゴさんの返事が来るのを待つだけだ。
缶ジュースのプルタブを引っ張りながら、リンゴさんのことを思う。字は丸っこいし手紙の内容からして女の人みたいだけど、ぼくを子供と見抜くあたり大人なんだろうか。英語や、他の国の言葉も書けるみたいだし。どんな人なんだろう。ぼくの手紙を喜んでくれるかな。
あったかーい、の場所にあったはずの缶ジュースはすっかり冷たくなっていた。必要以上に渋い味になったお茶で、チョコの後味を流す。久しぶりに起伏のある味をたくさん取り入れて、舌が落ち着かない。胃もきゅうきゅう鳴いて、脈動が激しい。お腹に触れると、その動きが直に伝わってくるぐらいだ。栄養がずっと足りていないから、がっついているのだ。
そのお腹を抱くように、ぼくは横たわる。眠りはしない。でも待つ間は横になっていないと体力が続かない。歩く気にならない。それに手紙の返事にワクワクして、座っていることが辛かった。こんな気持ちは、空が落ちてくる前までさかのぼっても、珍しいと思う。
そうして、針の折れた時計がずっと午前十時を指す暗闇の中、ジッと寒さに耐え抜く。その後に、何時間経ったか確認できないけど訪れる、黒猫の帰りにぼくは飛び起きて、頭の奥をチリチリと焦燥感で焼く。手紙を外す作業ももどかしくて、焦る指が手間取ってしまった。
『お返事ありがとう、シロ君。それできみの質問に答えたいわけだけど……ひょっとして、きみのいる場所は今、危機的な状況なの? 一人で生きるしかないような場所? 町じゃなくて孤島にいるとか? きみのことを詳しく教えて欲しいの、私のことはその後に説明するわね。そっちの方が混乱を招かないと思うから。あ、漢字が多くて難しかったら言ってね、努力してみる。リンゴより(私は二十八歳です、きみよりすっごい年上だね)』
「おー……おー?」
最初に二十八歳という部分に反応した。それから、手紙の内容に首を傾げた。リンゴさんがなにを聞いているのか、いまいち分からない。もし生き残っている人がいるなら、みんな危機的状況ってやつじゃないんだろうか。それともリンゴさんのところは平気なのかな?
ぼくの町、或いは国だけが被害に遭っているとしたらそれも説明がつく。あ、でもこれだけの大津波に襲われるようならテレビで報道されるか。それにリンゴさんも日本人みたいだし、辻褄が合わない。説明は、実はまったくつかなかった。釈然としないまま、ぼくは文庫本の白いページを選んで破り取る。さっそく、リンゴさんに求められた説明を書こうと思った。
『ぼくの今いる場所は、ずっと住んでいる町です。でも津波でどこもボロボロになって、一度も生きている人にであっていません。ネコも死んでしまっているし、ぼくだけが生きのこったのではないかと思います。それがなんでかは、分からないです。すみません。あ、漢字はだいじょうぶです、辞書もあると思うから。シロ』
ポストに手紙を投函するように、猫の尾に最新の返事を結びつける。猫はやっぱり、リンゴさんのところで櫛でも入れられているのか、毛並みが明らかによくなっていた。手触りもよくて、これなら本当にちょっと突けば起き出しそうだ。閉じっぱなしの瞼をつついてみる。反応はない。耳の先を撫でてみる。動かない。リンゴさんのもとへ飛ぶという凄いことができるのに死んでいるんだなぁ、と寂寥感に包まれる。
普通のことができないのに、特別なことだけできるなんて。ぼくとは正反対だ。
それにしても、リンゴさんは変な質問をしてきたものだ。いやぼくの状況を詳しく知りたいというのは変じゃないけど、尋ね方に些細ながら違和感を覚える。なにがどうズレているか、上手く説明できないけれど。まぁ、これから何回も手紙をやり取りすれば、きっとそれもなくなる。猫がリンゴさんのもとへ飛ぶことはこれでほとんど確定したし、そこだけ気が楽だ。
やがて数時間が経ち、また猫が消える。この猫が飛んでいく時間に規則性はあるのかな、と記憶を振り返ってみたけどそんなこと、なんにも覚えていなかった。精密に記録を取っているわけでもないから検証しようがない。時計はずっと午前十時を示しているような、そんな世界だ。マトモに時間を知ることは、携帯電話もないのだから存外に難しい。日時計で大まかに察するという、ずっと昔の人たちに戻ったような大雑把な把握しかぼくには許されていない。
リンゴさんの返事を待つ間に、チョコ菓子を一つ食べておく。貴重な食料で、配分を考えないと後悔するかもと不安がよぎったけれど空腹が続くと、手紙の内容がまったく思いつきそうにない。 それにこのお菓子をいくら丁寧に食べていっても、一ヶ月も保たないだろう。
「……一年、十年、百年……は、無理か」
そんなに長々と、ぼくはこれからもこうして生きていくのだろうか。なんの為に? お爺さんになる理由が、ぼくにはない気がしてならない。何十年と生きるのは、諦めても問題ないか。
となればこれから何年か生きて、その間にどんな目標を立てるべきなのか。いっそのことリンゴさんに相談してみるべきかな、でもそんなこと聞かれても困るだけかな、と悶々としている間に夜は明けて、冷え込みは変わらないけれど朝が訪れて。そして、猫が帰ってきた。
ぼくの毎日に、本当の光を運ぶようにやってくる猫と手紙と、そしてリンゴさん。猫の尾に結んである手紙を取るのが少しもどかしい。かじかむ指の感覚は半分なくて、指同士が爪で傷つけあうのも構わず、手紙を外そうと躍起になる。なんとか解いて、すぐに読み始める。
「………………………………………」
そのかわいい丸い文字に目玉をギョロギョロと動かしていく度、がつがつと、頭が重くなっていった。目の奥に負荷がかかって、それこそぽろりと、眼球が落ちてしまうように。
リンゴさんの手紙はそれぐらいなにを言っているか分からず、そして、衝撃的だった。
『シロ君、きみはとても辛い場所にいるのね。今すぐにきみを助けに行きたいけれど、まだそれはできそうにないわ。ごめんね。それできみの話についてなんだけど、正直に答えるとね、私のいる場所には津波も来ていないし、そんなニュースも見かけたことがないの。でも多分、そこについては説明できるの、信じられないけど、未だに疑っている部分もあるけれど!
……ああ、ごめんなさいね、筆圧まで強くしちゃって。それぐらい、今起きていることは奇跡的というか、神の悪戯というか……うん、それも次の手紙で全部説明するけど、『私』のいる場所はとっても平和で、戦争とか紛争だって遠い国の出来事で、津波で町が滅んでもいないの。あなたと私はとっても遠くて、違う場所にいる』
そこまで書きつづった後、行を変えて最後に、リンゴさんは言った。
『それと猫が死んでいるというのはなんの話? こっちにくる猫は、生きているんだけど』
次にリンゴさんから送られてきた手紙は、二つだった。それぐらい長々と、ぼくとリンゴさんの住んでいる世界が『違う』ことを説明する必要があったのだ。ぼくが送った疑問にすべて答えるという部分も含めて。リンゴさんの説明は分かりやすくて、ぼくの混乱した頭が冷えきる頃に、ちゃんと中身が浸透するような適度な距離を保っていた。多分、リンゴさんは賢い。
『多分、私ときみは別の世界にいる。本来、お互いを観測することができない、可能性の重なり合った世界というか……ごめん、きみに分かりやすく言うと、パラレルワールドって知ってる? 辞書とか、後は最近のマンガとかでも見たことないかな、調べてみて。大雑把に説明すると、別の可能性を通る、別の宇宙のことを指すの。たとえば朝ごはんに厚焼き卵とスクランブルエッグ、どちらをお母さんが作るかという選択があったとするね。そこで厚焼き卵を選んだのが私のいる世界で、スクランブルエッグを選んだのがきみのいる世界……みたいな。あ、でもこの場合、卵焼きじゃなくてもいいからね。おみそ汁の具でも、学校に行くか行かないかでも、なんでもいいの。そういう選択によって、世界は分裂している、と考えればいいの。ただ普通、そういう他の私たちと出会うことはできないし、知ることもない。そもそも観測に成功した人間が未だに一人もいないわけだし……あ、今は私がシロ君と猫を見つけたけれど。この猫はこっちに来ると生きているけど、シロ君の世界だと死んでいるのよね? その理由は全部分からないけれど、猫の死んだ世界と、生きた世界で分岐しているとか? そんな小さな部分では変わらないかも知れないし、正直、未知数すぎて説明はカンペキにできそうもない。ごめんね。とにかく、シロ君のいる地球(町かな?)は滅びかけて、私のいる地球は案外、まだなんとかなっている。津波も来ていないの。私とシロ君は似てるけど繋がっていない、別の地球に住んでいる。えっと、これで分かる? 分からなかったらまた説明するね。 リンゴ』
「……えっと、分かる、かも」
ぼそぼそと、伝わるはずもない口頭で答える。
リンゴさんの指摘するとおり、マンガで読んだことがあるのだ。並行世界、というやつだ。理屈はさっぱりだけど、宇宙のどこか、それか宇宙の向こう側には、よく似た地球があるらしい。ぼくはそれを認めた上で、あぁと嘆いた。
これでは、リンゴさんに会うなんて不可能だ。こんなに遠い場所にいるとは思わなかった。本屋のカウンターになぜか売られている鈴の側に横たわる猫を撫でながら、すごいねと褒める。
そこまで遠くへ飛んでいるとは、これまた思わなかった。
猫に超えられても、ぼくには次元の壁なんて飛び越せない。町を囲うような海の水溜まりさえ、引き返す羽目になるのだから。宇宙の海を泳ぐなんて、とてもとても。さぁどうしよう。
寝転んでいた身体を起こして、もう一度、手紙に目を通す。前回の手紙を読み直すと、まだ助けにはいけない、と書いてあった。リンゴさんにはなにか、アテがあるのだろうか。今度の手紙ではそこらへんに触れてみるのもいいかも知れない。確かに、リンゴさんの居場所には気分が沈んだけれどそれでも、ぼくが対話できるのは、この人だけなのだ。
手紙と猫を抱えて、本屋を一旦出る。ここを離れるつもりはないけれど、ぼくが離れている間に崩れて、全部潰れてしまったら困る。眠気で重い身体を引きずるようにして、荒れた駐車場を抜けて無人の道路へ出た。道路の中央の、比較的綺麗な場所を選んで寝転ぶ。誰もいない。誰も通らない道路だ。動くものは、空を行く鳥ばかり。虫ぐらいは見てもいいのに、冬だからかめだたない。人はいない。本当にぼく以外死滅してしまったのかな。なんでぼくだけ?
「……お前も、向こうでだけ動くとか、ずるい」
猫を弄る。お腹をふにふにと突いてみる。リンゴさんに、ちゃんとしたご飯を貰っているのだろうか。それも羨ましい。憎らしい。逆にぼくの方で動けばいいのに。リンゴさんの世界は平和らしいから、きっと猫もうじゃうじゃいるだろう。ぼくの町にも、津波が来る前はたくさんの猫がいて、夜中に鳴いたりしていた。それが今では、死んだ猫が一匹いるだけ。
厚焼き卵とスクランブルエッグより、世界は劇的に道を違えている。
まるでぼくだけが、このなにもない町に取り残されたように。でも人の死体っぽいものを一度、見たことがある。町にはちゃんと、ぼく以外がいたのだ。残念なことに死んでしまったけど。あ、でも死んでからも猫みたいに飛んでいるかも知れないし、今度は死体にも注目しよう。
冷たく、凍ったように硬い道路の感触に、すぅすぅ、はぁと息が乱れる。身体を弓なりにして、胴を突き出す。肩胛骨をごりごりと地面で削りながら、太陽の光を一身に浴びる。
いつか冬が終わり、春が訪れたら。もう少し、明るく生きられるのかも知れない。
それまで、リンゴさんと手紙のやり取りを続けよう。そこから、なにかが生まれると信じる。
もの凄く遠くて、宇宙の果てより距離があるかも知れないけど、そんな人がぼくにとって、もっとも身近な存在なのだから。
続く
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